7 順応
◇10
あれは季節違いの冷たい雨の降る日のことだった。
ふうっ、と息をついて僕は手持ちの傘を開いて歩き出す。吐いた息は白くなりかけで、とてもじゃないが春も中ごろとは思えない。わざわざしまっていたのを引っ張り出した長袖のシャツを、冷気はたやすく貫通して一瞬の風にも身震いさせられるほどである。
辺りはもう夜のとばりが降りていて、街灯が危なげにちらちらと光を放つ。道にちらほらとできる水たまりは、それらの姿を意味もなく映し取っている。
夜とはいっても、図書館のあるこの辺りはまだ栄えているほうではあるので、24時間営業のコンビニの煌々とした光や、住宅からのカーテンの裾から漏れてくるようなわずかな明かりもちらほら見受けられる。
川添いの土手を歩いていると、春になると桃色で土手道を埋め尽くす桜の木が青々とした緑に変わっている様子だったり、ところどころ萎んでしまったアジサイの花の様子だったりからも、季節の移り変わりを実感する。
もうすっかり5月――と言いたいが、この天気じゃあまだまだ冬である。僕は静かにため息をついた。
(本当にあいつ……なんでよりにもよって今日学校休むんだ)
ほとんど帰宅部なのになぜ今日こんな時間に出歩かなくてはいけないのか。それを説明しようとすると溜息が止まらなくなるほど、今日の僕はついていなかった。
朝起きたところからその不運は始まり、地面に落ちていたプリントに思いっきり足を滑らせて、全身を強打した挙句に目覚ましを叩き壊した。登校中は傘を差そうとするたびに吹いてくる強風に傘を3回もひっくり返され全身が濡れた。
学校に行ってからもそれは続き、授業中はやたらと当てられ、挙句の果てにはやる仕事がほぼないという触れ込みで入ったはずの委員会の仕事が今日に限って回された。やっと終わって帰れると思えば、今日中にやらなくてはいけない作業に気づき、慌ててパソコン室に駆け込んで1時間以上パソコンとにらめっこをさせられる。
僕のことを不本意にも「人に興味なさそう」と噂していたクラスメイトが偶然パソコン室にいて、ちらちらとこっちを見てくるのも気を逆撫でした。
……そして挙句の果てに、完成したスライドの入ったUSBメモリを、共同発表者の家まで届けなくてはいけない。八つ当たりだとは自分でもわかっているが、それでもよりによって今日休んでいるあいつにイライラするのだ。
街灯の切れかかった薄暗い路地に入る。
確かあいつの家はこっちの道で合っていたはず。なんせ暗いし雨降ってるから目印が見づらくてわかりづらい。
そうそう、そこだ。
一度あの家に行ったときに、あそこにポストがあったな。ここの角を右に曲がってすぐの家だ。
そして、次の角を右に曲がると、やっぱり記憶の中にある光景と一致する家がそこにはあった。
(……ッッ!!)
一瞬の寒気に襲われた。
自分の脳と、そして目が、ここは何かがおかしいと警告を発したのだ。
周りをとっさに見回す。が、自分以外に人は誰もいなかった。
辺りは変わらず、静かな夜に包み込まれている。
気のせいか――と感じた違和感を流して、すぐそこの目的地の呼び鈴を押すために再び歩み始める。
そして家の真正面に立った。ちょうどその場所で感じていた寒気が強烈に強まる。しかもそれが僕の真後ろ。
まさか何もいないはずだ……。やけに冷たい汗が額に流れ出す。先ほどまで見ていた場所のはずだが、恐怖が自分の中心からぞわり、と這い出てくるのが分かった。
僕は傘を持ったまま、後ろを恐る恐る振り返った。
「……ぁ」
そこにいたのは――こちらを見つめて佇む美しい少女だった。
思わず息をのんだ。
病的に白く滑らかな肌と、それを包み込む宵闇に溶け込みそうなほど黒い服に、地面に付きそうなほど長く伸びた黒髪。そこから受ける印象は、白か黒かで言えば圧倒的に黒。
感情の読めないその瞳、強い意志を感じられない瞳は、それでも僕がその中に移っていることだけは間違いない。
傘を差さず、靴を履かず――いつもであれば感じるはずの明らかな異常さにも、この時の僕は気づくことはなかった。
「……何か?」
返答はない。
少女はその感情の読めない瞳を僕に向けたまま、何も言わない。無視された僕も、何も言うことができず顔を見たまま立ち尽くし、時間が止まったようになる。
