2-2.
そんな窓際の席には一人の男の人が座っていた。
半袖のシャツにリボンのようなものを首元で緩くクロスさせている。椅子には長袖のジャケットが掛かっていた。お仕事中かな。大きな音をたてないようにあたしは歩いた。
「お待たせしました」
そのまま笑顔でカップを置く。重みはあれども軽やかな音が静かに鳴った。よし、今回も溢れなかったぞ。
「あぁ、ありがとう」
その人は顔をこちらに向けて、通路側の左手を軽く上げる。細い目と合えばにっ、と笑いかけてくれた。鼻の真下にある短い髭と口の左下のほくろは自然と惹かれてしまうし、そんな中でにやっと笑われると少し悪そうな雰囲気も感じてしまう。
美形さんの方がすごいけど、このお客さんもイケメンだ。でも『イケメン』じゃないな。だってこのお客さん、あたしのお父さんと同じくらいか少し年上に見えるから。えっと、こういう人って確か『イケおじ』って言うんだっけ。バラエティ番組とかで聞いたことあるような、無いような。
「そういえば、お嬢ちゃん初めて見るなぁ。新人さん?」
「はい、って。えッ、は、はいッ」
突然聞こえたお客さんの声に、あたしは肩を吊り上げる。ヤバい。自分の世界に入って全然聞いてなかった。適当に返事しちゃったけど、大丈夫かな。
おそるおそるお客さんを見ると「元気だなぁ」と笑っている。怒っている感じも呆れている空気も無さそう。良かった。
ほぅと息を吐きかけて、あたしは思い出す。このお客さんになんて言われたんだっけ。あぁ、そうだった。
「お客さん、もしかして常連さんですか?」
「おうとも。おじさんはいつもここのホットサンドと珈琲、時々カフェオレを楽しみに来ている桐崎って言います。よろしくね」
「あ、はい。えっと、あたしは波須歯澪羅って言います。よろしくお願いします」
「うんうん、波須歯ちゃんか。よろしく」
桐崎さんは笑うと、マグカップを取る。飲み口を鼻に近づけると、ゆっくりと手を僅かに前へ傾けた。
「うん、良い匂い。今日も美味しそうだね」
「はい!ここのカフェラテは美味しいですよ」
あたしもつられてしみじみする。
脳内に占めていたのは昨日飲んだ一杯のホットカフェラテ。コーヒーとミルクだけの非常にシンプルなドリンクだった。けれども温めた牛乳がコーヒーの温度を下げず、余計な酸味と苦味を無くすから砂糖は一切いらなくて。ただひたすらに心地良いほろ苦さとミルクのまったりとした濃厚さを、あたしは堪能したのだった。まさに至福の一時。しかも仕事終わりの一杯だったから尚更だった。
ところが、桐崎さんは目をまんまるにした。
「あれ、ここってカフェオレではなかったかな」
「えぇ、カフェラテです。それがどうかしましたか?」
あたしの言葉に、桐崎さんは顎に手を当てた。あーだのうーだの、言葉にならない声を出している。しばらくして、桐崎さんは神妙な顔つきであたしへ問いた。
「いや、おじさんの記憶違いなら申し訳ないんだけれど。ここってサイフォンでしか珈琲を淹れてないよね。違ったっけ」
「いえ。コーヒーはサイフォンだけですよ」
「だよなぁ。いやぁ、最近立て込んでて全く来れてなかったからさ。知らないうちにエスプレッソマシンでも導入したのかと思ったよ」
あたしの答えに、桐崎さんはほっとしたように笑った。そのままマグカップに口をつけ、美味しい美味しいと口ずさむように言葉を紡いでいる。
えっ。桐崎さんどうしたの。サイフォンだと何が良かったんだろう。っていうかエスプレッソマシンって何。マシンって言っていたし、機械のことかな。ちょっと聞いてみようっと。
あたしが桐崎さんへ顔を向ける。すると、ぱちり。今まさにマグカップを置いたばかりの桐崎さんと目が合った。あたしは出そうになった声をどうにか飲み込む。まさかタイミングが合うとは思わなかったから。それに、カフェラテを飲んでいる時と比べて桐崎さんの表情も険しかったから。ちょっと臓器が冷えた気分になった。
ドキドキしたままのあたしを尻目に、桐崎さんは寄せていた眉をパッと離す。
「波須歯ちゃんさ、カフェオレって何で出来てるか知ってるかな」
「はい。コーヒーと牛乳ですよね」
「うん、正解正解。じゃあ次に、カフェラテは?」
「コーヒーと牛乳です」
