18 欠落
◇39
『白ノ森遊園地前~、白ノ森遊園地前~』
ドアが開いて、バスを降りる。
いつも通りに財布と携帯、そして音楽プレイヤーはポーチの中に。道中で買った一本ずつの菊の花束を、確かに三つ抱えながら。
降りる客の数は思いのほか少ない。遊園地に行くのであれば、この時間帯からでは遅すぎるのだろうか。携帯の時刻表示は十二時を回っていた。
最近取り掛かり始めた重大な『作業』。とても久しぶりのことだったから、自分ではうまく区切りをつけることができなかった。
奥に見えるオレンジとイエローの派手色で彩られた建物も、特に変わった様子はない。中から聞こえてくる声を聴く限り、営業もあれから再開しているのだろう。
待ってくれている人も、待たせている人も、今はもういない。
午前中に比べても更に強い日差しが照り付けていた。
バスを降りてから、遊園地に向かうために直進――することはなく、目の前にある遊園地を通り過ぎて蝉の声が強くなる方へ、裏山の方へとそのまま直進する。
懐かしい感覚を頼りに進んでいけば、いつぞやの夜と同じように、自分の記憶がより鮮明化していくのが分かる。
前に天笠に言われたなのかもしれない。制限時間に焦って埋めたジグソーパズルは、八割方で回答してしまった。
まだ終わっていない。
終えるまでは、終われない。
だからこそ散らばった小さな欠片を拾い集めるのだ。
感覚のままに辿り着いた先で、ボロボロに経年劣化した柵と『立ち入り禁止』の注意書きを見つける。
僕の肩ぐらいの高さのその柵には大きな穴が開いたままになっていた。夢中で走っていたから気づかなかったが、小学生ぐらいの子供なら難なく通り抜けられそうなほどの大きさだ。
(こんなに低かったのか)
僕は柵の一番上に手をかけ、やはり難なくそれを乗り越えた。
木々に囲まれた中は、相変わらず凄まじい熱気が滞留していた。直ぐに全身からべたついた汗が噴き出す。
そのまま歩き続け、膝に拳ほどの大きさの染みが作られたその時、僕は思わず足を止めた。そこは元来の目的の場所ではなかった。が、僕が首を向けた方向にはか細い分かれ道がある。その先は少しだけ開けた場所につながっていることを知っていた。
(……いつ以来なんだろうか、ここに来るのも)
足は自然と方向を変え、その場所に誘われるように踏み入れる。
この開けたスペースだけに光が差し込んでいて明るい。目に飛び込んだ陽光を、条件反射的に手で遮った。明順応した目に映ったのは、変わりつつある懐かしい光景だ。
一番初めに目に映ったのは、だれが何のために用意したのかずっと分からない小さな物置小屋。かつての僕らの秘密基地だった場所だ。今はあのころよりもさらに劣化していて、今にも木が腐り落ちて崩れてしまいそうなほどになっている。
僕はその近くに置いてある、椅子にするには少々小さい丸太を引き寄せる。今の僕には大分窮屈な代物だったが、構わず座った。
やはりここから見る風景も――目線の高さは違うが――ほとんど変わらない。
なんだろう、あれ。
小屋の入り口に何か書いてある。
ここからはよく見えない。どうにか動かずに見ようと目を細めても、やはりぼやける。
二メートルぐらいしかないはずなのに。いつからこんな視力が落ちた? 眼鏡のせいか?
