4 黒蟲
◇4
なんだかんだとその後も将棋を続け、時刻は活動終了時刻の4時半になった。夏では全く明るいままであるが、延長届を出していない部活や学級活動はこの時間までとなる。
いつもはそのまま天笠と帰っているところだが、今日はまだ学校に用事が残っていた。
「じゃあ先輩。約束忘れないでくださいねー」
と言って手を振る天笠と別れたのがつい先ほど。今僕は二階の廊下を歩いていた。
本棟2階のフロアには職員室や事務室などの教室がある。まあ、真面目に生きていればあまり立ち寄ることのない階である。
かといって僕が何かやらかしたかと言われれば、別にそういうわけではない。
用事があるのは職員室の隣――生徒会室であった。
あいつ本当に行くつもりなんだろうか。……いや行くつもりなんだろうな。
さっきの天笠に言われたことを頭の中で反芻する。人と出かけることが久しぶりすぎて今から少し憂鬱な気分である。
「失礼します」
ドアノブを捻って生徒会室に入る。中には本棚や書類の山、コピー機などが壁に置かれている。僕の部屋といい勝負かもしれない。その中心に置いてある長机にパソコンを置き、椅子に座っているのが僕を呼んだ張本人の深路であった。
「や、すまんな」
す、と綺麗にこちらに向けて片手をあげた。なるほど、顔を上げずに作業をしているところを見るとよほど大変らしい。
天笠が教室に来る前に、「ちょっと芸術祭関連の作業手伝って欲しいんだけど部活の後暇か?」と深路に声を掛けられていた。反射的にそれを承諾した僕はわざわざここまで来たという寸法である。面倒ではある。別にいいけど。
肩にかけた鞄を壁の端に置いて、中から筆箱を取り出す。
「なんだ。てっきり大変って言うからもっと大人数で作業してるのかと思った」
「人手が足りてるなら津島を呼ぶ必要ないだろ」
それもそうか。
「そこに積んである冊子の下書きあるだろ? それ、全部サインペンで清書してくれ」
「はいよ、了解。……割と量あるな」
指示されたものは分かりやすく机の端に置いてあった。
1、2、3、4……こんなに量用意してるのか。この手の学校紹介冊子なんて呼んだことないから知らなかった。うわ、しかもイラストまで描いてあるとか地獄か。
……断っとけばよかった。
――――――
――――
「…………っくぅーー。こっちは終わったよ」
「ああ、私も今終わった。ありがとう、助かったよ」
サインペンを置いて大きく伸びをする。ペンを握っていた手の側面はインクで黒くなり、傍らには消しカスの山ができている。
……死ぬほど疲れた。手の側面、小指球あたりの筋肉が痛い。
細かいところまで凝りすぎ。これを作った奴は絶対超の付くような真面目だ。僕だったら間違いなく投げ出す。
深路の仕事ではないだろう。この顔と雰囲気、生徒会長の肩書で真面目っぽく見られているが、こいつの中身は物凄くいい加減だ。
「終わったこれ、どうすればいい?」
「そのまま机に置いといてくれ……あー、その前に一度私に見せてくれ」
一時間ほどの血と汗と涙の結晶――清書した冊子を手渡し、僕は机に突っ伏す。深路は受け取った冊子をペラペラと捲りながら確認を終えると、棚から引っ張り出したいくつかのクリアファイルへ入れて元に戻した。
「よし、今日までにやりたいことは全部完了」
小さく独り言。こいつほど感情が顔に出やすい奴も他にいるまい、という満足げな表情を深路は浮かべていた。
「で、どうする? 帰るか?」
時計を見ながら問いかける。延長活動の最終時刻まではあと30分ほど余裕があるし、まだ空も暗くない。が、別にわざわざ残る理由は僕にはない。
「ちょっとだけ残ってもいいか? 絵の途中を描きたいんだ」
と言って深路は自分の鞄からスケッチブックを取り出した。僕が答える前に既に動いている、なんて指摘は――まさに詮無きことってね。嫌いだし今日の授業はこれしか覚えていない。
……まあ別にいいよ。
筆箱のチャックを閉める。上体を起こして固い背もたれへと体重を預ける。やることもないので天井へと視線を飛ばした。
「お前そういえば美術部だったな」
「……お前もな」
深路はスケッチブックをパラパラと捲り、目当てのページを開く。どんな絵が描かれているのかは体勢的によく見えない。鉛筆とティッシュを用意して、すぐに紙の上で走る鉛筆の音が鼓膜に伝わりはじめた。
似非美術部の僕と違って、こいつは純粋に絵が上手い。部活中に僕とつるんで遊んでいるくせに絵もちゃんと仕上げている。
しかも展示されているような絵との違いが分からないぐらいには上手い。進路調査票に美術系の大学を書いていても欠片も驚かない自信がある。
昔もよく描いていたっけ。
どうも昔の記憶には自信のない僕だが、深路に初めて話しかけたときも絵を描いていた気がする。
頭の中に浮かんできた小学生の深路を今の姿と重ね合わせる。
……全く合わない。
こうして深路を見ていると、薄い記憶の中にある深路の姿とは似ても似つかない。
深路香奈という少女は、なんかこう、もっと自信なさげで無感情な子供だったはず、だと思う。
「なあ」
「うん?」
「お前、やっぱ変わったよな。小学生の時と比べてさ」
その言葉を何気なく放ったとき、深路の表情が変わった。
驚いているような、悲しんでいるような。こちらの心の内を推し量るような表情に責められている気持ちになる。
……。
そんなに変なこと聞いてないよな、僕。
「……ああ、そうだな。そういう風になるわけだ」
「?」
よく分からないことを言った深路は、すぐに描きかけの絵の方に視線を戻した。
嫌に変な雰囲気だった。
……いつだったか、高校に入って再開してすぐの時もこんな感じだった気がする。でもあの時は確か向こうから……。
何か触れられたくないことでもあるんだろうか?