あたしの答えを聞いて、桐崎さんはちょっとだけ困った顔をした。ど、どうしたんだろう。あたしってば、なんか変なことしちゃったかな。あわあわするあたしへ、「間違ってはいないんだけどねぇ」と首を捻りながら桐崎さんは続ける。
「よし、だったら波須歯ちゃん。カフェラテの珈琲って、どんな風に作っているかはわかるかい?」
「えぇ。普通のコーヒーみたいに作るんですよね。インスタントとかペーパードリップとかみたいに」
あたしは胸を張って答える。コーヒーには色々な作り方があるのだ。ということをあたしは昨日までに教えてもらった、美形さんに。
コーヒーには色んな抽出方法がある。このお店のサイフォンをはじめに、粉を入れたカップにお湯を注げばできるインスタントや、濾紙みたいな紙を使って濾過してつくるペーパードリップに挽いたコーヒー豆を水で浸した水出しコーヒー。ちなみにうちでお父さんが飲んでいたコーヒーはペーパードリップだった。お父さん曰く安いコーヒーだけど、そのコーヒーにこんなお洒落な名前があっただなんて。
聞いていてワクワクしたのは美形さんには秘密だ。だってそのことを言われたら、あたし、ちょっと恥ずかしくなるし。
桐崎さんは満足げに腕を組んだ。
「うんうん、やっぱりそっか。おじさん漸くわかったよ」
「えっどうかしましたか?」
あたしは首を横にする。当たり前のことを言っただけなのに。どんなことが腑に落ちたのか。桐崎さんの言動が理解できず、一周回ってあたしは興味が出てきた。何を言ってくれるのかな。桐崎さんは笑みを浮かべて口を開く。
「拗れてしまうから、結論から先に言わせてもらおうか。まず波須歯ちゃんの思い描くカフェラテはね、カフェオレだよ。何故かと言えばね、カフェラテはエスプレッソで作るからだ」
「エスプレッソ?エスプレッソってあのすっごく苦いコーヒーのことですよね」
言いながらあたしは頭の中でエスプレッソを浮かべる。イメージできたのは、普通のカップより二回り小さいカップに入ったコーヒーだ。イメージできたエスプレッソは、通常のコーヒーより心なしか濃い黒色をしていた。まだ飲んだことはないけど、普通のコーヒーより苦いらしいから当たっていると思う。
「そうそう。エスプレッソは普通の珈琲と比べて、もの凄く濃く抽出されるから苦味とか香りが普通の珈琲と違うんだよ」
「コーヒーじゃないんですか」
「おぉそうだね。確かにエスプレッソは珈琲の仲間なんだけど、普通の珈琲とは違う。まずエスプレッソマシンという専用の機械を使わないと上手く抽出できない点だな。というのも、エスプレッソは珈琲豆を素早く圧縮して作る飲み物でね。普通の抽出方法ではのんびり過ぎて、えぐ味とかの雑な味わいが出てきて美味しくないんだ。次にエスプレッソの抽出は、非常に深く焙煎して細かく挽いた珈琲の粉を使う点だ。本当にササッと作らなきゃいけない飲み物だから、できるだけ煎って細かくすることで抽出時間を短くするんだよね」
「へえぇ」
あたしはあんぐり口を開けていた。ぶっちゃけ桐崎さんが話し始めた頃から開けていたけれど、気に止めない。いや、止まらなかった。最近では美容にも効果があると言われているなどと、桐崎さんの言葉が右から左に飛んでいく。
すごい。
エスプレッソはただのコーヒーじゃなかったんだ。ただ苦いだけで、普通のコーヒーとそんなに変わらないと思っていた。
桐崎さんはぴんと、天井に人差し指を立てる。
「次にカフェラテとカフェオレですけど、波須歯ちゃん。おじさん、先に言っておくけども。カフェラテとカフェオレは別モノですよ、同じモノではありません」
「え、ええッ?嘘ぉ」
「嘘じゃないでーす。似ているようで作り方から結構違うんだよなぁ、この二つ」
すかさず桐崎さんが胸元でバッテンマークを作る。思わずあたしはのけぞった。両方ともコーヒーと牛乳のドリンクでしょ。どこが違うの。無性に続きが気になって、あたしは念を込めて桐崎さんを見た。
「まずカフェラテ。カフェラテはエスプレッソと牛乳で作る飲み物で、エスプレッソよりも多い牛乳を注いで出来ます。そしてカフェオレはね、珈琲と牛乳で作ります」
「ん?やっぱり同じじゃないですか」
狐につままれるってこういうことなのかな。あたしは持っていた丸い銀盆、プラッターで口元を隠す。違いが使っているコーヒーの種類しかないなら、同じようなものじゃないか。
桐崎さんはふるふると、かぶりを振った。
