6 苦悩
◇8
本を買ってからその後も天笠の買い物に付き合い、気づいたらお昼時を少し過ぎるくらいになったので、1階のフードコートに向かって昼飯を食べた。席をとるのに時間がかかったが、2人席がたまたま空いたので比較的待たなくて済んだ。
僕が注文したのはざるそば。天笠は本当のところラーメンが食べたかったらしいが、白い服を着ていたため流石に遠慮して海鮮丼にしていた。
「さーて、どうしますか先輩」
流石にフードコートの席に座り続けるのは気が引けたため、ご飯を食べ終わった後僕らはすぐに席を立った。
「というか、どうする用事だったんだよそもそもは」
「ご飯食べたら5階で運動しよっかなー、と思ったんですけどね。ちょっと食い意地張りすぎちゃって、お腹パンパンです」
そう言いながら自分のお腹のところをさする天笠。それでいいのか女子よ。
「それで、何か思いつきませんかー?」
出歩くことなんてあんまりない僕に聞かれても。
愚痴をこぼす前に、今日ここに着いた時に見たものを思い出した。
「あー、そういえば2階で絵を飾ってるってどっかで見たような」
入り口の立て看板だったかな? そう書いてあった気がする。
「絵、絵ですか……美術ガール……まあいいでしょう、ほら行きましょー先輩」
うーん、と天笠は思案するように腕を組んだと思ったら、顔をぱっと上げてもう僕を急かしている。相変わらずいろいろ速い奴だ。
そんなこんなで僕たちは2階のギャラリースペースにて行われている展示会を見に行くことにした。
家族連れから仲睦まじいカップルまでいて多様だが、比較的すいているためすんなりと中に入れそうだ。美術に興味のある人数なんてそんなものだろう。あの男の子とかすごくつまんなそうだし。
「へー、絵だけじゃなくて今回の展示は現代アート全般を展示してるらしいぞ」
「現代アートってあれですよねー、トイレをそのまま設置して『これはアートです』っていうやつですよね」
「……まあ間違ってはない」
あの作品は作者がアート作品に対して想像力を働かしてもらう意図がちゃんとあって作った、とかだった気がする。ただ名前書いてある便器が芸術作品とはわからんな、と多くの人に思われた時点ですごい作品なのかもしれない。別にそこから何かが発展するとは思わないが。
受付を通ってギャラリーの中に入る。僕はこのギャラリーに来たのは初めてのことだが、思っていたよりしっかり広いスペースだ。
ギャラリーははっきり分かれているわけではないが、絵が飾られている範囲、写真が飾られている範囲、それ以外のものの範囲の3つの展示にざっくりと大別されるつくりになっているようだ。
「天笠はここのギャラリースペース来たことあるか?」
「いえ、ここに来たのは今日が初めてです。あるのは知ってましたけど、意外とちゃんとしてますね」
「僕もそう思う。もっとちんまりしたのを想像してた」
「先輩も来たことなかったんですか?」
「ああ、芸術とかあんまりよくわからないけど、お前のことだからこういうのも興味があるのかと思っただけ」
「実は興味あったんですよねー。ただ私がメビウスに来るときっていつもタイミング悪くて何の展示もやってなかったですね。だからいい機会なのでここの展示のレベルを確認してやろうかなと」
苦笑いを返事の代わりにした。
僕たちはゆっくりと歩きながら作品を鑑賞していく。
最初は写真のスペースだ。雨上がりの交差点を何気なく撮った写真に、路上に座り込んでカップラーメンを食べている小学生ぐらいの男の子の写真。いつかの大地震のときの被災した家屋の様子を映したものもあった。
写真の多い場所の次には、良く言えば独創性、悪く言えば実に意味不明といった感じのものであふれていた。どこぞの教育番組のような複雑な仕掛けで光をつける装置だとか、顔に仮面をつけた複数体のマネキンが見当違いの方向に浮いているものだとか。
ここら辺まで来た時にはなんだか分からないがとにかく目新しい、というものにもだんだん慣れてきていた。既に退屈気味だった僕とは反対に、天笠はこの間ずっと作品に興味津々だった。
