4.白か黒か、それともブラウンか
今年の夏も暑いですね。
6月の終わりの今が既に暑いのできっと8月も暑いです。わかります。
天照らす陽光の栄華、ここに極まれり。
もうすぐ立秋、という今日この頃。あたしはコーヒーの香りに包まれていた。クロックヴィクリアンのカウンターの前に立つと、机上の敵をギロリと睨む。
フラスコは白くぼやけていた。爛々と燃えるアルコールランプの炎が、フラスコの底に当たっている。フラスコ内は過半数を液体が占めており、ぐらぐら、ぐらぐらと煮立たせようと必死だ。お湯を作ってから入れているから、水よりかは簡単だろうけど。
でも、でもだ。あたしは更に眉を寄せた。フラスコの表面が湯気で見えないのはいただけない。沸騰したら漏斗の準備をせねばならないのだ。それにフラスコは火に当て過ぎてもいけないらしい。壊れる原因になるとかで。だからフラスコが白く曇って中が見えないのは非常に、ひッッじょーッに、困る。困ったところで何も解決しないけどさ。
どうしようかな。
あたしはサイフォンを観察した。背伸びして上から見たりしゃがんで下から見たり、少し後ろに下がって斜めから見てみたり。フラスコは動かさないように、アルコールランプと火には触れないようにしつつ。丸裸にさせるくらいに観察して、重く溜め息をついた。全然、解決策が見つかりませんでした。
肩を落としていると、後ろから乾いた足音が聞こえた。
「どうかしたの、波須歯さん」
カウンター奥の控え室を背に水野さんは言う。人の良さそうな顔に疑問符を貼って、あたしを覗く。あたしは温め中のサイフォンを示した。
「フラスコが真っ白になっちゃって。沸騰してるかどうかわかんなくなっちゃったんです、どうしたら良いんでしょうか」
「あぁこれね。そういうときはフラスコの底を見てご覧よ、波須歯さん」
「底ですか」
あたしは首を傾けながらフラスコの丸い底辺部分を見る。お湯があるエリアは透明なままだった。水野さんはあたしの隣へゆっくり来る。
「この辺りに、小さい泡みたいなものがあるだろう?これは気泡でね、出てきた直後に沸騰するってサインなんだ」
「そうなんだぁ。って、えッ、あッ。ででで、でも気泡ならお湯を作ってるときにも出てたんですけど、あれとは違うんですか?」
はわわ。タ、タメ口で話しちゃった。あたしは焦った。焦った拍子に心の中身をそのまま吐露してしまう。ま、まぁ、水野さんは優しいから許してくれると思うけどさ。ここの店長だしあたしよりずっと年上だし、そういうところはあんまり甘えちゃだめだよね。きっと。水野さん本人は、特に顔も声も色を変えること無く続ける。
「確かに、広く見れば仲間と言えなくもないんだけれどね。最初の気泡は冷水の中にあった空気から出来たもので、沸騰するときに出来る気泡とは別ものなんだよねぇ」
水野さんはそこまで言うと、サイフォンを見て短く声を上げた。つられてあたしも視線を移せば、フラスコの中のお湯はマグマみたいになっていた。やばッ。
「あわわ、波須歯さん波須歯さん、お湯沸いてる沸いてるッ」
「ほほ、ホントですねッ準備します!」
言いながらあたしは漏斗をセットした。
瞬間。
ずごごごと喚きながら、お湯が漏斗へ吸い込まれていく。漏斗の蓋を開けると、あたしの周囲を豆の香りが一斉に駆け抜けた。刺すような香ばしい煙の中に、ぱんぱんぱんとレモンが弾ける。はぁ、良い香りだなぁ。思わず浸りそうになって、あたしは首を振った。ここからは時間との勝負なのだ。止まっている場合じゃない。
漏斗の中は並々ならぬ速さで水位が上昇していた。セットしてからずっと、休むこと無くどんどんお湯を吸いとっているからだ。だから、もうすぐフラスコからお湯が無くなりそうである。でも、ちょっと面白いや。あまりにもスピードが速くて、まるで動画を早送りしているみたい。
なんて思っていれば、ぴたっと上昇が止まった。そろそろだぞ、頑張れあたし。あたしはセットしていたタイマーのスイッチを押す。そして、傍らに置いていた木ベラを漏斗の中へ突き刺した。
ぐるぐる、ぐるぐる。
漏斗内でお湯と粉が溶けていく。透明なお湯が黒く鈍く光るように、もっさり沢山あった粉がすっかり減って消えるように、徐々に確かに変化していく。コーヒーの粉の粒々が見えなくなってきたくらいで、タイマーの音が鳴った。あたしはランプの火を消す。ゆっくり水位が下がる漏斗の中、少し冷気が染みるようになった手であたしは混ぜる。
液体の表面に、白っぽい泡が大量に出来る頃。漏斗の中は空っぽになった。フラスコを見れば、黒くて煌めくコーヒーが香りを放っていた。その量は最初に入れたお湯と同じくらい。ということは、完成だよね。や、やった。あたし、一人で最後まで出来たんだ。
