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おおいなるエビス

作者: Phantommaster


 水平線には濛気が漂っていた。

 東京湾大井埠頭は、初夏の陽射しをうけてうすぼんやりとしていた。

 向こうに見えるはずの房総半島も見えない。

 昨日とはうって変わって海は凪いでいた。昨日も快晴だったが、埠頭を洗うかのような高波がコンクリートの堤防を打ち付けていたのだが、今はもう、あれは一体どこに行ったのだろうかと思うほどの静けさにつつまれている。

 波打ち際のテトラポットを眺めながら、私は堤防の端を歩いた。

 弱い海風が頬を撫でる。

 それに乗って漂う、磯の香りと海棲生物の腐臭。

 臭いに釣られてテトラポットをじっと見つめると、海面より下にあった部分には、何か白いものびっしりと付着していた。何かと思って覗いてみたが、なんのことはない、ただのフジツボだった。山なり姿の先端が凶器のようにぎざぎざとした貝が、幾重にも化さなってコンクリートの表面を飾っている。

 あれで膝でも擦ったら、盛大に傷がつくだろう。

 私が心に浮かんだのは、そんな愚にもつかないような感想だった。

 やすりのようなフジツボの傷はなかなか治らない。膿んで、痛むだろう。しばらくは、歩けなくなるに違いない。そして、やっと治癒したと思ったら、数ヶ月後には足にフジツボの子供が生えてくるのだ。きっと。

 続いて浮かんだくだらない妄想が、私を笑わせた。

 フジツボに傷つけられたからどうだというのだ。今ここに至って。

 フジツボのことを頭の隅に押しやって、私は埠頭全体を見渡した。

 沖合いにタンカーが見えるほかは、停泊している船はない。人間も少なかった。数人の釣り客が、かなりの間隔を置きながら点在しているだけだった。しかも、全員が全員に、釣りを愉しんでいるのではなく、ただ漠然と釣り糸を垂れている。それもそうだろう。私は思った。最近釣りが流行っているとはいえ、人気があるのはバスフィッシングや沖釣りの方であって、大した獲物のない東京湾の堤防など、うらぶれた人間が来る場所だと相場が決まっている。

 点在する釣り客の中から一人を選んで、私はその背後に近寄った。

 痩せた中年の男だった。顔の半分を覆うほどの大きなサングラスをかけている。その下に皺の刻まれた頬が垂れていた。頭髪にはちらほらと白髪が見え、外見からすれば初老というのが妥当だろう。だが、一見ではそうかもしれないが、肌の張りが失われておらず、年齢としては四十過ぎくらいだと思われる。

 いろんなものが、実年齢以上に外見を老いさせているに違いない。要するに、落ちぶれた人間だということだ。恐らく家族はいないだろう。いや、昔はいたかもしれないが、今はいない。もしかしたら、家もないかもしれない。

 どうしようか、と私は迷った。この男でもいいかもしれない。

 実のところ、声をかけるのは誰でもいい。ただ、この男をにはなんとなく懐かしい雰囲気を感じていた。それに、なんとなく自分と同じ匂いがする。

 背後に立った私に気づき、男はサングラスごと顔を向けた。黒いレンズに、私の顔と太陽とが写っている。数十秒見つめた後、男は無精ひげの伸びた口元を広げた。

「釣れてねえよ。それに、これからも釣れねえ。見るだけ無駄だ」

 男の隣には、小ぶりの鞄に釣具が仕舞われている。といっても、大した道具はない。釣り糸のほかには、大きな白木の餌箱があるだけだった。大した仕掛けも用意していないようだった。それは、はなから釣ろうという意志を放棄しようとしているようにみえる。

 私が返答に躊躇していると、男の方が声をかけてきた。

「釣れない釣りが好きかい。あんたも暇なひとだな」

「暇? 暇ですか・・・・・・。自分では、暇とは思ってないんですが、考えてみれば確かに暇なのかもしれません」

「ふうん。そう言うことかい」

「判ったんですか?」

 納得した男の様子に、むしろ私が驚いた。率直な感想だったが、他人にわかるとは思えなかったのだ。だが、男はあっさりと私の心理を説明した。

「あれだろう。つまり、自分では何かを大切なものを探しているんだが、そんなものは傍から見ればやたらとつまらないものだってことだろう。他人にはボンヤリしているようにしか写らないし、何を探しているかを言っても、暇だと思われるだけってことだ」

「よくわかりますね」

 本当に驚いた。それが顔に出た。気が付いたのか、男はサングラスの下にある顔の半分を笑わせて言った。

「簡単だよ、俺も似たようなもんだからな」

「そうなんですか?」

「ああ、そうだ。だから判るんだよ。あんた、あれだろ。要するに、死ぬ場所を探しに来たんだろ?」

「・・・・・・ほんと、よくわかりますね」

 感嘆した私に、男はふんと鼻を鳴らした。

「別に珍しくないからな。自殺志願者はよく来るよ。もっとも、飛び込むふんぎりをつけられるのは、ほんの一握りだがな」

 そう言って、男は二百メートルほど先で海を見つめている若者を指差した。二十代半ばというところだろうか。私と同じくらいの歳のようだ。夏だというのに、コートを来ている。堤防から海面に半身を晒しながら、微動だにしない。