「これとか見てくださいよ先輩!」
「ジグソーパズル、か。また懐かしいな」
「先輩って適当なところあるからなー。ずばり、大体どんな絵か分かったらこういうの飽きてやめる人だったりするでしょう!?」
「……」
「お、これは図星だ」
「うるせ」
「えー、タイトルは――『思い出』らしいです。ぼやけた絵とバラバラなピースの形で決して出来上がらないようになっている、だってー!」
「……盛り上がるようなコンセプトかそれ?」
「でも結構面白くないですか? すごく楽しかった時でも、意外と聞かれたら覚えてないことってよくあるじゃないですか……ま、まさかセンパイはそんな思い出が」
「ホントうるせーな! それぐらいあるよ!」
作品の前で「へー」とか「あー」とか「うーん」とか独り言をこぼし、僕に対して「先輩、これどう思いますか?」と聞いてきては僕の返答を意味ありげに聞き流す。この繰り返しである。色々考えながら作品を鑑賞できたのはそのおかげなので、一概に鬱陶しいとも言えない。
ただ、天笠の声が大きいせいで度々こちらに視線が向くのは勘弁してほしい。
色々見てきたが、特に気に入った作品などはない。それでも随所に何かを感じさせるような作品にあふれているな、と思ったのが正直な感想だ。豊かな感受性と同時に、それを表現できるという才能を持っているのが羨ましい。このような人たちは、どんなものが見えたとしてもそこに意味を感じて、作品に消化できるのだろう。
……その寸法で行くならば、ナニカが見える僕は感受性に満ち溢れてるのかも。
考えておいて自分で笑ってしまった。底意地が悪すぎる。
「なんで立ち止まってるんですか? 早く次行きましょー」
そして僕と天笠は最後の、絵画がメインのスペースに入った。今まで目新しげなものばかり見ていたため、最後に絵画を見るとなにか言い知れぬ安心感がある。
絵画のスペースにあまり人はいなかった。先ほどまでの現代アートな作品群と比べて、見た目のインパクトには欠けているところがあるからだと思うが、僕にしたら静かで快適で鑑賞しやすい空間だ。
「先輩先輩! あの作品なんですけど凄くないですか!?」
どうやらそんなことはなかったらしい。天笠がいたなら結局はうるさい。
「……お前、僕さっきも言ったよなあ? 声がやかましいって」
「あっ……すいません。ってそんなことはどうでもよくて。見てくださいよあの作品! 感嘆の溜息しか出ませんよ!」
「だからうるさいって……。お前もうそれ以外の言葉たくさん出てるから」
何かの作品に感動したと言って鼻息を荒くする天笠に引っ張られて、僕はその作品のところまで連れて行かれる。正直、いつも上から目線で話していることの多い天笠が興奮するほど凄いと言う絵に少し興味はあった。どうせ僕には理解不能だろうとも思っていたが。
「え?」
だがそれは理解不能どころではない。
言えばまさしく視認不能だった。
天笠に見せられた作品の額縁の中。
埋め尽くすように、あのナニカが蠢いていた。
「どうですか!? 何かこう、やばそうな雰囲気が絵を見ただけで伝わってきませんか?」
興奮する天笠とは対照的に、僕の内心は混迷していた。とっさに側頭部に携えた手からは金属製のフレームの冷たい感触を確かに感じる。
どうして、また。
不審がられないように、どうにかして天笠に対しての返答の言葉を絞り出す。今の僕の頭ではそれで精一杯だった。
「……ああ。何か、こう、感じるな」
「そーでしょう? こんなところですんごい作品に出会えるなんて……提案してくれた与一先輩様様ですね!」
「……そりゃどーも」
……ぐッ。
酷い頭痛で天笠の言葉がすっと頭に入って行かない。目の前の気持ち悪い光景だけに意識が先鋭化していき、集中させられていく。
こんな体験は初めてだった。
ナニカは普通の人間のそばにも僅かながら存在している。ここまで異常な数のナニカが集まる光景は、あの『死体』を除いて今まで見たことがなかった。