……非常に長い時間が経った気がした。
「おーい! 呼び鈴鳴らさないでなんでそこにずっと立ってんだよ」
目の前のドアが開いて、呼びかけられたところで気が現実に引き戻される。
後ろを振り向くと、そこには今日学校を休んだあいつ――三谷陽介がいた。
「お、おう。ちょっと変な奴がいるんだよ」
「はあ? ……いやまあ変な奴なら確かにいるな。俺の目の前に」
三谷は馬鹿にしたように笑う。……ってそんなわけはない。
思わず振り返ったが、なぜかそこには誰の影も形もなかった。僕の錯覚などではない。彼女は確かにそこにいたはずなのに。
意味もなく何もない虚空を見つめていると、三谷の後ろから誰かが顔を覗かせる。
「おっ、与一君じゃねーか」
「って良治さんじゃないですか。珍しい」
「というか与一、お前明日の発表のために来たんだろ? とっとと残りの作業しちまおう。とりあえず雨降ってるし家入れって」
そこにいたのは三谷の兄である良治さんだ。三谷とは結構年の離れた兄弟で、何度か話したことがある。
……というか三谷がなんか元気そうにしてるとムカついてくるんだが。
とりあえず三谷の家に入ろうと、傘を閉じて家の中に入る。
「……またね」
「え?」
囁きが聞こえた気がして、最後にもう一度後ろを振り返ったが、やはりそこには誰もいなかった。
最初の出会いはたったこれだけ。返しの付いた釣り針のように、表に出ないところで不思議と心に食い込んでいた。
――あの日まで。
◇11
(何か……不思議な感じ)
登校中の裸眼に、風がやさしく直接触れる。
ついこの間まで慣れ親しみ、それでいて久しぶりの感覚。
今日は眼鏡を外していた。
正直なところ、自棄になった気持ちが続いているというのはあると思う。
あの店主の言ったことに反論したいことがないわけでもなかった。けれどもいつどうなるか分からない、この先のことを考えて、決めた。
勿論視界からナニカが消えたわけではない。むしろ一層はっきりとその存在を感じる気もするが、多分それは気のせいだろう。
入れていた度数は微々たるもの。掛けていた期間も少しだけ。
だのに世界が少しだけ傾いているような、胸躍る違和感がするのだ。
じきに慣れる。慣れていくしかない。
一度こうなってしまえば案外どうでも良くなるものだ。自分の性格的に。
諦めることは得意分野だから。
そもそも登校自体もいつも通り、ではなく。
休日に人と遊びに出かけるなんて慣れないことをしたせいか、昨日から今日にかけて10時間以上寝てしまった。叔父さんは家に帰っておらず、また従弟も呑気に寝こけているような僕を起こすはずもなく。普通に遅刻だ。寝すぎたせいで若干腰が痛い。
陽が高く、いつもに増して暑い日差しが照り付ける。もちろん僕に度胸なんてないので正門からこそこそと入った。もしかしたら天笠もと少し思ったが――行動力の塊みたいなあいつは出かけたぐらいで疲れるほど軟弱ではなかったのだろう。
……なんだかんだ楽しかったな。
それにしてもとにかく暑い。今日も蝉が所かまわず泣いているが、やつらは熱中症にならないのだろうか。
生物部が管理している池――名前忘れた――を通り過ぎて、校舎に入る。そういえば、と学校に入ってからも無意識にしていたイヤホンを外す。
繋げていたのはあの音楽プレイヤー。
あの夜のことを思い出すから、これらは引き出しの奥へと閉まっていた。
警察に届けるべきだったのかもしれない。元々、誰のものかも分からないのだ。あの夜の証拠を否定してしまえば、もしかしたら日常を続けることができたのかもしれない。
でもそうはならなかった。
そして、それを受け入れることにした。
そうやって開き直ってしまえば、自分の背中を後戻りのできない谷底へ押していくために最も効率的な方法だと思った。
相変わらず楽曲は1曲だけ。
どうしてだか飽きることはない。
ずっと聞いていられる、底の知れない魅力のようなものがあった。
……校舎の中は涼しくもなんともない。灼熱地獄にずっといたら死んでしまうので、早く教室に入りたい。
とっとと靴を下駄箱に履き替えて3階に向かう。うちの教室は3階のちょうど真ん中にあるので下駄箱に近い中央階段を使うのが一番早い。教室に向かうまでに他の教室の生徒から視線を向けられたが無視してそのまま歩く。