「あいつは、ここ半月くらい毎日来ている。でも、なかなか死にきれないらしいな。今じゃあ、もう心配して近くに寄るやつもいなくなったよ」

「なるほど。確かにそんな感じですね」

 曖昧に私は答えた。若者は、今にも飛び込もうという姿をしている。だが、別にそれ以上の興味は湧かなかった。死にたいやつなんて、ごまんといるのだ。いちいち気に掛けてなんかいられない。

 それよりも、男の言葉の別の部分が気にかかった。私はそれを口に出した。

「ちょっと訊いていいですか?」

「ん、なんだ?」

「毎日来てるのを知ってるってことは、あなたも半月以上通っているわけですよね」

 男は少し面食らったような表情を浮かべた。

「あんた変なことに気が付くな。まあ、ここに通って三月になるな。古株ってわけでもないが、皆勤賞はさすがに居ないからな。最近のこの辺りのことで、俺より詳しい人間はいないんじゃねえか」

 男はそう簡単に言ったが、口ほどに楽なことではないはずだった。今は五月で陽気もいいが、三ヶ月前というとまだ二月だ。真冬である。雪のふった日もあった。それに、三月の春雨だって身体を濡らすことに変わりはない。もし、本当にそんな日まで釣り糸を垂れているというのは、これは尋常ではない。

 私の興味はさらに増していった。思い切って私は質問してみた。

「それで、何を探しているんでしょうか?」

「何って、そりゃあな・・・・・・。いや。それより、あんた死ぬのは止めたのかい」

 男が視線を逸らすように海面を向き、私の質問をはぐらかした。私は、あえて話を元に戻さすに男が逸らした話題に乗った。

「いえ、そっちはもう諦めたんです」

「諦めたって、自殺をか? 生きることをじゃねえよな」

「ええ、私は死ぬこともできないような人間なんですよ。いざ、自殺しようとしたときすら失敗している」

「そんなもんさ。まあ、陳腐な台詞だが、死んで花実がなるわけじゃねえしね。死ねなかったんなら、その方がいいさ」

「ああ、違うんです違うんです」

「違うって言われてもな。どう違うんだよ」

「聞いてもらえますか?」

 そういうと、男は口元に苦笑を浮かべた。

「そりゃあ、ここまで聞いて嫌だとはいえないだろうが。好きなだけ話してみろよ」

「じゃあ、お言葉に甘えまして・・・・・・」

 私は、男の隣に座った。座るときに男の首元が見えた。垢で汚れていた。それに、離れているときは判らなかったが、服も垢で汚れている。汗と饐えたような体臭がした。やはり家はないのだろう。むろん、職もない。あたりまえだが、仕事があったらこんなところに通ってはこない。

 もっとも、それが気になったわけではない。所詮私も同類である。

 私は尻の下に挟まった干からびた藻を海に投げ捨てた。

「神は誰にでも必ず一つ才能を与えてくれているって、そういう話は信じますか?」

「なんだい、やけに唐突じゃねえか。まあ、俺には信じられなえがな。自分にゃ、まったく才能の欠片もなかったからよ」

「そうでしょうか。でも、いちがいに否定することはありませんよ。もしかしたら、まだ気がついていないだけかもしれません。望みはあります」

「無理言うなよ。この歳まで生きてみりゃ、手前の実力くらいわからあ。それよりも、あんたの方が望みがあるんじゃねえのか。まだ若いんだからよ」

「私ですか。私は、間違いなく才能があるんですよ。世の中の誰も持っていないような才能がですね」

「そりゃ、結構なことだ」

 面白くもなさそうに男は言った。信じていない様子だった。いや、例え信じたとしても面白いことではないだろう。何しろ、他人の才能だ。それを聞かせたとしても、単なる自慢に過ぎない。

「何か結構なもんですか」

 私は思わず立ち上がった。狭い堤防の上でバランスが崩れた。危うく海に落ちそうになったが、なんとか立て直す。

「確かに私には才能がありますよ。でもね、才能ったって種類があるんですよ。約に立つ才能ならまだしも、一文にもならない才能を貰ったって、どうにもなりゃしない。しかも天は二物を与えずっていうじゃないですか。私の才能は、これで終わりですか」