なんだ、この絵は。
急に汗をかいたTシャツが冷たく感じ、額からは今までとは全く異なった汗が垂れてくる。健在だったはずの膝は笑い、目の前の景色が歪む感覚に囚われはじめた。
絵に見入っている天笠がどんどん遠く――。
「大丈夫ですか先輩? 顔色やばいことになってますよ。熱中症とかじゃないですか?」
「……ぁあ、そうかも知れない。ちょっと休んでも、いいか?」
気が付けば心配そうに顔を覗き込まれていて。
僕と天笠は展示会の会場を後にすることになった。
◇9
帰り道。
少し休憩してから大丈夫だとは言ったが、かなり心配させてしまったようだ。
結局上の階へと行くことはなく、少しメビウスの中で休みながら駄弁って解散した。その際に天笠に「今度は上にも行きましょうねー!」と手を振りながら言われてしまったので、なんとなくだがまた行くことになりそうだった。
嘘偽りなく、体調だけはすこぶる快調だった。暑さが少し控えめな分、行きのときよりも、と言えるぐらいに。
それでも。
目を閉じた瞼の裏にはあの絵の光景が焼き付いていた。意識しないようにするほど、空いた意識の隙間からナニカが溢れ出てくる。
……だめだ。
自分でも分かっているのだ。これが意味のない思考だということは。
あの日から自分に必死に言い聞かせてきたのだ。これから僕はこの黒いナニカと付き合って生きていかないといけない。適応しなきゃいけない。自分の世界がいきなり破壊されてたまるか。必死にもがいて、耐え難い頭痛、堪え難い嫌悪感を言い訳にしか聞こえないような都合のいい解釈で我慢してきた。……我慢してきたさ。明るいところに行けば否が応でも目に入る状況で、学校だってあまり休まなかった。逆に努めて行こうとした。自分の日常が、世界がナニカによって浸食されていることを完全に認めてしまうようで嫌だった。顔を上げて人と会話することが面倒くさくなり、暗くした自分の部屋に籠ることが多くなっていることは分かっていたし、正直自分でも辛かった。段々段々、ゆっくりゆっくりと諦めの方向へと心はねじ曲がっていった。そんな時に、鏡越しにナニカが写っていないこと、眼鏡をかけたときに以前の状態に戻った視界に気づいた時には本当に涙が出そうなほど嬉しかった。ようやく戻れる。「普通」の状態に戻れる、って。
だけどそんな姿をあざ笑うかのように。
塞いだ手のひらの隙間から少しずつ黒い水が滴り落ちるように汚れていく。
もはや眼鏡を通しても、もやのようにうっすらと――少しずつその濃さを増しながら――黒い物体が視界の中に映りだしていた。
……もうどうしようもないのか。
諦念と絶望。
自棄になる自分が、眼鏡を外してポケットの中に突っ込む。
当然のように視界にはナニカが出現する。軽く頭痛がしていたが、もはや何の感情も沸き起こる気がしなかった。
人と車の区切りがない道路、その端の方に一か所、ナニカが異常なほど集まって蠢いているところがあった。メビウスの絵のように、そこを世界から切り取ってしまうほどであり、何があるのかは全く見えない。
僕は立ち止まって、その光景を眺めていた。面白くもなかったが、つまらなくもなかった。目の前の地獄のような惨状が確かにこの世のものであり、自分の抱えている現実であることが口角を歪ませた。
しばらくしていると、小さめのワゴンタイプの車がその場所の近くに止まった。車からは透過率の低いビニール袋を携え、ゴム手袋をした人が降りてくる。その人はナニカの場所まで歩くと、その中へと手を突っ込む。
掴んだそれを持ち上げてビニール袋に入れるとき、纏わりついていたナニカが零れ落ち、何であるのかが少し見えた。
轢かれて潰れた鳩の死骸だった。
……最初に見たときも死体だったな。
舐めるように這いずり回っていたナニカは果たして悪魔か死神か。
気持ち悪い葛藤の中で、歩く足を再開する。ただ、その足取りはどこに向かうのか分からない、迷い人と同じものだっただろう。