今は4限の授業中であるため、後ろのドアを静かに開ける。つもりだったのだが、後ろのドアが少し固くなっていたせいで、かなり大きな音が響いた。その瞬間に、先生や同じクラスの生徒の視線がこっちを向く。
……くそ。
僕はそれらに気付かなかった風を装って堂々と中に入るしかなかった。三谷の気持ち悪い笑顔がたまらなく鬱陶しい。
気持ち強めに引いてしまった自分の椅子に座り、自分の鞄から筆箱とノート代わりのルーズリーフを取り出す。
科目に対応したノートをいちいち出すことを手間に感じる僕にとって、こいつはとても便利な代物だった。どんなに散らかしても最後にまとめればいいのだ。なお、鞄、机、ロッカーの中には端が折れたり、破れたりしているルーズリーフたちで溢れている。中身は真面目に書いているのだが、これをまとめ直すのは途方もなく時間がかかるだろう。あまりに見事な伏線回収。
そんなぐちゃぐちゃで整理のされていない机の中にがさりと手を突っ込んで、教科書を取り出す。教科は日本史。2時間続きだから3限から続いている。机の上にペラっと置かれていたプリントは最初に配られたものだろう。黒板と空欄だらけのそれを併せて見ても、今どこをやっているのか全く分からない。
(……やめた)
僕は脱力して机に突っ伏す。そのまま誰も来ない正門をぼんやりと眺めていた。
――――――
――――
キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴る。ボーっとしている間に時間は過ぎて、4限が終わった。
この時間に正門から堂々と現れるような奴はいなかった。代り映えもしない風景と日本史の先生の念仏のような声も合わさって若干ウトウトしてしまっていた。
「おうおう、珍しいなあお前が遅刻とはなあ」
時間はもうすでに昼休み。いつのまにか三谷が僕の席の横に立っている。いつもより微妙に気持ち悪い笑顔には、面白いものを見ていますと浮き出ていた。
「お、今日は眼鏡かけてないんだな。コンタクト?」
「なんだよ」
「いいやなんでも?」
……改めて指摘されると気恥ずかしさを感じる。うざい。
「……別に何かあったわけじゃないよ。慣れないことしたら疲れすぎて朝になっても起きれなかっただけ」
「ほーほーほー。慣れないことねえ。何してたんだよー」
「うっせ。ただ買い物に出かけてたんだよ。メビウスだメビウス。人多すぎて調子悪くなったんだよ」
へー、と何やら勘繰る様子で目を細める三谷。嘘は言ってないからな嘘は。昨日、買い物に出かけて、調子悪くなって帰った。間違いない。
あ。
昨日迷惑をかけたし後で天笠にお礼を言っておかなくては。
「でもお前がメビウスに行くなんて珍しいじゃん、まさか誰かと言ったのか?」
ぐ、と一瞬答えに詰まる。その隙をめざとく感じ取ったのか、三谷はしたり顔でこちらを見ている。
「ほらほらほら、誰と行ったのか言っちまえよ与一」
「……笠」
「え?」
「だから天笠だって言ってんだろ。あいつとの賭けに負けて連れてかれる羽目になったんだよ! お前にもその話1回したよな?」
「あまがさ? あー、あの与一がよく言ってる部活の後輩か。俺会ったことないし、全然接点ないわ……ってかまじか。俺はてっきり香奈と行ったのかと思ったぜ」
「……そんなわけないだろ。僕とあいつはただの、昔馴染みだ」
「そうだぞ。私と津島はただの昔馴染みだ」
今度は三谷とは違う方向から聞きなじみのある声が聞こえてきた。
……それも1つだけではない。
「へえ。お前らまだそんな感じなのか」
「……何しに来たんだ、石見」
顔の向きを1ミリも動かさなかったが、声だけで誰が来ているのかは分かった。
石見和也。深路の昔馴染みだ。不本意だが必然的に僕とも昔馴染みということになる。
理由を言葉にするのは難しいが、僕はこの男がどうしても好きになれなかった。
顔、とか、声、とか説明できる要素は本当にない。強いて言うなら全部。それがこの男に対する印象だった。
「別に俺は香奈の生徒会の作業に付き合ってただけだよ。大した用事があるわけでもないし、自分の教室に戻るよ。じゃあな、香奈、与一」
その場所から離れるような足音がして、教室のドアが閉まった。この間、僕は三谷のほうを見続け、絶対にそちらの方向を向かなかった。