「興奮するなって。折角やめたのに、海に落ちるぞ。それにそんなに卑下することもねえだろうに。世界でたった一つの才能なんだろう? 胸を張ればいいじゃねえか」

「判ってませんね。全然判ってない。こんな才能持った人間じゃないと、この無力感は理解できませんよ」

「そりゃあ、わからねえよ。だいたい、どんな才能なんだ」

「ああ、そうでしたね。すみませんでした。何かを言っていなかった」

 私は再び堤防の上に座った。それと同時に、興奮した分だけ反動のように鬱になる。

「水死体ですよ、水死体。水死体に遭遇するっていうのが、私のたった一つの才能なんです。このくだらない能力が、天が与えてくれたかけがえのない才能なんです」

 男が、困ったような眼をした。いや、そう思った。サングラスの奥でそういう眼をしたに違いない。私はきつい視線を男に投げた。

「信じてませんね?」

「そういわれてもなあ。そうそう、信じられるわけじゃなえよ。水死体ねえ・・・・・・」

「本当ですよ。とにかく、子供のころからそうでした。一番最初に覚えているのは小学一年でしたから、六歳のときです。友人の家に遊びに行ったんですが、庭のバケツに蓋がしてあったんです。木の蓋で、上に重石としてレンガが置いてあった。ちょうど夏になろうってころで、真夏を先取りしたような暑い日でしたよ。興味半分に、蓋を開けたんです。そしたらですね、バケツの底にびっしりとおたまじゃくしが死んでたんですよ。半分以上のやつは、後ろ足が生えてましてね。気が早いやつは、前足も生えてた。それが、暑気にやられて腐ってたんです。捕まえておいて、忘れたんですね。かなりの数だっただけに、子供心に恐怖でしたよ。臭いも酷くって、吐きました」

「そうかい、まあ災難だろうが、よくあることなんじゃねえか。俺だって小さいころはザリガニやらバッタを捕まえちゃあ、殺してたもんだ。」

「ですから、これは最初だって言ったでしょう。その後くらいから、ちょくちょく水死体に出会うようになったんです。用水路に工場廃液が漏れ出して、大量に魚が死んだときがありました。それを最初に見つけたのも私でしたし、古井戸を開ければ猫が死んでました。いいかげん嫌になって川遊びは止めましたんですが、台風が過ぎ去った後に窓を開けると、雨に打たれたのかなんなのか、スズメの子供が十数匹水溜りに浸されてましたよ。もう、こんなことが続きましてね」

「なるほど。めぐり合わせってのあるようだな。だが、それを才能っていうのは、ちょっと無理がねえか。結局のところ、そんなのは普通じゃあ水死体っていうほどのもんじゃねえからな。エビスさんってわけじゃねえんだろ?」

「エビスさんですか」

「知らねえか?」

「いえ、知ってます」

 浜に打ちあげられた水死体のことだ。一般には、人間のことだが、鯨の死体だという説もある。浜の人間はエビスを福をもたらす神として祭ることがある。

 男の言いたいことは判る。水死体っていったところで、小動物では才能というには遠すぎる。当然だ。私だってそう思うだろう。

 私は、空に向かって盛大な溜息をついた。

「そりゃあ、ここで終わったら、私だってだ運が悪いだけだと思いますよ。才能だなんて考えませんって。もちろん、この後があるんです」

 男は少しを興味を持った様子をみせた。

「ほう。じゃあ、見つけちまったのかい」

「ええ。実際に予想はあったんですよ。子供の頃から、小物の水死体には散々当たりましたからね。いずれは、でかいのにも遭遇するだろうって。それで、できる限り水辺には近づかないようにしてたんです。海はもちろんのこと、大きめの川も避けてました。せいぜい、小川くらいですか。小魚やザリガニの死体程度なら、慣れればどうってないですから」

「それでも駄目だったのかい」

 私は小さく肯いた。

「臨海学校ってのがあるじゃないですか。あの適当な理由つけて、学年全体で海にいくってやつ。中学二年の時でした。本当は、仮病を使って休むつもりだったんですが、親にばれましてね。学校が嫌いだったんで、仮病を使ったのは初めてじゃなかった。それがいけなかったんですね。費用を払ってるんだから行けって、無理矢理行かされました」

「そこで見つけたってわけか」

「そうです。現地でも、怒られるの覚悟の上で、浜での行事からは逃げるつもりだったんですよ。でも、バスで最初に到着したのは、浜辺でしてね。二時間ばかり自由行動だってんで、とにかくすぎで逃げたんです。その頃の私は、不良グループに眼をつけられてましてね。しかも悪いことに、そいつらは私が水辺を嫌がるのを知っていたんですよ。だから、捕まったら絶対に浜辺を引きずりまわされるじゃないですか。それを避けようとして、とりあえず人気のない隣の浜に移動したんですが、それがいけなかった」

 男の態度が変わっていた。余計な相槌を打たなくなっている。私の話を信じ始めているの、少し真剣になってきているような気もする。

 男は深く頭を垂れて、サングラスを外した。右目が見えた。思ったよりもしっかりした眼光だった。左眼に手を当てて、額を揉みほぐしている。そのまま、手に上からサングラスをかけて、手を抜いた。再び、顔の半分が黒い男の容姿が出来上がった。

「最初は、女が浜で寝ていると思ったんですよ」

 何か違和感を感じながらも、私は話を再開した。

「白いワンピースでしてね。警戒感もなく、浜を横切ろうとしたんです。うまく不良の奴らから逃げられたと思って、油断してしまいました。それが、近づくにつれて、様子が変なのに気が付きましてね。風があるのに、服がなびこうとしないんです。まずいと思った時には、もう死体だってことが判ってしまいました。

 その時、とうとう私は人間の水死体を見つけてしまったわけです。

 でも、その時の私の行動っていうのが、今でも信じられないんです。そのまま逃げればいいのに、どうしたのか女の死体の傍に寄っていったんです。魔が差したのか、それとも何かに魅せられたのか。いや、魅せられたんでしょう。憑かれたといった方がいいかもしれません。とにかく、死体の側らに座ってその顔を見た。意外と綺麗でした。水死体っていうと、腐っているやつしか出会ったことがなかったんですが、その女性は死んだばかりだったようです。体温がほとんど失われていたせいか、顔も白くってですね。歳は二十歳くらいだったですかね、かなりの美人でしたよ」