苦笑いしてから、立ち上がって近づく。
目の前まで来れば分かった。
人の名前だ。筆跡もバラバラ。黒のインクも剥げかけている。
――『香奈、与一、和也、宗孝、由香』。
静かに伸ばした右腕と指先。インクの残り滓に触れ、そしてゆっくりとなぞる。
目を瞑らずとも、どこかから子供の笑い声が聞こえてくる。
無邪気で、明るくて、楽しくて、鮮明に聞こえれば聞こえるほどどうしようもなく懐かしくなる類のものだ。
最後の字をなぞり終えた手を下ろして、踵を返す。
元の道へと戻るのだ。
山はより一層と茂みの濃さを増し、これまで以上に人の手の行き届いていないところへと進んでいく。この山に初めて入った人なら必ず迷うだろう、と言えるほど辺りは木のほかに何もない。
僕にとってはもはや回数を数えるのが馬鹿らしい。それほど通った道だ。仲間だけが知る目印も当時のまま残されていて、まるで自分が過去の世界に迷い込んでしまったような感覚にもなっていく。
つられた足はどんどん速くなる。だから想定していたより早く目的地にたどり着いた。
僕の目的地、それは――六年前のあの事件の現場だった。
そこに特別な印は何もない。
周りの風景と変わらずに、生い茂る木々に囲まれ、陽は遮られている。喧騒の跡なんて欠片ほどもなく自然が同化している。普通の人がこの場所に立っても、そこに特別な感情を抱く人はいないかもしれない。
だが今日は違った。
部分的にだけ不自然に乾いた地面、そこには不釣り合いな白い花束が二つ、ポツンと置かれている。置いたのは……恐らく深路と良治さんだろう。
……良治さんは六年前の事件において参考人であった宗孝の取り調べを担当していたらしい。僕以外の人間とほとんど会話することのできなかった宗孝から辛うじて聞き取れた情報が、血で描かれたものが文字であるらしいということだけ。それ以上何かを聞く前に宗孝が死亡し、そのことをずっと覚えていた、と彼は語った。
僕はその場にかがみ込む。持ってきた菊を一本、それらの花の隣に置いて、目を閉じて手を合わせる。
……よし。
そう、一呼吸おいてから目を開けて立ち上がる。
静かに開いた両の掌では、汗の溜まる生命線が薄く煌めいている。思考を回すために顔へと近づけたその手を、僕は止めた。
両手を少しだけ上に。前髪を抑えて、木々の隙間に天を仰ぐ。
名前の知らない鳥が、雲一つない空を横切った。
――――
――
連続殺人の犯人と、数少ない友達を止めたあの日から一週間。
芸術祭準備期間中で一部登校している奴がいることを除けば、未だ夏休み期間中である。して、僕のいつもの日常が戻ってくるのはもう少し先になりそうだった。
あそこで深路がどちらも選ばないことは何となくわかった。長い付き合いだ。強くて、厳しくて、優しくて、悪戯なアイツがすることだ。そりゃ分かるさ。
あれから大きく変わったことと言えば、住む場所がまた西白森の昔の家へと戻ったということだけだ。あの後、叔父は良治さんに連れられ、駆けつけたパトカーと共に連行されていった。
それ以降のことを詳しくは知らない。顛末について時間ができたら良治さんが伝えてくれると言っていたが、未だ連絡はない。忙しいのだろう。
しかし、だからと言って僕も叔父の家に住み続けるのは気持ち的にも厳しいものがあり、移ることにした。幸いのところ両親の遺産とそのままになっている家財道具のおかげで住環境には困っていない。今までより少し学校は遠くなるが、甘んじて許容しよう。
――そして。
冬であればすでに日は沈んでいる時間に、僕はその学校に来ていた。
先に述べた通り、勿論夏休み真っただ中。もう少し早い時間であれば準備の生徒もいただろうが、とっくに帰っている。
いつだって空いている正門横の小さい扉を抜け、小さなビオトープを抜け、下駄箱から見える位置にある池へと歩を進めた。
あの日のことを思い出して、どうにも顔を覆いたくなる。
人はそんなに劇的には変われない。
だが自分で決めた。
決着をつけると。
まだ終わっていない。
まだ筆を置くことはできない。
まだ一つ、やらなきゃいけないことがある。
キャンバスに描きたいものは全て描き終えた。
パズルの隙間だって埋め尽くした。
もう九割方は完成している。
ただあと一つだけ。
まさにそう、作品に自分のサインを書き加えるような、そんな些末な行為だ。
あの時、僕らが寄り集まっていたのは偶然なんかじゃなかった。
僕らはお互いに、知らず知らずのうちに感じ取っていたのだ。自分たちがどこか足りない人間だということに。だからこそ、お互いに上手くやれたんだ。何も言わなくても安心できたから。