そんなことを聞ける雰囲気でもなく、室内は静寂に包まれる。
「そういえばお前。絵はもう描かないのか? それこそ昔はよく描いていただろ?」
静寂が破れたのは存外にすぐのことであった。
「……すごく好きな絵があったんだ。それへの憧れで描いていただけなんだよ、昔はね。まあどこで見た何の絵だったかもよく覚えてないんだけどさ」
今考えると凄いことだ。きっと当時の僕は風呂に入ったアルキメデスばりに雷に打たれたに違いない。絵を描くことだけに集中し、寝食を忘れたその情熱は今の僕にはもうどこにもないから。
さらに言えば、別に才能というやつも僕にはなかった。描いて、描いて、描きまくった末にも、焦がれたその絵や深路の描いた絵のようには到底近づくことはなかった。あれだけ描いた記憶はあるのに、中学生のときにはもうさっぱりだったからどこかで気持ちも切れたのだろう。
感覚は――まだある程度残ってる。多分、描けなくはない、と思う。
ま、と言っても僕の絵なんて深路のものに比べるべくもないものだし。
「それは違うぞ。少なくとも私はお前の絵が好きだったし、絵の評価なんて人それぞれだろう?」
「……そう言われるのは嬉しいけどさ」
「まどろっこしいな。じゃあこれだ」
そう言って深路は手元の紙に手早く何かを書き込み、2つ折りにしてからこちらに投げてよこす。
これは小学生の頃からの、僕とこいつのお決まりの儀式だった。彼女の意向に後で文句を言わせないためのもの。
「1」
そう宣言しながら開いた紙には、僕のとは似ても似つかないような綺麗な字で『2』と書かれている。
仕組みは単純。1か2、どちらかを深路が選んで、また僕に選ばせる。数字が当たれば僕の意見、数字が外れれば深路の意見を受け入れるというものだ。
これまで9割近く負けているので、もはや受け入れるための儀式である。加えてこいつは本当に意見を通したい時は普通にイカサマをするから違う数字の紙を見ても思う所はない。最早。
ちなみに残りの1割は昔暗号を作ってイカサマしていた時のもの。ぶちギレられたのですぐに封印された。
「お前がどうしても描きたくないような理由があるなら仕方ないが、今少し描いてみたらどうだ?」
ほら、と深路がスケッチブックから1枚切り離し、こちらにスッ、と投げてよこした。紙はクルクルと回りながら長い机を滑り、僕の手元のところでちょうど静止する。
絵、絵かあ。
……暇には暇だ。やることも無い。
使わずに机の上に置かれたままの自分の筆箱を引き寄せる。鉛筆なんて入れていないが、まあシャーペンでいいだろう。
何を描こうか。
取り出したシャーペンをくるり、くるりと右手で弄びながら、体勢を変えて左手で頬杖を突く。
特に描きたいものはない。当てもなく部屋中に視線を彷徨わせても――と視点が止まる。それは僕から見てちょうど正面、絵を描く深路の場所だった。
やっぱり美人か。昔から偉い先生方が題材に困ったときは絶景か美人を描いておけば良いと言っている。頭で決まってしまえばもう変える気にならない。自分の性格だからよくわかっている。
まずはアタリを。
そうやって紙にシャーペンの先が触れた時だった。
前触れなく、世界が壊れたのは。
天井に、床に、窓に、机に、椅子に、電灯に、時計に、絵画に、文房具に、人間に。
世界を黒とそれ以外のモザイクに分けるかのように。
説明できないあの黒い『ナニカ』が。
無数に。
支配的に。
冒涜的に。
滲みだすように現れ、蠢いた。
時間が止まったように停滞し、自分の体ではなくなってしまったように動かせない。
頭の中は3分割され、まるで自分という存在が切り離されてしまったかのように、それぞれが好き勝手に喚き散らす。
一つは耐え難い頭痛への絶叫。
もう一つは眼鏡をかけたままなのに、という困惑。
そして最後に脳に浮きあがっているのは1か月前に目撃した――変死体。
結局僕はそれ以上何かを描くことができなかった。
◇5
――ここ……どこだ……?