「変に気色悪いのじゃなくてよかったじゃねえか」

 少し間を置くと、男が呟くように言った。だが、先を促しているのがわかった。私はさらに言葉を続けるか迷った。ここから先は、私の生まれつきの不運な才能の話だけではなくなってしまう。

「話せよ」

 小さくそれでいながら強い語気で男は告げた。何か緊張感のようなものが私の奥からわきあがってきた。ただ、それは男を恐れたからではないような気がした。

 数十秒の沈黙が流れた。その間に、私の奥から何かがこみ上げてきていた。そうだ、今ここに至って隠したところでどうにもならない。

 自然と言葉が流れ出た。

「浜辺には、私一人しか居ませんでした。当分だれかがやってくる様子もない。そこにいるのは、私と死体と二人きりなんです。何しろ、綺麗な水死体に出会ったのは初めてでした。それが、何を呼び起こしたんでしょうか。奇妙な興奮が私を支配ました」

 掌が汗で濡れ初めている。身体の心に官能的な熱さが湧き上がってきた。

「その興奮は、なんとも説明できるものじゃないんです。が、あの時以来考えたのは、もっとこの死体について知りたいっていう欲求だったんじゃないかと思います。思えば、自分の才能に気がついたときから、この日のことばかり考えていたんですから。当然、めぐり合ったこの決められた出会いに対する探求心があって当然なんです。だから、私はその探求心を満足させようという欲求に耐え切れませんでした」

 言葉を切った。男が微動だにせず話の続きを待っている。言い訳はいいから。恐れずに話してみろ。そういわれているような気がした。

「大したことじゃないんです。大したことじゃ・・・・・・

 ただ、もう少し知りたかった。だから、私は死体のスカートを捲ったんです。ちょっと好奇心に勝てなかった。それだけなんです。

 それなのに、それだけなのに、なんであの女性は下着をつけてなかったんですか!

 しかも、そこだけに酷い傷があったんですよ!

 それも、何かで乱暴に引っ掻きまわされたような!」

 サングラスの奥で、男が眼が光ったように見えた。

 私の中で何かが壊れた。

「それからです。私の中で何かが変化してしまった。私は水死体を発見するのを恐れなくなってしまったんです。いや、それどころか、浜に打ち上げられる死体を捜して歩くようになってしまった。そのために高校だって、無理矢理親を説得して海辺の学校を受験したくらいでした。通学に片道二時間もかかるようなところでしたが、苦にはならなかった。もう、毎日のように浜を歩きましたよ。そうしていると、季節に一つくらいは必ず発見することが出来た。いろんな死体がありました。死んですぐの死体は、青白いんですが、腐敗して浮いてきたもの赤黒く膨張してくる。そういう死体は、内部にガスがたまってて、かなりの浮力を発揮するんです。多少、足におもりがついてたって、なんのことなく浮いてきてしまう。素人はそれがよくわからないのか、小さいおもりをつけるんですよ。

 それから、私は死体を見つけても一度も通報しませんでした。何度も第一発見者になってしまえば、それだけで目立ってしまいますからね。毎日浜辺を歩いている理由もばれてしまうし、そこまでいかなくても、変な眼で見られますよ。一人が好きで、浜辺で孤独を愉しんでいる。そういう演技を通すには、通報しちゃいけなかったんです。だけど、私が通報しなかった理由はそれだけじゃありませんでした」

 私はやけに笑っていた。感情の抑制ができなくなっていた。

 そうだ、私は青春時代は水死体に没頭していたのである。自分の才能に賭けていたのかもしれない。少なくとも、世界で唯一の才能が私にはあったのだ。それが、嬉しかったのか。いや、違う。だったら、あんなことはしない。

「そうです。通報しなかった理由は、むしろ他にありました。私は、水死体に必ず何かをしたんです。最初は発見するだけでよかったんです。でも、次第にそれだけでは満足できなくなっていった。そして、身体の一部を持ち帰るようになったんです。

 切り取るのは、なるべく特徴のある部分を切り取って、自分のものにしていたんです。女性なら、乳房を取りました。男の場合は、色々でしたが、ヤクザ風の人間であれば、小指でしたし、鼻の高い男の場合は鼻でした。臍を抉ったこともあります。とにかく、身体に一部を自分の手にしなくては、気がすまなかった。法的にいえば死体損壊で、結構な罪なんです。けど、不思議なことに捕まることはありませんでした。もしかしたら、警察もあまり真面目に捜査していなかったのかもしれません。死体損壊は、殺人事件と結びついていれば重大ですが、死因が溺死で死んだ後に傷つけられたのは確かなわけですから。

 とにかく、それが、高校二年が終わるまで続きました。どうしてそこで終わったかといいますと、学校を退学になったからです。勉強が出来たわけじゃありませんから、あっさりと落ちこぼれました。単位は取れないし、出席も真面目にしませんでしたからね。水死体ばかり探していましたから、それも当然と言えば当然だったかもしれません。

