表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/21

4-7

 客席はてんやわんやだった。茶色に染まったペーパーナプキンが、机に散在していた。埒が明かないと思ったんだろう。彼氏さんはショルダーバッグからハンカチを取り出したところだった。あたしも加勢しようと足を早める。

 そんな時だった。





 目の前で人影が横切った。


「本当に、仕様の無い人」

 そう彼女さんは言った。

 彼女さんは彼氏さんの机の傍でしゃがむ。持っていたハンカチで机を拭いた。

 じわり。白いハンカチが茶色に染まる。青いスカートの裾が、黒色に濁る。

 彼氏さんはあっけに取られていた。しかし、すぐにハッとした顔になると自らも机に近づく。あたしも我に返って、二人に近づいた。


「すみません、ご協力ありがとうございますッ。グラスもお下げいたしますね」

 言うが早いか。あたしはプラッターに、空になったグラスとナプキンの残骸を集める。床の氷は既に消えていた。ポケットに入れていたダスターで机を拭くと、風のようにカウンターへ戻る。グラスを水野さんへ任せて、ごみを捨ててプラッターを保管場所へ戻す。控え室への扉をくぐり、裏手でモップを手にしたところで、頭が常温まで下がってきた。ころりと落ちた疑問をキャッチする。あの二人、どうしてるかな。


 バケツを片手に、そろりと店内へ戻る。カウンター内では手を拭く水野さんと、静かに客席を眺める晃さんがいた。あたしはすぐ傍の壁に掃除用具を置く。晃さんに倣って、静かに視線を向けた。





 二人は真っ直ぐ前を向いて座っていた。気難しい顔で、お互いに黙り込んでいる。でも、肌を裂くような空気は霧散していた。

 ぼそりと、彼氏さんが切り出す。

「汚してしまって良かったの。お気に入りなんだろう」

「良いのよ」

「やらなきゃ良かったのに」

「やりたかったの」

「俺が不甲斐ないだけだったのに」

「誰にでもあるわ」


 ぐっ、と。死角なのに彼氏さんが唇を噛んだのがわかった。彼氏さんは彼女さんの席の反対方向に、俯く。しばらくして、絞るように悲しげな声が聞こえてきた。

「いつも、そうだ。俺は不甲斐ないばかりだ。何もできない、何も上手くできない。お前に、気を遣わせてばかりで。本当に、俺、どうしようもない、な」

 はは、と乾いた声がした。力なく首を振って、彼氏さんは彼女さんへ顔を向けた。

「矢っ張り、別れようか。お前は、もっと別の人と一緒にいた方が良いよ」

 あたしは口元に手を覆った。本当に別れちゃうの。折角、冷静になれたみたいなのに。良いの、こんな終わりで。少し鼻がつんとするのを自覚しつつ、あたしは成り行きを見つめた。




 彼女さんは黙って彼氏さんを見ていた。何回か瞬きをして、彼女さんは口を開く。

「ねぇ。あたしのこと、嫌いなのかしら」

 彼氏さんは答えなかった。顔を少し下へ向けて、目を逸らしていた。彼女さんは返答を待っていたようだった。けれど、一向に返ってこない現状に溜息を吐く。切れ目の目元を細めた。

「そう、じゃあ。嫌いってことで良いのね」


 瞬時に彼氏さんは彼女さんへ向いた。

「そんッ、い、いや。なんでも、ない」

 だけど、またしても彼女さんから顔を背けてしまう。彼女さんは動じた様子も無く続ける。

「なら。あたしのこと、好き?」

 彼氏さんは答えない。彼女さんは分かっていたみたいだ。「どっち?」なんて延々と彼氏さんへ訊いている。はわわ。両手が震えそうになる。また雲行きが怪しくなるんだろうか。またあの怖い雰囲気を見るのは、あたし、ちょっと嫌だ。



