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prologue

黒髪少年とお姉さんと日常と恋愛と少しのファンタジーの話です。



*prologue






雑踏の中、

名前を呼ばれたのには気が付いた。


だけど、返事ができない。





大きな道路をまたぐ横断歩道の向こうの人だかり、その中のサラリーマン風の男の後ろで、談笑しているその3人組の男女の人影から目が離せなかった。


嘘、と何度も心の中で呟いた。


私はその時、息をするのも忘れていたと思う。

無意識に一歩前に踏み込んだ鼻先を掠めるように大型トラックが横切っていったので、ようやく我にかえった。


危ない、どうしたの。

青ざめた顔で私の腕を掴んで数歩後ろに下がらせる、彼はその背中に疲れて眠ってしまった娘を負ぶっている。


「知り合いでもいた?」

「う、うん……」


無理矢理笑いに似た表情を作って、自分でも、否定なのか肯定なのか分からない曖昧な返事を打つ。もう一度、私は向こうを見る。祝日も仕事の人間が散見されるビジネス街の交差点。外回りの移動中だろうか。カツカツとヒールを鳴らしスーツで歩いてゆく若い女性、グレーのスーツを着てくたびれた顔をしながらスマートフォンを見る中年男、その後ろに……。


視線を彷徨わすとそのうちに、目の前を大きなボックスカーが横切る。


それが通り切らないうちに、対向車線をトラックが2台通過した。待ちきれず痺れを切らしそうになる。それが行きすぎると、いつのまにか信号が青になっていた。

視界がひらけた瞬間、今度こそ私は、その言葉を口に出して言った。


「……嘘」


前に進もうとした彼が、怪訝な顔で振り返る。青だよ、と、その口が言っている。

私は、動き出した雑踏の中、後ろの人が邪魔そうに舌打ちして私の肩にぶつかっていっても、そのままたちすくんでいた。


いなくなっている。

さっきは、確かに、そこにいたのに。

あの髪の色、見慣れた懐かしい癖っ毛。見紛うはずもない……。


信号待ちで滞り、止められていた人達は、ほぐれて流れてゆくように個々に動き出していた。右を見て、左を見て、行き交う人の顔を見回しても、もうどこにもいない。どうして? 確かにいた。あの車が横切るまでは。確かに見た。笑った顔が見えた、声も聞こえた気がした。がさつに大笑いして、壁越しにも聞こえた、10代の男の子らしい、少し粗野でどこか繊細な、あの笑い声……。


「青になってるよ」


夫がまた私の腕を取って、気持ちを現実に引き戻す。引っ張った。


「ごめん。……ぼーっとしてた」


私もようやく口にして、駆け出すように前に進んだ。彼の背中で眠っている娘のつぶれた可愛い頬っぺたを、人差し指で少し触れて、「よく寝てるね」と言ってあげる。


「知ってる人でもいた?」

「うん、結婚する前にさ、こっち住んでたときの、お隣さん」

「ああ、大学生とか言ってたっけ?」

「うん……」


大学生ではない、というのは、住んでいるうちに分かった。彼にも当時話したはずだが、忘れているようだ。

忘れたって仕方がない。あまりにも、他愛のないことだ。


「どこにいるの?」


彼が左右を見回すそぶりをする。もう、向こう岸にいた人はほとんど、横断歩道を渡り終えている。私たちの前にいるのは私たちと同じ側で信号を待っていた人たちばかりだ。


「それがね、見間違いだったみたい」

「なんだよそれ」


彼は笑うと目尻に皺が寄る。私はそれを見てーーーーいや、私のこの発言を彼に笑ってもらって、安心する。


あれから15年。私達はそれぞれ仕事を続けながら、彼の転勤、それに伴う引越しを経て、結婚、娘が一人いる。

いろんなことはあったが、変わらず仲良くやってきている。


「でもさ、本当、気をつけて」


彼が私のお腹を撫でながら言った。私もそれに重ねて自分のお腹を触る。二人目は、現在5ヶ月だった。お腹もぽっこり膨らみ始め、時々は中から蹴られるようになった。性別はもうすぐ分かるようになる、とのことだったが、元気がいいからきっと男の子だ、と夫婦で意見が一致していた。


「そうだよね、ごめん」


ふふふと二人で笑い合う。

これが幸せ。今の幸せ……。

私は強く思った。


それなのに、さっき確かに見た、幻のような3人組の姿を、もう人のまばらな信号のふもとにまだ探してしまう。


懐かしかった。そう、とても。


だってーーーー変わってなかったのだ。


15年前から、姿形、なにひとつ。

まるで、時が止まったみたいに。


そんなことがありえるだろうか?

ありえない。きっと見間違いだ。

そう言い聞かせても、クラクラするほど、記憶が勝手に蘇ってきた。


あの頃、ボロアパートの5階のエレベーターの前で、公道に出る前の駐輪場の横を通って帰ってゆく二人を見下ろしながら、タバコを吸っていた彼の、その視線の先の二人の、あの姿。安そうなパーカー、ボロボロのジーンズ、雨が降ると雨漏りをした共用部分の薄い屋根。

吸っていた煙草を慣れた仕草で靴底で踏んでから、マンションの排水装置の溝に落として、両腕を頭で組んだ姿が蘇る。すこし拗ねた顔で、下唇をつきだして。横恋慕なのだ、と打ち明けた彼が続けた言葉、その幼さの残る声音まで、今も耳元に蘇る。


ーーーー大人って、どうしたらなれんのかな。

ーーーーいつかじゃなくてさ、今すぐ……。


また、ぼけっとしてるよ。

今は私の夫、娘の父親でもある、あの頃からの彼が、私にまた注意を向けた。


「ほんとだね、ごめん、ごめん」


私はまた少し笑う。


ーーーーねえ、少年くん。

もう名前も忘れちゃったけど、あなたの片想い、実ったの?

今も変わらず、好きなのかしら。


あの切ないくらい真摯な横顔を今も思い出す。

あんな恋ーーーーあんなに、横で見ているだけで泣きたくなるほど直向きな恋は、自分にはきっと、もう二度とできないだろう。

恋が叶ったならいい。

もうとっくに終わった昔のことになって、笑って思い出せる出来事になっていたらそれもいい。

もう、会うこともきっとないから、分からないけど……。


さっきすれ違った気がした、変わらないあのあどけない横顔を思い出した。


今もどこかで、きっと幸せに、生きているのかな。

この星のどこかで。


私は心の中で一人で呟いて、横断歩道の最後の白線を、家族の待つ先まで踏み越えて行った。




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