 結局、私が高校時代に持ち帰った水死体は全部で六体になりました。そこで、私の探索は打ち切られたのです」

 男が何か呟いたようだった。海風に消されてよくは聞こえなかった。ただ「足りない」という言葉だけが聞こえた。何が足りないのかはよくわからなかった。

 私は改めてこの男を見た。大きいサングラスのために、眼が大きく感じる。というよりこのサングラスは、やけに大きくはないか。少なくとも、市販の製品よりは一回りは大きい。特注品のはずだ。それに、古いものでもあるようだった。

 不意にこの男の奇妙さが気になった。私のこのような話を聞いて平然としているのも変だった。話の興奮の中で忘れていたが、どうしてこの男はこうも真面目に私の話に付き合うのか。信じていないのかとも思わなくもないが、男から伝わってくる空気はその考えを否定してくる。では、信じた上で真剣に聞いているのか。そう感じて仕方がない。

「それから、どうなったんだ?」

 男が訊いた。今度はやけに鮮明に耳に届いた。急に興奮が冷めるのを感じた。

「それからは、見つけていません。学校を退学になった後、親のコネで就職したのは、海からも川からも離れた街でした。ろくでもない職場でしたよ。給料が安いのに、朝から晩まで辛い肉体労働が続きました。休暇なんかろくになくって、その少ない休みも身体を休めるだけで終わってしまうような生活でしたから、遠出をして浜を歩くなんてことはできませんでした。いえ、何度かやりましたが、月に一度出かけたくらいで、水死体が見つかるわけがありません。

 自分なりに必死に勤めたつもりだったんですが、その会社も二年後にはクビになりました。その後、やっぱり親のコネで事務系の職についたんですが、同僚にひどく虐められました。なんというか、あれもクビにするための手口だったのかもしれません。一身上の理由で自主退職という方が、相手にとっても扱いやすいでしょうから。私には、それを跳ね返すほどの器量はありませんから、相手の思惑通り辞表を出しました。それから、二年になりますが、親との関係も上手く行かなくなって、とうとう住む場所もなくなりました。それが、一月前のことです」

「それで、死にに来たってわけか?」

「はい」

 長い話が、振り出しに戻った。もともと、私が自殺に来た理由についてだったのだ。それともう一つ――

「それで、諦めた理由は何だったんだ」

「諦めたっていいますと?」

「自殺を諦めた理由だよ」

 ああ、そうだ。もう一つの話は、私が自殺をやめた理由についてだった。

「いえ、死のうと思って海岸線に来たんです。そして、どこで身を投げるか選んでいました。なるべく確実に死ねる場所じゃないと困るじゃないですか。下手に生き残ってしまったら、もうどうしようもない。それを探して、三日間歩き回ったんです。そして、ようやくさっき見つけました。水深も深そうだし、それに水面から堤防までに高さに差がある。一度落ちたら、どうがんばっても這い上がることが出来そうもない場所でした。自慢じゃありませんが、私はすごく根性無しですから、冷たい水の中に入ったら、逃げようとするに決まっているんです」

「だが、飛び込まなかったわけだ」

[はい。その理由っていうのが、あんな話を延々とした発端でもあったんですが・・・・・・。簡単に言いますと、飛び込もうとした瞬間に見つけてしまったんですよ」

「エビスさんをかい」

 底響きのする声で男は訊いた。私は首を横に振った。

「いえ、人間じゃありませんでした。大量に死んでるのは、クラゲでした。何か、船のスクリューに巻き込まれたようで、油にまみれてずたずたにされてました。それを見て思ったんですよ。もう、死ぬ瞬間までこの才能につきまとわれるかってね。だったら、もう自分から死ぬのはやめようって思ったんです。どうせ、この後は餓死するのを待つだけでしょうし。もう、死ぬ気力も無くなりました」

「そうか、じゃあエビスさんになるのは本当に止めたんだな」

「はい。もう、溺死体をこりごりですよ。他人のも自分のもね」

 私の言葉に返事をせずに、男はつまらなそうに男は東京湾を見つめた。もうタンカーは居なくなっていた。その代わりに、漁船が千葉に向かって移動している。木更津にでも戻るつもりなのだろう。

 見上げると、太陽もだいぶ傾いてきていた。海面に乱反射する陽光も、赤味を帯びるようになってきている。そういえば、海風が冷たくなってきている。五月とはいえ、夕刻の風は冷たいだろう。ふと、風邪を引かないかと心配になった。その考えに、私は思わず苦笑した。死にに来た人間が、諦めた瞬間から風邪の心配をしている。

 眼下の海面には、男の釣り糸が海中に姿を消している。魚影などは当然見えない。

 男が釣竿を上下させた。何か当たりがあるのかもしれなかった。

「釣れましたか?」

 私は訊いた。しかし、男は憮然とした表情を浮かべている。乱暴な竿さばきは、まるで獲物を振り落とそうとしているかのようですらあった。

「いらん獲物がかかったみてえだ。振り落としている」

「なんなんですか?」

「どうやらシャコみてえだ。あいつは、この餌が好きだからな」

「シャコですか? あの、寿司に出てくる」

 私の問いに答えず、男は更に激しく竿を振った。やけに執念深い。糸を巻き上がればいいではないかと私は思った。別に、無理して落とすことはない。それに、さっきから餌を代えていない。変わった釣りだ。

