2 真夏
◇2
「なあ、お前どう思う?」
あつい。すずしいけど、暑い。
それもこれも先ほどの授業で使っていた教室、そのエアコンが故障していたことが全ての元凶である。現場ではあまりの熱波による地獄が展開されていた。窓は全開にしたからと言われましても、風なんかまったく吹いていないんですけど。
戻ってきてからは天国である。呪文のような蝉の声と急激な温度変化に、どろどろと脳が溶けていきそうだ。エアコン万歳。
「おーい。聞いてるかー」
でもなんで僕の席だけピンポイントで日差しが入ってくるんだ。後頭部が尋常じゃなく暑い。何か恨みでもあるのか神よ。
張り付いてくる肌着は煩わしいし。あーあ。何もかも嫌になりそう。
……なんか腹減ってきたな。そろそろ飯食うか。朝何買ったっけな。
「おい。聞いてるかって」
「聞いてない」
「昨日さー、すげー大変だったんだってマジで。千代が智久の態度に本気で切れちゃってさー。止めに入っただけなのに俺教科書詰まったバックでぶん殴られたんだぞ。ほら、赤くなってるだろ」
そう言って、誰かが僕の肩を揺さぶってくる。
聞いてないって言ってるのに。
「そんなこと、いつもやってるじゃないか」
突っ伏した体勢のまま顔だけ上げて声に答える。
予想どおり、椅子に逆向きに座っている三谷がこちらに顔を突き出している。どうやら話は本当らしく、顔が全体的に赤くなっている気がする。素直に痛そうだと思った。
「なんだ。聞いてんじゃん」
「聞いてなかった。耳に入ってきた」
「あー、はいはい。本当に調子悪かったら素直に帰って休んどけよー? 長期入院経験者なんだから」
「……別にこんなのはどうってことないよ。しかもそれ小学生の時の話だし」
というかなんで眼鏡かけたまま突っ伏しているんだお前は、とあきれ顔の三谷を尻目に、机に出しっぱなしだった古文の教科書をカバンに突っ込む。代わりに中から今朝コンビニで買ったものを取り出した。
確か今日はでかでかと新商品と書かれているものにまんまと釣られてあげたんだっけ。
ビニール袋の中から出てきたのはおにぎり。わさびカルビマヨネーズ。僕は包装を開けて小さく一口ほおばる。
……意外とおいしい。
「うわー……またお前変なの買ってんなー。どれどれこっちは……ネギみそ醤油コーン。俺には理解できない世界だ……」
三谷はどこか遠い目をしている。
「ああそういえば与一。昨日この近くでなんか事件あったらしいって知ってっか?」
「いや初耳だけど、そうなのか?」
「いやほらうちの兄貴って警察官だって話前にしたよな? 確か」
それこそ全くもって初耳なんだけど。
僕の反応から言いたいことは伝わったらしく、三谷は話を続ける。
「まあどっちでもいいや。とにかく警察官の兄貴がいるわけなんだけどさ。なんかその兄貴が昨日バタバタしててさ。俺はそれとなく訳を聞いたのよ。どうしたんだって」
「ふーん」
「そしたら兄貴が『物騒な事件だ』って。そのときの兄貴の雰囲気がなんかやばそうな感じだったから、なんか事件でもあったんだろうなって思ったんだけど……もしかして知らない?」
そう言われて僕は今朝見たテレビの報道番組を思い返してみたが、そんな感じのニュースには覚えがなかった。そんな事件があったとすれば、朝に強くない僕でも流石に覚えていると思う。
まあそうは言うものの、僕が印象に残っている内容は“今年の夏は例年よりかなり暑くなるため熱中症に注意!“ぐらいなものであるから、単純に見落としていたのかもしれない。
「知らないなあ。少なくともニュースではやってない気がするけど……まあ僕が知らないだけの可能性もあるけど」
僕はおにぎりを一度包装の上に置き、自分の携帯を取り出す。そして検索エンジンに“白森市 事件 7月2日”と打ち込んで調べ、警察のホームページへと飛んだ。
”7月2日 白森市下川 引ったくり”、”7月1日 白森市大登 痴漢”、”7月1日 白森市五池 自動車事故”。その他にも詐欺だったり交通事故だったりがあるが、それらしい事件は見つからない。
他のところも確認したが、3年前のことだったり6年前のことだったりで、それらしい事件は見つからない。