「お前って石見と知り合いなのかよ」
「だから昔馴染みなんだよ、昔馴染み。僕と深路と石見は小学校からの付き合いなんだよ。逆に三谷はあいつと知り合いなのかよ」
「部活の関係でちょっとだけな。あいつ剣道部の代表で会計者責任会に来てたから、そこで話したことある。というか……」
深路と付き合ってるんじゃないかって噂のある、山下以外のもう一人のほうだよ、と三谷は言った。
……あーそんな話もあったな。
正直今はそんなことを気にする気分でもなければ、それが恐らく誤りであることを訂正する気力すらない。
こんな気分なのはあいつのせいだ、石見和也のせいなのだ。
「何の話だ?」
「いやいやいやなんでも」
深路の謎アンテナが案の定反応していた。突っ込まれた三谷はごまかしの態勢に入る。
そんな自分の周りで起こっている全てのことが煩わしく感じた。
ちょっとトイレに行ってくる、と三谷に告げて僕は教室を離れる。まだ心の中にはひどく暗くて、汚いものが残っていた。
◇12
あいつと鉢合わせる最悪の可能性を想定し、わざわざ4階まで行って入った男子トイレから出た後、僕は自分のハンカチで手を拭きながらその場で立ち止まる。
このまま教室に戻るのはどこか気が進まない。
(……ああそういえば)
4階は1年生の教室があるフロアである。天笠に詫びを言いに行くなら好都合じゃないか。……それに、昨日の黒い少女の件も聞いてみたい。
と考えていた僕の甘っちょろい考えは速攻で壁に行きつく。
よく考えなくても僕は天笠のクラスが何組なのかとか知っているわけもなかった。1年生のクラスは全部で4つあり、確率で考えると4分の1。無理だ。
「君。ちょっといい?」
「……なんですか?」
目の前の1年生と思わしき男子生徒は、唐突に見知らぬ上級生に話しかけられて驚いているようだ。自分が何かやらかしただろうか、と思っているのがはっきりと伝わってくるぐらい目を泳がせている。
「君が何かしたとかじゃないんだけどさ。1年に天笠っているだろ? あいつ何組なのか知らない?」
「天笠……。ちょっと心当たりないですね。他の奴に聞いてみましょうか?」
「いや、悪いからそれなら自分で探すよ。ごめん。わざわざありがとう」
「いえいえ」
そこから一通り1年生の教室を覗いてみたが、それらしき姿は見つからない。
休みなのか?
あいつが部活の日に休むなんて……もしかして初めてじゃないか? あいつに限って体調不良、もないとは言えないか。僕自身体調おかしくなったわけだし。
天笠への礼と確認はまた今度にすることにして、僕は気の進まないながら自分の教室に戻った。
「おー。長いトイレだったな?」
自分のクラスに戻ると、なぜか三谷が僕の席に座って深路と話している。こちらに声をかけてくる三谷にとっととどけ、と手を横に振る。三谷をどかして、椅子にドカッと座って突っ伏す。
……疲れた。寝よう。
「で、どうだったんだよ?」
「……は?」
「だからあ。日曜の話だよ。後輩と出かけたんだろ? 何してたんだよ」
「何って別に何もないって。なんか誘われたから行っただけだよ」
「おいおい本気で言ってるのか? お前が人と普通に遊びに行ってること自体が想像できないぞ」
馬鹿にされている気がするが、その通りであるから何も言えない。
しかし自分としてもなぜ天笠が僕を休日に誘ったのか、などわかっていないのだ。知らないものを答えようがない。
突っ伏した顔をゆっくりと挙げると、ちょうど目の前にいた深路と目が合う。先ほどの石見とのやり取りのせいではない。それでもこちらから声をかけるのはどこか気まずくて、そのままの体勢であー、と声にならないようなうめき声を漏らした。
「……私はただの昔馴染みだからな」
「ああ」
「…………昔馴染み」
「……うん」
「「……」」
深路は昔馴染みという言葉が引っかかるのか、連呼しながらこちらをじっと見つめてくる。その目に映るのは悲しみか、いや怒りのような気がする。
……じゃあなんだって言うんだ。友達……っていうのもどこか違う気がするし。
「おいおいそんな過去なんてどうでもいいだろ? それよりどうだったんだって聞いてるだろー与一ぃ。ごまかさないで教えろよー」
「だから本当に何もないって! しつこいぞ!」
「えー」
……めんどくさ。
◇13
「……ただいま」