 焦れたように、彼氏さんは彼女さんへ向いて、叫んだ。

「あぁ、もうッ。未だに好き、好きだよ、決まってるだろ、悪いかよッ」

「そう」

 ひぇ。彼女さんは短く返事をするだけだった。怖い。

 彼氏さんはきッ、と強く彼女さんを睨んだ。しかし彼女さんはふい、と正面へ身体を戻す。気に病んだ素振りは無い。


 何か言おうと、彼氏さんが口を開けた。しかし。その前に、彼女さんは言う。

「被害者面しないでくれる」

「は、はぁッ?なんだよそれッ」

「それと、勘違いもしないで。あたしは貴方が不甲斐ないことくらい、ずっと前から知っているわ」

「な、ならッ。別れても、良いんじゃ」

 もごもごと、俯きながら彼氏さんは言う。でもその言葉は最後まで続かなかった。「あのね」と彼女さんがぶった切ったからだ。


「その不甲斐ないところを直そうと只管頑張っている人が、あたしは堪らなく愛おしいの。頼らないように、良いところを見せられるように、なんて。一所懸命な貴方が大好きなのよ、(とも)





 呼吸が止まった。


 呼吸が止まっていたことに、息が苦しくなってから気がついた。

 声が出ないように、一層強く手に力を込める。え、ねねねッ、ねぇ。今なんて言ってた、なんて言っていたのよッ?

 義、と彼女さんが言った瞬間。彼氏さんは彼女さんへ振り返っていた。そこから、身じろぎ一つしていない。彼女さんは前を向いたまま、続ける。


「だけど、あんまりにも貴方、頑張りすぎているから。すごく不安にもなるの。もっと、あたしに寄りかかって欲しい。彼女なんだから、一緒にいるんだから頼って欲しいの」

(あん)......」

 彼女さんは、杏さんは言い終わるとマグカップへ視線を落とす。彼氏さん、義さんは声を失っていた。少しだけ、義さんの右肩が動いたような、そんな気がした。


 何、何これ。ちょっとよくわかんない。展開が早すぎて急すぎてよくわかんないッ。でも、でもでも、一つだけ。一つだけなら、はっきりわかっていることがある。

 これ、一切の邪魔も見逃しもしちゃあいけないッ。



 脱力したように義さんは背もたれへしなだれた。

「なんだ、そう、だったんだ。てっきり、てっきり俺が駄目だから、お前が気負い過ぎているんだとばかり」

「ねぇ、ずっと訊いてみたかったのだけれど。その気負うとか、気を遣わせてばかりとか。まるきりあたしには身に覚えがないのだけど」


 杏さんが困惑したように、義さんを見つめる。義さんは意外そうな声色で言った。

「え。だって杏、どこか無理していないか」

「何。あたし、何処も無理しているところなんて無いわよ」

「だって、お前。例えば、服とか。お前スラックスとかのシンプルで格好いいタイプの、大人っぽい種類のものが好きだったろ。なのに最近、フリルのシャツとかふわふわしたスカートとか。可愛らしい服をよく着るようになったじゃないか」

「え」




 え。

 びっくりして、あたしは義さんから杏さんに視線の中心を移す。杏さんも目を丸くしたまま、ぼんやりと義さんを見ていた。義さんはそのまま言葉を紡いでいく。

「最初は趣味が変わったのかなって思っていたけれど。ショッピングに着いて行ったときに見た顔からして、そうでも無さそうだったから、違うんだろうなと。もしかしたら無理させているのかなって」

 あ。違う、多分それ違う。あたしは小さく首を振る。それから杏さんを見て、確信した。義さんは気づいていない。

 杏さんの耳が、真っ赤になっていることを。


 杏さんの服のタイプが変わった理由。それは十中八九、義さんが原因だ。多分アレじゃない?義さんが可愛い服着てる子が好きとか、そんな情報をゲットしたんだよ。だから、それに合わせて服の種類変えたんだよ。うん。そうだよね。あたし、初恋すらまだだけど、それくらいはわかる。だって女の子だもの。

 義さんは少しだけ、そっぽを向いた。ちらりと見えた頬は、杏さんの耳と同じ色をしていた。

「まぁ、そりゃあ、さ。今みたいな服を着た杏も可愛いけれど。好きな服を着て笑っている杏も同じくらい可愛かった、っていうか。そもそもいつも可愛いっていうか」

「そ、そう。そうなの、ね」

 