 何度の竿を振った後、男はようやく竿を安定させた。どうやら、シャコを振り落とすのに成功したようだった。一つ息をついて、男が私の方を向いた。

「一つ訊きてえんだが」

「なんでしょう?」

「持ち帰ったやつな、いったいどうした?」

「水死体の一部のことですか」

「もちろんそうだ」

「埋めました。庭に」

「本当かい」

「ええ」

「で、埋めた後はどうした。掘り出したのか?」

「骨だけはありましたが、他の部分は腐ってなくなってました」

「だろうな。で、その骨は今も持っているのかい?」

「え? ええ、まあ・・・・・・」

「そりゃあいい。じゃあ、切り取った部分の中で一番印象に残ってるのは何だった?」

 重ねて男は訊いた。ここまで話しておきながら、私には最後の躊躇があった。

 あの死体については、話さなかった。だが、男はそれを訊いてくる。私は何かの導きを感じた。ここで話せば、子供の頃から付きまとってきたこの才能について、何等かの決着がつくような気がしてくる。

「じつは、眼です・・・・・・」

 意を決して私は言った。

「ふうん。奇遇だな。でもさっきは、眼なんて言わなかったな」

 変な答だった。何が奇遇なんだろうか。

「私が見つけた死体の中じゃ、あれは最後に見つけた水死体だったんです。それも、それ以前にだいぶ間隔があった。もう自分には見つけられないのかと思っていたころでした。だから、見つけたときはよく確認しなかったんです。眼の大きな男でした。だから、躊躇せずに眼を選んだんです。喜びながらナイフを差し込んで抉ったとき、男の身体がびくりと動いたんです。驚きましたよ。私は一目散に逃げました。でも、手にしていたナイフには、男の眼がしっかりと刺さってました。

 死後に死体が動くくらいのことは、そんなに珍しいことではないってことです。死後硬直なんてよく聞きますし。でも、あれは生きていたのかもしれない。私が見つけたのは水死体ではなく、溺れた人間だったのかもしれないのです。だったとしたら、私は男の眼を奪ったことになります。いや、場合によっては生き残れた人間を見殺しにしたのかもしれないんです。

 考えてみれば、あれから私の水死体を探す能力が落ちたような気がします。もしかすると、男の呪いでもあったのかもしれません」

 ふん、と男が機嫌悪そうに鼻を鳴らす音がした。それが酷く気になった。

「血はついてたのかい?」

「血ですか」

「そうだよ。ナイフや手やらに血がついてたかってこった。もし、生きてたんなら、血が流れてなきゃおかしいだろうが。だったら、それなりの血がついてるはずだ」

「そういえば、ついてなかったように思いますが・・・・・・」

「だったら、死体だよ。お前さんの六番目のエビスさんも、ちゃんと死んでたってことにならあ」

 そうか。そうなのか。急に何かが落ちたような感覚が湧いた。

「いや、確かにそうかもしれません。気が付かなかった。長い間悩んでいたんです。小心者ですから。他人を見殺しにしたばかりじゃなく、生きている人間の眼をくりぬいたんじゃないかって思うと、さすがに辛いものがありました。いや、ありがとうございます。これで、随分と気楽になりました」

「礼を言うほどのことじゃねえよ。それから、お前さんが気づいていないことを、もっと教えてやろうか」

「まだありますでしょうか?」

「ああ、あるね。それも、一つじゃねえよ。どうする? 聞くか?」

 私は首を縦にふった。この男には、私が今まで隠しつづけてきたことを全て話してしまった。その中には、自分では気がづかなかった事実がたくさんあるのかもしれない。そう思うと、この申し出を断ることは到底できなかった。

 だが、考えてみれば私はどうしてこの男にすべてを話したのだろうか。私の性格から言えば、他人に自分の恥部をさらけ出すなど、絶対にしないはずだった。

 それは、多分男に懐かしい匂いがしたからに違いない。それと、どこか自分に合い通ずるものがあるような気がしてならない。

 そんな私の思考をよそに、男は話を始めた。

「お前さんが気がついていないっていうのはだな。ここに来た本当の理由だ」

「それはどういうことでしょうか?」

「つまりだな、あんたは自殺をしにここに来たんじゃないってことさ」

「そんなことはありませんが」

「いや、そうだね。さっきは、色々と理屈をつけてたようだが、そもそも死のうと思ったら、どっから飛び込んだって同じなんだよ。泳げるような浜じゃなきゃ、死ぬ気で落ちれば大体死ねるさ。ましてや、ここは埠頭だ。何処も深いからな。そのくらいのことは、二年間毎日のように浜を歩いていたおまえさんには、わかってて当然のことなんだよ。だっていうのに、おまえさんは一向にふんぎりつけなかった。じゃあ、その間何をしていたかってことだ」