結局、今日は部活に行かずにそのまま家に帰ることにした。というよりも気づいたときにはもうすでに校舎から出ていた。
理由はそう、あの後輩だ。天笠が来なかったから、流れるように帰り道を歩いていたのだ。ここ最近は部活前にあいつが僕の教室まで来るのが普通になっていたから。
3か月近くの付き合いしかないが、僕の日常とやらは天笠にだってずいぶんと侵食されているらしい。
そんなこんなで暑い道中、だいぶ汗をかきながら家に帰ってきたわけだが、時間は未だ夕暮れ時とも行かないような時刻。
帰ってきた家には誰もおらず、足早に自分の部屋に向かった。
――やることがない。
手持無沙汰だった。暇だった。
自分が眼鏡の無い今日を乗り切ったことに浮かれていたのだろうか。
『絵を描こう』なんてことに思い至ったのは。
元はと言えば、深路に言われるままに絵を描こうとしたときから、浸食の度合いは強まったのである。これが今日よりも前の時点であれば、金を積まれても、叔父さんに頼まれたとしてもやらなかっただろう。
それぐらい達成感と充実感にあふれていたのである。
昔から僕はすさまじく筆が遅い。形が見えてくるのにも、少なく見積もっても人の3倍はかかる。しばらくは楽しめるだろう。
確かどこかに袋ごと放置していたルーズリーフの余りが残っていたはずだ。
体を起こし、周りの小さめの荷物の山をかき回す。おっかしいな? 絶対どこかにあるはずなんだけど。
探す手は止めずにあっちこっちで物をひっくり返しながら、最後に使った用事をよく考えてみる。
学校と家とで2つ用意しているが、滅多に家で勉強などしないので、ほとんどの場面において無用の長物である。
……1年前の試験のときか? いや、うーん、思い出せん。
机に備え付けられた大きな引き戸を開ける。
そこには、中学生の時の教科書、ノート、芸術系の授業の作品、大量のクリアファイルなどが所狭しといったように並んでいた。部屋の状態と同じ、整理整頓のできない奴の見本市状態だ。
この中にある可能性は甘く見積もっても5パーセントぐらいだろう。しかし他に探せる場所もない。別にそのルーズリーフである必要はないけど、見つからないままにはしておけない性分だった。
とりあえずで中のものを引っ張り出しては確認する。最後に開けたのいつだっけ? 当然のように埃をかぶっているから、鼻がむずむずする。
うっとうしいけど窓を開けるのもメンドーだ。エアコン付けてるし。
違う。
違う。
違う。
これも違う。
これも……ん?
違う、と自分の左側に形成されつつある山へと振り分けようとする途中で手が止まった。
1冊のノートであった。
表紙には『らくがきちょう』の文字。そのすぐ横に数字の7が、黒いマジックを使って手書きで付け加えられていた。
――僕のだ。
表を見るだけで言い知れぬ懐かしさに襲われる。絵のために使っていたことをすっかり忘れていた。小さい頃は線のない落書き帳にある無限の可能性が好きだったんだ。
7、ってことは他のもあるのだろうか。
引き戸の中を先ほどより気持ち早く、どんどんと発掘していくが、なかなかそれらしきものは見当たらない。結局ここにあったのは7番目だけだった。
もう捨ててしまった、のかな。
なにはともあれ、とノートを開く。
開いた先に現れたのは空白のページ。ノートの作り方の都合上、最初と最後は最も書きにくいページ。なかなか利口じゃないか、ぼく。
次のページを開く。
ページを開く。
開く。
開く。
(……すごい)
単純な自画自賛ではない。心からの感嘆であった。
絵自体についてはおぼろげにも覚えていることはない。それでも、描きこまれた線の数や陰影の表現は一朝一夕では完成しえないものと分かる。
単純なうまさは、やはり深路に及ぶものではない。だのに直に見ると溢れてくるような情熱がそこにはあった。
まるで別人だ、とも素直に思った。
こんな根気のいる作業は絶対に無理だ。面倒臭くなって途中で逃げだしたくなる。
かかれている対象は様々だった。
風景、人物、どれも現実にピンとくるものはないから、恐らく想像で描いているのだろう。
紙が不向きだからか、苦手なのか、はたまた面倒だったのか、色が付いているものはない。鉛筆画と言っても問題ないだろう、このレベルなら。
(……?)