「そんなことないでーす。カフェラテはエスプレッソで作るけど、カフェオレの抽出方法は何でも良いんです。それこそインスタントでもサイフォンでも、珈琲であればなんでも作れる飲み物がカフェオレです。裏を返せば、使うのが珈琲なら焙煎方法も挽き方も決まりは無いって意味だから、カフェオレはお店によって味わいが違うこともあるんだよ」
目から鱗が落ちた。
反射して脳内に浮かんできたのは、あたしの部屋にあるテーブル。その上にはあたし専用のマグカップが置かれていて、小麦色の液体が入っていた。お父さんに便乗してたまに飲んでいた、コーヒーと牛乳を同じくらいの量で入れていた飲み物だ。これをあたしはカフェラテだと思って飲んでいた。でも今、桐崎さんの説明を聞いて、あたしの脳内映像は酷くぶれる。
もしかして、家で飲んでいたのはカフェラテではなくてカフェオレだったの。
途端に桐崎さんはばつの悪そうな顔になった。あたしからゆるゆると目を逸らす。
「あー。今のカフェラテじゃなくてカフェオレ云々って言葉、おじさんばっちり聞こえちゃったからお答えすると。専用の機械とかが無い限りは、素人が家で作れるのはカフェオレかな」
「うっ」
あたしはプラッターを強く握りしめる。勿論、あたしの家にはそんな専用の機械とか無い。記憶の中の飲み物が、カフェオレだと確定した。
「あとカフェラテとカフェオレの大きな違いは、使う牛乳の量と豆の焙煎方法くらいだな。そんなわけで残念ながら、いやおじさんはここの珈琲好きだから全く残念じゃないか。うーん兎に角、ここの珈琲はサイフォンで作ってるから、カフェラテではなくてカフェオレが正解だよ」
「うぅ。参りました」
降参です。
あたしは桐崎さんから顔ごと視線を逸らした。本当は叫びたいくらい恥ずかしい。でも仕事中だし、すごくかっこ悪いからそれだけは頑張って我慢する。だから、桐崎さんを直視できないのは許してくれるでしょ。多分。
あたしの頬はものすごくほかほかしていた。まるで初めて美形さんに詰め寄られたときのよう。あの時とは全然理由が違うけどね!
突如、空間を揺らすような笑い声が店内に響く。飛び上がりそうになったけど、あたしの身体は動かなかった。よしよし。後ろを見たけど、店内にはあたしたち以外はいない。入り口の扉が動いた気配もない。なら多分怒られることもなさそうだ。なら良いや。何故ならあたしは、驚きよりも恨めしさの方が強かったから。だって今のやり取りの直後に発生した笑い声って、そういうことじゃないの。あたしは発生源の桐崎さんを横目に見た。
「……笑わないでくださいよ」
「いや、だってさぁ。参りましたってもう、本当に。あぁ、面白い子だなぁ波須歯ちゃん」
言っている最中も終わった後も、桐崎さんは笑う。引きつけをおこしつつ、腹を抱えて笑っている。
うん、そっとしておこう。何となく、ツボに入ったのはわかったから。あたしはそっと曇りガラスへ視線を向ける。それにあの大きな声も最初だけで、今はサイレントだ。逆に器用ですよね桐崎さんってば。
桐崎さんは目尻を拭った。
「すまないな、波須歯ちゃん。いやぁ、ここに来る楽しみが増えた増えた!今日は来て良かったよ」
「ソレハヨカッタデスネ」
「あはは、機嫌直して直して」
それならもう落ち着いても良いんじゃなかろうか。
まだ笑い続ける桐崎さんへあたしは目を細めた。
それから1分は経ったかな。桐崎さんは落ち着きを取り戻した。カフェオレを運んできたときのように、姿勢良く椅子に座っている。でも、まだ肩を小刻みに震わしていた。完治はしてないみたい。悔しい。
でも。
あたしは逡巡した。客席の近くに長居し過ぎた気がする。特段仕事は無いし今はお客さんが桐崎さんしかいないし、美形さんに呼ばれることもなかったからずっと居座っていたけれど。流石にもう戻るべきだよね。カフェオレを口に含む桐崎さんを見て、あたしは踵を返そうとした。
「そうだ」と閃いたような声がしたのは同じタイミングだった。
あたしは声の聞こえた方向を見た。悪戯をする小学生男児のように、桐崎さんは口角を上げる。
「実はね、面白い話があるんだよ」
閲覧ありがとうございました。次投稿は24日12時です。
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