歩いて。
歩いて。
歩き回って。
ふと気づいた時には、太陽は既に西側で。
目の前に見えるある一か所を橙色に照らしていた。
本来その場所は光の差さない陸橋の真下。いずこの隙間から差し込む西日でハイライトを浴びていたのは、いつかの露店商。
街頭に誘い込まれた虫のように、僕は無意識にその場所に近づいていた。
「……いらっしゃい」
そこには見覚えのある白髪の店主が、簡易的な椅子に足を組んで小さく腰掛けていた。言い知れぬ力強さを感じさせるその人は、暇そうに紙煙草を吹かす。
「お兄さん、ここに来るのは2度目だねェ。そんなにこの店が気に入ったかい?」
「……」
話したい気分ではない。僕は押し黙る。
物好きな奴もいるもんだ、と店主はそんな僕をからからと笑った。
「それとも、なんだ、人生にでも迷っちまったかい?」
店主のあまり開いていない目が、一瞬鋭くなったような気がした。
僕はその微弱な雰囲気の変化を十分に認識しながらも、理解できず、それよりも店主の視線に不快さを感じていない自分に驚いていた。鋭くて、柔らかい。そんな矛盾した印象を抱かせた。
ずっと黙ったままの僕に呆れたのか、ふーっ、と店主が長くため息を吐き出す。
つかの間の沈黙がその場を包んだ。
「…………ぁ」
そこでやっと気づいた。なぜ気づかなかったのか自分でも分からない。
この人の周りから一切、ナニカが見えない。
「なんだ?」
顔を見たところで固まって動かなくなった僕を見て、店主が声をかける。が、反応しない僕を見て諦めたのか何も言わなくなった。
いたるところに存在する黒いナニカは、人間にだって少なからずついているものである。それは眼鏡無しで生活した2週間ほど前に分かっていたことだ。
だが、目の前の店主にはいっさいそれが見えない。感じることすらできない。
何か言葉を吐いてその場を埋めようとするが、上手く話すことができない。思考が回らない。
言葉に詰まった僕は意識をもう一度現実世界――目の前の店主に向ける。
結界の類でもあるのだろうか、そんなことを本気で考えるほどの無。
朝会ったときに感じた不思議な雰囲気と関係があるのか。
……とっ散らかった空回りを始めそうになる。
実際、迷っていることは山のようにあった。さっきから頭の中ではいくつもの光景が現れては重なり続け、もはや黒一色と化していた。
そして、思考にもならない記憶の嵐の中で、見えた微かな光明へ飛びついた。
「……死に引き寄せられる黒い物体について、何か知りませんか?」
ずっと黙っていたにもかかわらず、言葉はするりと喉を抜けていった。
あの日から僕は誰にもナニカについて説明したことはなかった。理解されないことが分かっていて、それを口に出すことで奇異の視線を向けられることも、言葉上で存在を認めることすらも嫌で仕方がなかった。
そんな自分が今、2回しか会ったことのない人物に自分の世界を伝えようとしている。
自分でも不思議な感覚だった。しかしこれは、深い思考によるものではなかった。とっさに口をついて出たのが最初の疑問だったというだけだ。
頭のおかしい人間と思われてもおかしくない質問に対して、店主は特段変わった反応は取らなかった。
世間話をしているのと変わらない様子で、手に持った煙草をゆったりと口に咥え、煙を深く吸い込んでから僕の方に向いた。
「逆にお兄さんは何を知っているのかい?」
視線は先ほどと同じように鋭い。しかし、心なしか先ほどよりもその目が開かれているような気がした。
予期せぬ返答に、僕はただ怯んだ。
僕は……僕は何を知っているのだろう。
答えなんてわからない。それでも何か言わなくてはいけない気持ちに駆られて、僕は頭に浮かぶ言葉を必死に吐き出した。
「……よく分からないんです。最近ソレが見えるようになって、……でも他の人には見えていなくて」
「公園の死体から出てきて……それでもそんな事件はどこにもなくて……」
「……眼鏡をかけてごまかして……それでも結局無意味なことで」