「私に別の目的があったっていうんですか。まさか。信じられませんよ。だいたい、死ぬ以外にどういう理由があるっていうんですか。このごに及んで」

「ふん。簡単だろう。おまえさんみたいな人間が海辺を歩く理由が幾つもあるはずねえじゃねえか。わかんねえのかよ」

「は、はい」

「ちっ、察しが悪いのか強情なのか。いいか、お前が海辺を歩く理由なんて一つだ。探していたんだよ、水死体をな。決まっているじゃねえか」

「そんな、馬鹿な・・・・・・」

 本当か? 否定した瞬間から、私の脳裏に幾つもの疑問が飛来した。男の言うとおり、場所を選ぶのに随分と時間をかけていた。それに、浮かんでいるものは必ず確認していたのではないか。そもそも、なんで死ぬのに海を選んだのか。首を吊ったっていい。ビルから飛び降りてもいい。ひと思いに死ぬのであれば、もっと楽な方法もあるだろう。溺死が楽な方法であるはずがない。

 では、やはり私は・・・・・・

「他にもあんたが気づいていないことが幾つかある」

 男は立ち上がった。強さを増している海風の中で、ごう然と顎を逸らしている。なんなのだろうか。さっきから、男がだんだんと若くなってきている気がする。それは、外見ではなく内面にある覇気のようなものだった。

「まず、なんであんたが俺に近づいたかだ。自慢じゃねえが、俺は他人を寄せつける雰囲気の人間じゃねえよ。わかるか」

 首を横に振った。男が一歩私に近づいた。

「だろうな。あんた、そういう面じゃ鈍すぎるからな。でも、うすうすはわかっているようだが。あんた、俺とどっか似てるんじゃないかって思ったんだろう?」

 確かにそうだ。何故だ。何故、この男はそれを知っている。

「簡単だよ。俺とあんたの共通点。そりゃあ、つまり同じものを追っているってことだからな。俺もあんたと同じ、水死体を探しているってことさ」

 男がサングラスを外した。その奥に、男の眼が現れた。それも、一つだけ。左の眼窩にはあるはずの眼球が納まっていなかった。

 これは――まさか、懐かしさの正体なのか。

「ひいっ! ゆ、許して」

 私は腰を抜かしていた。必死に堤防にしがみついた。やはり、最後の男は死んでいなかったのだ。そして、一方の眼を奪った私に復讐に来たのだ。

 男は堤防にしがみついた私の顔の近くに腰を下ろした。そして、腹に一物ありそうな含み笑いを浮かべた。

「おいおい、勘違いするんじゃねえよ。俺は、お前さんが眼を抉った男じゃねえって。こいつは、むかし溶接の仕事をしているときに、焼けたボルトが飛んできたんだ。べつにお前さんがやったわけじゃねえ」

「ほ、本当に・・・・・・?」

「嘘じゃねえって。ただな、眼が一つじゃ困るんでな。代わりは用意してある」

 男は手にしていた釣竿を巻き上げた。それは、すぐに海面から現れた。男は糸の先端を手繰り寄せた。何かが蠢いている。シャコだった。男は、舌打ちをしてシャコを払いのけた。その後から、何かが丸い物体が現れた。白と黒の球体――

「眼、眼、眼・・・・・・」

「ほんとに気が小せえな。別に俺のじゃねえよ。見な」

 そう言って、男は白木の餌箱を開いた中には、三つの眼球が入っていた。どろりとした視神経が長い尾を引いていた。 

「牛眼だよ。屠殺場に忍び込んで持ってきたんだ。別に人間のじゃねえ。人間のよりだいぶでかいだろうが。よく見れば気が付くんだがな。まあ、無理か」

 やれやれというように肩を竦めて男は餌箱の蓋を閉じた。そして、後ろを向いて鞄の中に餌箱を仕舞った。後ろ姿は、みすぼらしい痩せた男だった。それが、ようやく私の恐怖を和らげた。

「お、脅かさないでくださいよ」

「すまねえな。でも、あんたと違って俺は、なかなか水死体を見つけられねえ。だから、水の中に目玉を入れれば、すこしは見つけ易くなるかと思ってよ。まあ、願掛けみたいなもんだな。だが、どうも動物の死体っていうのには、シャコが取り付いてよ。こいつそういうのが好きらしいからな」

 確かにそうだった。私にも経験がある。腐乱した死体からは、いろいろは生物が取り付いている。とりわけシャコのような海棲昆虫はとりわけ死体を好むようだった。

 男は後ろを向いたまま何か手作業をしている。こちらからは、なんだか判らない。

 やがてポチャンという水音とともに、海中に何かが投じられた。牛眼だった。シャコかじられた牛の眼が、海面に浮いている。

「俺もなあ、あんたと同じように落ちこぼれでな。それについちゃ、あんたよりひどいんだよ。あんたは高校中退だが、俺は中学しか卒業してねえしな。しばらく工場で働いてたが、事故で眼をやられちまってよ。それでクビになった。しかも、貰えるはずの労災も工場長ってやつが悪で、かすめとらちまってよ。文無しで、能なんかねえ。せめて、運でもよくならねえかといろいろやったがよ。全部だめだったな。それでも諦められずに、エビスさんを探すことにしたんだ。ここで流れてくるエビスさんに願をかければ、俺の運も上向いてくるんじゃねえかってよ。でも、やっぱ駄目だな。才能がねえ。あんたの話を聞いて心底そう思ったよ。ここに通って結構になるが、せいぜい見つかるのは腐った魚が二三匹ってところだ。大物の水死体なんぞ、どこからもこねえ」