 杏さんが言い終わると。ぶつり。お互いに黙り込んでしまった。しかしながら。漂う空気はこれまでと全く異なる種類のものだった。胸は暖かく、そわそわ落ち着かない。いや、暖かいを通り越してもたれてくる頃合いかもしれない。

 眺めていると、突然。同じタイミングで、二人が弾かれたように背筋を伸ばした。あ、不穏。そう思った瞬間に、客席から視線が一斉に注がれた。や、やばッ。急いであたしは、くるりとモップの方向へ身体を向ける。


 背中の遥か向こうで、ひそひそと男女の声がする。

「......たから、出ましょ......」

「そ......ようかッ、それが良......」

 しばらくすると、ぴたりと内緒話が収まった。かと思えば、がたがたと椅子の音が鳴る。互いにバッグを肩に下げつつ、二人はそそくさと出口へ足を進めていった。「ありがとうございました」という水野さんの声にも、下を向いたまま過ぎていってしまった。けれど、ドアから出る前に二人とも真っ赤な顔で会釈をしてくれていた。最後まで大人な人たちだった。






 あたしは黙ってプラッターを取った。机を片付けて、カウンターへ帰る。ゴミを捨てて、プラッターを戻した。瞬間、あたしは重たくため息を吐く。やらかした。

「やらかした」

 声にも出ていた。でも、全部どうでも良いや。モップを掴んでそのまま愚痴を出す。

「うう、もっと見ていたかった。カレカノ、カレカノおぉ」

「まぁ、ドンマイ波須歯さん。こういうこともあるよ」

 水野さんが労るように声をかけてくれた。少し心が軽くなる。優しさはプライスレス。涙が出そうだ。

 あれ、そういえば。あたしはハッとした。ぎゅるんと、高速で水野さんと晃さんを見る。

「っていうか、なんであたしだけ、あたしだけ注目されたんですかッ。二人とも全部見てましたよねッ」


 そう。

 先程注がれた二人分の視線は、あたしのみに集中していた。同じカウンター内に水野さんも晃さんもいたのに。なんなら晃さんはイケメンな上に私服なのに。派手な私服じゃないけどさ。

 静かに肯定する晃さんの横で、困ったように水野さんは笑う。

「こればっかりは、経験だねぇ。今みたいにガン見するわけではないけれど、お客さんの様子を違和感なく見るのもお仕事のうちだから」

「そ、そんなぁ」

 およよ。切なくなって、あたしは肩を落とした。経験を積めばあたしでも出来るってことだ。それはわかる。でも、でもッ。今、まさに今出来ていたかった。激しくそう思う。



「次は上手くできるよ。頑張っていこうね波須歯さん」

 水野さんが優しくあたしの肩を叩いた。くっ、優しさが暖かい。水野さんの背中から光がにじみ出てきている。そんな幻覚をあたしは見た。

 その横で、無表情で晃さんが親指を立てる。

「波須歯さん、頑張ってね」

「いや、うん。晃も大概だけどねぇ。まぁ、晃の場合はお客さん側も目を逸らしたり見つめたりするから。あまり印象に残らないんだろうなぁ」

 あ、そうなんだぁ。

 ははは、と水野さんはそのままの表情で笑う。ただ、笑い声を聞いていて少しだけ哀愁を感じた。あぁその気持ち、理解できる気がします水野さん。モップを置いた場所へ近寄りながら、あたしは雲の上に想いを馳せた。






 あぁでも。

 掃除用具を手にあたしは思う。いつもはカフェオレだけれど、今日の一杯はブラックコーヒーが良いかも。それで、さっきの光景を浮かべながら飲みたいな。一組のカップルが、並んで消えた後ろ姿を。あれは、きっと良いものだったから。そう思えば、うん。今日の終わりがすごく楽しみだ。


 踊る胸と共に、あたしはカウンターの外側へ一歩踏み出した。

閲覧ありがとうございました。


良かったと思ってくださったら下記で評価等してくださると嬉しいです。

(※簡易的ですがいつも評価ありがとうございます、マジで気力に直結してます)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