脱力するあたしの横から水野さんの腕が伸びる。真面目な顔でフラスコを取ると、小さいカップへ少しだけコーヒーを注ぐ。そのまま水野さんは飲んだ。
自然と、あたしの木ベラを掴む力が強くなる。忘れていた。味が肝心だったんだ。ど、どうかな。上手く出来ているのかな。
遠くで時計の針の音を聞きながら、あたしは水野さんの様子を見る。暫くして、水野さんは静かにあたしへ向いた。
「うん、ばっちり。美味しく出来てるよ、波須歯さん」
そしてにっこりと笑った。よ、良かったぁ。今度こそほっとして、あたしは大きく息を漏らした。
「良かったです。フラスコがぐつぐつしてたときはどうなるかと思いました」
「あぁ、大丈夫大丈夫。あれより激しく煮立つと不味いことになるけど、ギリギリ許容範囲だったよ」
水野さんは軽快に笑った。そうなんだ。あたしは深く呼吸しながら頷く。コーヒーを淹れるのって奥が深いんだな。次は気をつけよう。フラスコが曇ったときは、底にある気泡を見るんだよね。
あ、そうじゃん。
あたしは水野さんに問た。
「あのぅ。さっきの続きって教えていただけたり、しますか」
「え?あぁ、そういえば気泡の話が途中だったね。良いよ良いよ、お答えしようか」
水野さんは鷹揚に頷く。しかし、突然ぴたりと止まった。口を半開きにしたまま、表情も一緒に固まってしまった。「あのぅ」と軽く声をかけてみてもダメだった。何だろう、どうしたんだろう水野さん。
あたしはじっと待つ。すると耳はこんな音を拾った。
「そ……えば……たし……さっきギリギリだったときって僕が話しかけちゃったときだし、もしかして波須歯さんが危うかったのって僕の所為なんじゃ……あっ僕はまた…あぁ」
あたしは聞かなかったことにした。
しばらくしてから。フリーズの溶けた水野さんは口を開く。
「お湯が沸騰すると水蒸気になることは知っているよね」
「はい。液体から気体になるんですよね、学校で習いました」
答えつつ、ほわんほわんとあたしは理科の実験を頭に浮かべる。イメージの中では、網の上のビーカーが三脚の下のアルコールランプで温められていた。
わかった。この映像、小学校二年生でやったときの実験だ。楽しかったけれどマッチが上手く付かなくて苦戦したのをよく、よぉく覚えている。意外と漫画みたいにささっとは出来ないんだよね。ちなみにこのお店はライターで火をつけるので、めちゃめちゃ簡単でした。
水野さんはシンクの蛇口を一瞥する。
「お湯に始まったことではないんだけれど、水って色んなものが含まれているんだ。例えばカルキ、いや、今の子は塩素って言うんだっけ。塩素とか窒素とか、あとは酸素とかね」
「へぇえ。あれ、でもなんか聞いたことあるような」
首を捻ると水野さんは微笑んだ。
「そうか、波須歯さん高校生だったね。ならもう習ってたかな。ま、そんなわけで水には色々な気体が含まれているんだけど、何がどれくらい溶けてるかなんて見えないよね。それらは液体の水の中にいるから見えないんだけど、水を温めてお湯にしていけば、波須歯さんはどうなると思う?」
水野さんの言葉に、あたしは腕を組んでみる。えっと、水をお湯にするんだよね。温めると液体は気体になるんだから、結果的に水の量は減っちゃうじゃん。でも温めているのは水で塩素とかには何もしてないから、塩素とかの量って変わらないんじゃないのかな。
あッ。
あたしは顔を上げた。
「気体の溶ける場所が少なくなりますッ、だからお湯を作るときは気体も水からいなくなっていくんですね」
「うんうん、大体そんな感じかな。水に熱を加えてお湯にするときは、溶けている気体も熱によって力が溜まっていくから、自分から揮発していくんだよね。お湯を作るとき、全く沸騰しそうにないのに気泡が出来るのは、その揮発の所為だよ」
「そうだったんですね」
あたしはサイフォンを見る。さっき水野さんが手にしたフラスコは、いつの間にか定位置にいた。中では黒々としたコーヒーが照明の光を纏って揺蕩う。あのコーヒーの中にも、目に見えない何かが沢山いるのかな。
水野さんにべこりと頭を下げた。
「水野さん、ありがとうございました。また次に作るとき、頑張ってみます」
「うんうん、よろしくね波須歯さん。コーヒー美味しくできてたから、この調子で頑張って」
水野さんはそう言うと、笑ってグッドサインをしてくれた。あたしは元気に答える。つい嬉しくて両手でガッツポーズを作っていた。あたしは褒められるとすっごくやる気が出るのだ。ふふん。そうよ、あたしは単純だよ。単純で何が悪い、むしろ単純上等でしょ!
よぉし、他の仕事も頑張るぞッ。
閲覧ありがとうございました。次投稿は13日12時です。
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