ページをめくる手が止まる。
指から伝わる感触が少し変わったからだ。
所々が角張り、紙がよれよれになって変な折り目が付いている。
どうなってるんだ?
慎重な手つきで次のページをめくる。
「………………………………っっ!!!!」
ソレを目にした途端――不鮮明だった1か月前の公園での記憶が、頭の中で叫び声をあげるようにフラッシュバックした。
(……ぁ)
呼吸ができない。必死に首元を掴むがどうすることもできない。
方法がわからない。
しかいがしろくかすみがかってくる。
あれ。
どうやって。
「……っはぁ!! へぁ、はぁ……っんぐぅあ……はぁ……」
呼吸が戻る。
飛びかけた意識と視界も徐々に続く。
頭と喉にどろどろとした熱が溜まって気持ち悪い。
死体。
あの死体だ……。
ノートをベッドの上に放り投げても、中身は頭に浮かんだまま。
作者が変わったように、紙を虐げるようなタッチで描かれたそれは――公園の惨死体と明らかに重なるものだ。
刃物を持った右手だけが残る、人とは呼べない人。
ありふれているはずがないそんな構図が、そこには既に存在していた。
「……っぁ……っく……」
意味が分からない、どうして、僕は、ぐるぐる回る思考をせき止めるように、両手で顔を覆う。それでも溢れてしまいそうな思考を、頭を潰すほどの強さで押さえつけた。
落ち着く。大丈夫。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。大丈夫。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。大丈夫。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。大丈夫。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。大丈夫。
強引に、思考を止める。
僕はまだ壊れてない。
……大丈夫。まだ大丈夫。
いつのまに暗いし寒い。汗だくのシャツが乾ききるほどエアコンが効いており、遅くまで登るようになった太陽ももう沈みかけていた。
どおりでめがぼんやりすると。……そうか、もう6時半か。部屋に入ってから2時間近くもたっているのか。
……とりあえずエアコン消さなきゃ。風邪ひきそうだ。
重ったるい体をなんとか動かし、立ち上がって電気をつける。リモコンはベッドの上に置きっぱなしのままで、倒れ込みながらエアコンを停止させる。
……動きたくない。
眠たいわけじゃない。
疲れているわけでもない。
ただただ動きたくなかった。
もはや絵を描くなんて気分ではない。だが何もしなければ嫌なことを考えてしまいそうだった。だから、癖のように取り出す携帯でニュースを見ていた。
どこかの誰誰が痴漢で捕まった、どこぞの国会議員の贈収賄疑惑、そんな感じのありふれた――ありふれていて良いのかどうかは知らないが――記事をぼーっと眺めていた時だった。
(…………?)
その中の記事の1つに、『白森市で不審死体発見か』という記事を見つけた。僕は少し驚きつつ、緩慢であるが淀みない動作でその記事を画面に表示する。
その記事はひどく曖昧でぼんやりとしたことしか書かれていない。だがつまるところは、白森市内で奇妙な死体が今日の午前中に発見されたらしいということだ。
現段階では分からないことしかないが、どうであれ自分の住む地域の近くで死体が出たとなると、穏やかじゃない。そんな風に、自分の中で軽く結論は付け終えた。
なのに、なぜか嫌な胸騒ぎがしていた。
後輩の顔と、黒衣の少女の顔がダブついて離れない。
自分でも不可解に感じる疑念は掃いて捨てられるほどのもの。無視して思考停止していたいのに。どうしてか僕の心に残り続ける。
目を閉じて、深く息をついて。
それでも胸の中心から這い出るように始まったざわめきは、血流にのって全身を飛び回っていた。