目を開けたとき、そこには知らない天井が広がっている。
自分の視界は、顕微鏡を覗いているかのように極端に狭くなっていて、首を動かしても白いものが写るだけだ。
力を入れようとしても、体が動かない。
……なんのおとだろう? ひとがたくさんはしっているような――――。
「……はぁ……っふぅ……」
そこで目を覚ました。
帰ってきて早々に倒れこんで寝ていたようだ。
病院にいたころの夢、なんていつぶりだろう。
弱弱しく伸びをしながら、たった今起こした上半身を再度ベッドへと倒れこませる。冷房だけ点けて、部屋の明かりは点けない。真っ暗のまま。汗だくの制服のまま。
疲れているわけじゃない。いつも通りだ。
……。寝ぼけた思考が急速に冷えていく。
いつも通り――いつも通りか。
その言葉の指すところは、この一か月間で大きく変容してしまったように感じる。
何も見えない、何もわからないこんな闇の中に、一番の安息を求めるようなものでは決してなかったはずなのだ。
ほとんど度の入っていない眼鏡を外す。
いつまでたっても慣れない。ずっと首回りが重いままだ。
それでも手放せない。
暗闇にいれば、闇に紛れているであろう『ナニカ』を見なくて済むのだから。
歪な安心は暗闇に少しずつ慣れていくと同時に薄れていく。
そもそもの発端は1か月前に目撃した死体。……なぜかニュースに上がらない『あの』死体である。
あの日。酷い頭痛に苛まれた後、意識が再度覚醒したときには、僕は外出したそのままの恰好で自分の部屋のベッドの上に倒れこんでいた。
闇の中で最初に感じたのは困惑だった。何が起きたのか、自分がどうやってここまで帰ってきたのか、自分が見たものはなんだったのか。分からないことばかりが、ぼんやりとした頭の中に泡沫のように浮かんでは消える。
思考がまとまらない。
言い知れぬ不安。何もできない苛立ち。全身から服へ貼り付いた汗が不快感を煽る。前髪を持ち上げて頭を押さえる。掻く。軽く叩く。どうにも拭えない。
浮かんでくる記憶は夢幻だったのだろうか。
そんな都合の良いことを考えているとき、もう片方の手が何か固いモノを握りしめていることに気が付いた。
……なんだ、これ?
のそり、と立ち上がって机のライトを点ける。小さく強い明かりに照らされた時計が示していた時刻は未だ深夜。
そして開いた手が握っていたのは、黒い音楽プレイヤー。
意味わからん、とそれを無意識に弄んだ時。
(!?)
芯に冷や水を浴びせられるように、目が、意識が醒めた。
音楽プレイヤーの裏。そしてそれを握りしめていた自分の手。――そこには乾いた赤黒い何かが呪いのようにこびり付いていた。
呼吸が浅く、早くなるのが止まらない。目を閉じ、少し震える手で机の上に端末を置く。
目が覚めてからずっと感じていた謎の存在感。
何かがこの部屋にいるような、そんな違和感。僕は後ろを振り向く。
「…………ぁっ」
部屋の家具が机のライトに照らされて影を作る。
それだけではない。
影でも闇でもない黒。得体のしれない生物のような、不定形のような、虫の群体のような。
それはもう『ナニカ』としか形容できない――異形が部屋中で蠢いていたのだ。
記憶は不鮮明なままなのに、死体から這い出た黒い物体はあれから傷跡のように視界の中に留まり続けた。
世界、ではなく視界。幻というにはあまりにも強烈な存在感を放っていた『ナニカ』だったが、誰にも認識されることはなかった。いたるところに存在しているのに、見えているのは常に僕だけだった。
拭いきれない気持ち悪さを感じていながら、『ナニカ』に触れようとしても、霞を掴むようでまるで手ごたえがない。動かすことはできても、掴もうとすれば煙のように手のひらの中から霧散してしまう。その存在を自分の中でもはっきりと証明することもできない。
初めは外出するのにも恐ろしくてできずに、学校も休んだ。
……今ではそんな得体のしれない『ナニカ』の蠢く世界が僕の当たり前になってしまっている。
しばらくしてからだったが、直接でないと見えないことが偶然分かったことに助かった。今まで不便でないからと気にも留めていなかった視力検査の結果用紙を片手に、すぐに眼鏡を作りに行った。
眼鏡を用意してからの2週間、それまでの日常をほとんど取り戻したと思っていた。
はずだったのだが……。
(……まるで当てつけじゃないか)
………………。
不意にポケットに入れたままの携帯が振動した。
仰向きに寝転がったそのままの体勢で携帯を取り出し、少し考えないとどこに配置していたか忘れてしまうメッセージアプリを起動する。
新規メッセージの通知切って溜まりきったクラスグループ。その上の相手に送った「日曜日どうするんだ?」に対しての返答はまだ来ていない。
手に持った携帯を傍らに放り投げ、小さく欠伸をしてから両手で自分の顔を覆った。
小さい時からの癖だった。こうやっていれば気分が落ち着いて楽になる。ナニカを見ることもない。
冷えていく部屋の中で、両の掌だけが温もりを感じさせた。
……今日のことは忘れよう。