「はあ・・・・・・」

 どこか寂しそうに語る男に、私はどう答えていいかわからなかった。

「それに、あんたは気がついてないかもしれねえが、その才能っていうのは役に立たないってわけじゃねえんだぜ」

「そ、そうでしょうか」

「そりゃそうだよ。考えてみろ。あんたが一番幸せだった頃っているのは何時だ? 最高に幸せだったと思うの何時だ? 水死体が見つかってたころじゃねえのか?」

 言われてみればそうだったかもしれない。最初に女の死体をみつけた後、私は不良グループに虐められなくなった。水死体の傍にじっとしていた私は、多少が度胸があると思われたせいだったらしい。もっとも、私の後ろには成仏しない女の悪霊がついているという噂が立ち、それが私が周囲から敬遠されるという結果を招いたが、私にとっては孤立するのは別に苦痛ではなかった。

 高校時代は、むしろ楽しかったろう。水死体を求めて浜を歩くのは私の唯一の趣味といってよかった。そして、そういう行動に没頭している間は、自分の無能も忘れていたような気がする。思えば、私の人生で最高の期間だったかもしれない。

 男は淡々と言葉を続けた。

「つまりだな、あんたの才能はあんたを幸せにしていたのさ。それが証拠に、水死体を見つけられなくなったら、とたんに不幸になったろうが。例の目玉の男を見つけたことが、あんたの才能を封印しちまったんだよ。残念だな。すごい才能だったのによ。事実、エビスの造り方も、教えられるわけでもなく知ってやがった」

 エビス? エビスは水死体のことではないのか?

 そういえば、男は途中からエビスと言わなくなっている。違和感。やけに違和感を感じていた。

「エビスっていうのはな、幾つかの意味があるのさ。有名なのは、七福神の恵比寿だな。あれは、もともと蛭子っていうんだがな。ああ、蛭子ってのは古事記に出てくる神だってことは知っているよな。イザナギとイザナミの神の三番目の子供で、五体満足じゃねえ。しかも、神話じゃ忌み嫌われて蛭子は流されたろう。

 エビスっていうのはようするに、その蛭子なんだよ。むろん、俺が探しているように水死体もエビスっていうが、それだけじゃ蛭子にゃならねえ。それが、あんたの話を聞いてやっとわかったよ。ただの水死体をエビスっていう神にするには、どっかを削らなきゃいけねえんだよ。あんたは、生まれつきそれが判ってて、そして実践したわけだ。やっぱりすげえ才能だと思うよ。天才だ。そうして、造ったエビスがあんたを護ってたんだ」

 称賛だった。

 生まれてから、これだけ手放しの称賛を得たのは初めてだった。さっき感じていた恐怖は高揚感に変わってた。それが自然に涙を流させた。世のこれほど私のことを理解してくれる人間がいようとは。

「それからな、七福神っていうのかいるだろう。俺はあれはもともとは全員エビスだったんじゃねえかって思ってるんだ。もともと、どっかの浜か何かで、七人のエビスが祀られてた。それが広まってんじゃねえかってね。ただ、形を作って崇めるには、全部が全部恵比寿じゃ困るだろう。それでだな、適当に外から来た神を当てていったんだよ。

 あんたは、多分それを集めてたんじゃねえのか。そして、六人まで集めた。だが目玉の件で手を引いちまった。惜しい。惜しいよ。だが、あんたのエビスがいなくなっちまったとは思えねえ。単に、あんたが遠ざけたせいで眠っちまったのさ」

「じゃあ、私はもう一人エビスを見つければいいわけですか」

「そうなるな」

 そうか。私は無意識のうちにわかっていたのだ。もう全てが終わってしまっていたと考えていたが、私の才能は私を見捨てはしなかった。土壇場で、私を幸福にするよう行動させていたのだ。

 男が顔だけ振り返った。片目だけの風貌が神々しくすら見えた。この男は、神が私に差し向けた使者なのかもしれない。そう思った。

 男がにっこりと笑った。涙のままで、私は男を見つめた。

 男がその身体の正面を私に向けた。一瞬遅れて右腕が現れた。何かが光っていた。それが、私の眼に近づいた。左眼に。

 さくり。

 軽い音がして、私の眼球に何かが刺さった。ナイフのようだった。昔水死体を削った安物のナイフを思いだした。その後に、痛烈な痛みが襲ってきた。

「し、心配しなくてもいいんだ。こ、殺さねえ。絶対に、殺しゃしなえ。刺し殺しちまったら、エビスにできねえ。ただ、削るだけだ。

 あんたは、エビスなんだ。天が俺にくれた、最後のエビスさんなんだ。六人にエビスさんを背負った、でっかいエビスなんだ。

 俺の運も向いてきた。向いてきた。やっと、俺も幸せになれる・・・・・・」

 腕と、足と。散々に刺された。何本か指が飛んだ。

 苦痛にうごめいたとき、不意に身体が宙に浮いた。

 その後は、水。冷たい水。

 


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