「……今でもソレが直視できない、向き合えないでいるんです」
自分で言っていても支離滅裂。そんな言葉を店主は黙って聞いていた。
顔色一つ変えずに、頷くこともせずに、左手に持った紙煙草の煙を燻らせながら。
「それで?」
「……」
「ああそれで終わりなのかい。随分まあ大したことないことで悩むものだねェ、最近の若い子は」
「……そうでしょうか」
「そうだとも。最初に言っておくが、私はそんな黒い物体など知らないし見たこともない。恐らく世間一般の人間もお兄さんの言っていることには首を捻るだろうさァ」
ふーっ、と煙を吐き出す。
拍子抜けしたような口ぶりにも憤りは感じなかった。
ああやっぱり……という思い。それと、自分以外に理解されてたまるか、という変な自尊心の2つが顔を覗かせていた。
「だって関係がない。そうだろう? 他人に何が見えていたって自分の人生には何も関係がない。大小差はあれど、人間自分にしか見えないことなんて抱えているもんさ。お兄さんが見えているそいつだって、人には違うもので見えているかもしれない。もっとおぞましいものが見えているかもしれない。人が鬼に見えるとはよく言うものだろう?」
言葉は続く。
「でも、人はそれを口に出さない。なぜか? それはどうでもいいことだからだよ。誰しもが自分の頭の中に描いた『普通の世界』を他人と共有して、その中で生きているのさ。他人も自分も無視してね」
くゆる煙の元が一瞬だけ赤く光る。
「お兄さんはもっと自分をないがしろにするべきなのさ」
「……そんなものですか」
「そんなもんさ。お兄さんの何倍の長さの人生を生きている私が言うんだから間違いない」
いつの間にか店主の隣にはあの黒い少女が立っていた。店主はその少女が見えているかのようにそちらを一瞥すると、自らが腰かけているのと同じ簡易的な椅子を自らの後ろから引っ張り出す。
目の前に置かれた椅子に少女は静かに座り、退屈そうに足を揺らしている。
この時、僕は初めて少女の顔をはっきりと確認した。
(……こいつの、顔)
あまりに似すぎていた。
先ほどまで一緒にいた、天真爛漫な後輩の顔と。
無表情な黒い少女とでは差が激しすぎて全く思いつかなかった。
いったいなぜ?
僕を置いてきぼりに店主の話は続く。
「……私が見えているものと、君の見えているものは恐らく違う。だがそんなことはどうでもいいことなんだよ。自分自身に縛られていたら、この先恐らく君は今の悩みと同じものを抱え続けることになるよ。だからこんな風に――」
そう言って店主はタバコを持っている左手を、少女の顔を目掛けて水平方向に振りまわした。
「えっ、あ……」
違うことに意識が向いていた僕は店主の突然の凶行に全く反応できず、その一部始終をはっきりと見届けることになる。
店主の持つ煙草の先が白い肌を焦がそうかというその瞬間に――その手は少女を貫通した。
少女の頭部はまるで煙のように周囲に霧散していった。その気体のようなものは段々と少女の足元まで降りてくると、そこで『ナニカ』に変わった。……しかしそれでも少女のものだった体は、何事もないかのように変わらず足を揺らしている。
目の前で繰り広げられる異様な光景に、僕は黙って見つめることしかできなかった。
「――適当に振り払ってしまえばいいのさ。どうせ人間一人じゃ生きられないんだ。自分の世界、過去の自分、そんなものより大事なのは……」
店主がもう一度視線を向けて、僕に発言の答えを求めるように顎でこちらを指す。
「……今の生活、ですか」
「そのとおり」
異様な光景に立ちすくみながら答える。
店主はその回答に満足したのか、再び吸い込んだ煙をため息のように深く吐き出す。
それっきり店主は黙り込んだ。
店主の言っていることは少しだけ理解できた。確かに心のどこかに刻まれた。
しかし朱に色づいて輝く露店とは対照的に、頭の中は曇天のような鈍色のまま。
全てを振り切ってしまいたかった。それにはまだ、脚が重すぎて。