「えー、やっぱりない感じ? おっかしいよなあ。俺もちょっと調べてみたんだけど何も出てこなかったんだよね。どっかから死体でも出てきたのかなあと思ったんだけど……って流石に不謹慎か」
あちゃー、とおどけたように話す三谷。
「実はどっかの組織の陰謀だったりして……まあいいやその話は。たいして重要なことでもないし」
なら聞くなよ。
「それよりさ……香奈と生徒会の山下って”デキてる”らしいぜ」
「!?」
突然の爆弾投下に、危うく飲もうとしていた水筒を落としかける。
あの深路に!? ……まさかな。あいつにいたってそんなことはないだろう。恋愛のれの字すら出てこない女だぞ。
しかも僕はあいつのめんどくさい性格をよく知っている。あいつと付き合う奴なんて、ご愁傷さまとしか言えない。
「おいおい三谷、本気で言ってるのか? あの深路だぞ」
「俺としてはなぜお前がそんなに言い切れるのかわからないんだけど。山下以外にもう一人ぐらい噂もあるし、なによりあいつうちのクラスでは1番の美人だろ。他のクラスの男からも人気あるって聞くぜ」
全然知らなかった。まさかあの深路が。
「何の話をしてるんだ?」
「「へぇっ!?」」
唐突に後ろから聞こえてきた声に背筋は凍り、心臓は天高く跳ね上がった。
停止した体を首だけをギギギ……と音が鳴りそうな感じでそちらに向ける。先ほど生徒会室に行ったはずの深路がそこにはいた。
「なんだいきなり。大きな声出して」
「おっ、お前いつ戻ってきたんだよ!」
心臓が忙しないスピードで脈を打つ。うるせえおちつけ。
「今戻ってきた。で? 私の話をしていたみたいだが、何の話だ?」
「い、い、いやいやいや大したことじゃないぜ? ただ……なっ、なあ与一!」
「おっ、おい! 僕に振るなよ!?」
「……?」
深路は何も言わずにじいっと圧力をかけるようにこちらを見つめてくる。そうやってもろに顔を見つめ合う形になり、先ほどの言葉を思い出す。
すっと通った鼻筋と、僅かに釣り上がった目元や引き締まった口元。肩甲骨の辺りまで伸ばした流れるような黒髪に、白くきめ細やかな肌。本人の持つ雰囲気と相まって、やや冷たい印象を相手に与えるかもしれないが、確かに顔は整っているとは思う。
……ビシビシと圧力を感じる。
背中に冷たいものが流れる気がしたが、逆に若干冷静になった気もした。
「何の話だ?」
そして視線を合わせたまま何も言わない僕に対して、深路は先ほどと同じセリフを繰り返す。自分に聴かせられないようなことなのかと、目力は3割増にして。
もちろん断固として無言である。
こいつと小学生の時からの長い付き合いである僕は、深路がこの手の話題を他人に振られると機嫌が悪くなるのを知っている。つまりは言っても言わなくてもどうせこいつは不機嫌になるとわかっているのだ。
ならば僕が言う必要はない。
言う必要はない、はずだ。
深路は黙ったまま何も言わない僕に見切りをつけたのか、一度嘆息し、そしてくるっと三谷の方を見た。
「三谷」
「っ……じ、実は今だな与一の恋愛の話を」
それを聞いた深路がピクッと小さく反応した気がした。気がしたが……こいつ鼻で笑いやがった。
「嘘にしても笑えないな」
僕のセリフだ。
三谷はうーとかあーとか言いながら救いを求めるように視線を動かし、そしてその視線は僕の机の上で止まった。
「あっ、あーそうそうそう! 香奈はどう思うよ。こいつのこのおにぎりの具のチョイスについてさ! どう考えてもおかしいと思うよなあ!?」
「おにぎり?」
露骨に話題を晒しにいった。
そういえばまだおにぎりが食べかけのままだったな。
……放っといて食べよ。と思ったけど流石に三谷に悪いので助け船を出そうか。
「これだよこれ。新商品だって言うからちょっと気になってさ」
「んー? ああ、これどこかで見たことあると思ったが、ツイッターの広告で鬱陶しいほど見たやつだな」
へー。
……ん? 何か聞き間違えたかな?
「私もツイッターぐらいやってるぞ。ほら」
よほど僕の顔に出ているのか、そういって深路は自分の携帯の画面を見せてくる。
そこには確かに、超有名な呟きアプリの画面が表示されていた。
「なん……だと……」
そんな馬鹿な。
こいつが自分のやることなすことをインターネットの海にさらして、『映え』だか『萌え』だか言っている連中と同種?
そして僕がこいつよりも現代社会に乗り遅れた化石人種だと?
……いや、言い訳をさせてもらうと僕だって昔はやっていたさ。でもあれってほらさ、友達多くなかったら大して何もすることないじゃん? そういうことである。
「まあ、私の場合は特に何も投稿してないし、専ら絵を見ているだけだが」
見る専。
あーなるほどなるほどそういうこと。
それならやってない僕と大して変わらないじゃん。はい、閉廷。
「自分の絵を投稿している人の中にも結構上手な人もいてな。……ほら例えばこの人とか」
「……確かに上手だけど、別にグッとこないなあ。なんかすごいグロいし。お前こういうの好きだったっけ?」
「この人結構な有名人で、昔の絵は比にならないぐらい凄かったんだ。かなり前にネットから失踪していたらしいんだが、最近復活したとかで話題になってな」
「へー、なるほど」
「かなり注意しないと分からないが、どことなく以前の自分の絵に頑張って近づけようとして描いている雰囲気がある。人間、期間が開けば変わってしまうのは当たり前だからな。今はまだ、私はこの後にこの人の絵がどう進化するのか見ていたいと思う」
「いや知らんけど」
深路に謎の熱が入ってしまった。
仕方ないので三谷と2人でうんうんと適当に相槌を打つ。
「…………とにかくだな。私だって現代人だ。あんまり舐めるなよ、化石人の津島君」
喧嘩売ってるな、こいつ?
「して――いらないなら私がもらってやろう」
あ。
横からすっと伸びてきた手に持っていたおにぎりを取られる。
「んむ、ん……んん。なんというか……吐瀉物以下の不味さだな」
「人のいきなり食っといて第一声がそれってどうなんだ」
今度は僕がさっきの三谷と同じ呆れた表情を浮かべることになる。いつも通りの仏頂面で平然と言ってのける横の女に、全てを通り過ぎて呆れを感じたのは仕方のないことだと思う。
僕は横の女――深路香奈に対して抗議の意味を込めて視線を送る。
視線に気づいたらしい深路は、はて? と首を傾げている。こいつに何を言っても無駄なことはよく分かっている。これはまだ見ぬいつかに希望を込めた視線なのだ。
……もうなんでもいいや。さっさと食べよう。
「そういや、どこ行ってたんだ香奈?」
「芸術祭の準備でな。生徒会室に寄る用事があった」
「へー、9月まであと2か月近くあるのにこんな時期から大変だな」
「運動部のお前や最近学校をサボり気味の津島にはピンとこないかもしれないが、生徒会だけじゃなく、文化部や熱意のある人は活動しているぞ」
「あー、たしかにそう言われるとそうかも。うちの学校、謎に芸術関連へのこだわり凄いから運動部の方が暇かもってね。……あ、そういや聞いてくれよ香奈。昨日の話なんだけどさー」
三谷が昨日の話を深路に始めたところで、僕はかじられて小さくなった残りのおにぎりを一口でほおばる。
口の中にわさびの辛味とマヨネーズのまろやかさ、そして存在感を少しだけ保ったカルビが一体となって口の中を満たす。
おいしい。やはりこれは当たりだ。
9月の芸術祭――文化祭かあ。
芸術関連へのこだわりが凄い、と三谷に言われる白森高校。その文化部にいる僕としても無関係な話題ではない、はずなんだけども。
いかんせん真面目に部活動をしていたことがないから、自分の部活が何をするのかも分からん。部内に知り合いもほとんどいないし。
まあそれに。
「単純に面倒だし」
「「……はぁ」」
話していたはずの二人から思いっきりため息をつかれた。
見なくても分かる。どうせ「またこいつは……」という顔をしているのだろう。
「メンドウ、メンドウってよぉ……口癖になってるじゃんもう」
「自分が嫌なことは絶対やらないからな。津島の性格を端的に表していると言えばその通りの単語だな」
なんて失礼な奴らだ。
変える気がないとはいえ、たまには我慢してるぞたまには。
口の中のものをしっかりと味わって飲み込んでから、僕はもう一つのおにぎりの包みを剥いた。
ネギ味噌醤油コーンだ。
流石に少しだけ躊躇し、せいっ、と一口食らいつくが米と海苔の味がするだけ。中を見るとまだまだ具は微かにも見えてはいない。
むう。
もう一口食べる。
……これは失敗したわ。