姉を失った深路はあの日から決定的に変質して、当たり前の感情を持った普通の人間になった。
記憶を失った僕は特別な世界からは追放され、それから人間の世界に混ぜられることになった。
否。あの日より前から、僕たちは段々と『普通』になっていたんだ。
じゃあ。
僕の後ろに立つこいつはそれをどう感じていたのだろう。
「なあ、石見」
「気づいていたのか、与一」
手入れされていないのか悪臭さえ微かに漂う池の前には、まばらに花が置かれている。物を持った両手を足へと添わせながら静かに腰を下ろす。そのまま供え物たちの中に努めて優しく菊の花を置いた。
動きのない背後の気配に向けて、独り言のように、独善的に言葉を紡ぐ。
「お前とは小学生の時以来、まともに話してこなかったからな。どんなことを経験して、考えているのか僕には分からない。だから勝手な妄想の類だと思って、聞き流してくれ」
「おーい、無視かよ」
「どうしても分からなかった。この“宗孝の”音楽プレイヤー、なんであんなところに入っていたんだろう、ってことが。僕が初めての練習死体を目撃したことは衝動的なものだって叔父さんは言っていた。――つまり叔父さん以外の誰かだ」
「いやいや、何の話なんだよ」
「選択肢は深路と石見の二つに一つ。でも深路はあり得ない。あいつが言ったのは『待てない』。あいつは僕のことをずっと待っているだけだった」
もう石見から言葉は返ってこない。
もとより反応なんて聞きたくもない。
「そこから疑念が生まれた。初めて宗孝の絵を見てから事件を起こすまでには長い間がある。六年の間が開いた今回の事件のきっかけは深路と会ったこと。イカれている人間に常識をトレースしても意味がないかもしれないけど、人間にはきっかけが必要なんだよ。絵の日付がきっかけというなら一年前との違いはなんだ? 強烈なきっかけ。そう、そういえば叔父さんは一言も殺したとは言わなかった。……殺したとは言わないよ。でもこう考えれば僕らの中にいるはずなんだ。きっかけを与えて、それを黙っている奴が」
息を吞むような音が聞こえる。
「それともう一つ、ずっとお前の視線も気になってた。僕の過去を知っていた叔父さんと深路、どちらとも少しだけ違って、一番気持ち悪くてしょうがなかった。お前は今ここにいる僕なんか見ちゃいなかったんだから」
明らかに張り詰めた空気を破壊するように、言葉を叩きつけ続ける。
「最初に言った通り、今のお前がどうかなんて知らない。だけどそのこと自体が僕の出せる答えでもある。――今の僕とお前は友達でも何でもない。二度と僕の前に顔を見せるな」
「……………………」
会話する気なんてなかった。最初に言った通り、これはただの独り言、妄言。
だからそれ以上、何も言わなかった。
深路を止めた責任だけを強く考えていた。
しばらくして、背後の気配が消える。
静かに僕も立ち上がる。手に持った音楽プレイヤーと繋がったイヤホンを耳に入れた。
――――
――
既に陽は落ちた。闇夜の中、目に見えぬ暑さが地上へと滞留する。
僕は手元に残った最後の花を持ってとある場所を訪れた。
煌々とした明かりと共に聳えるメビウス。その手前。馬鹿な後輩と通った見通しのいい、いつぞやの交差点。
ここが宗孝の事故現場だった。
……全く、どんな尾ひれが付けば魔の交差点になるというのか。
あれから深路とは話していない。
顔を合わせづらいのもあるのだが、なんというか、まあ、直接話す用事もない。携帯での連絡はあの日が緊急だっただけで、普段は全くしていないのだ。
それと。
偶然に手に入れた『普通』を放棄してしまった僕は、深路とはもう関わらないほうがいいのかもしれない、とも少し考えたりする。
定めた目標は変えていない。僕は深路に今のまま、『普通』のままでいてほしい。
……………………。
今日廻ったほかの場所と違い、明確に供える場所はない。
メビウスから出ていく人々、まばらよりは多い車の流れ、目の前の信号は青を灯す。
……ここでいい。
その場にかがみ込む。選んだのは歩道の端。宗孝だって別に目立ちたくないだろう。ひっそりと道の端に花を置き、そしてポーチから出した音楽プレイヤーを花の中に包んで、手を合わせる。
清算なんて言葉で表すことはできない。
けれど、今この瞬間に何かが終わった。
いやなものだ。
胸の中は綺麗になることなんてなく、いつもの欠落感は増すばかりなのだから。
腰を上げる。何処からか冷たい風が一筋だけ、顔の前を通り抜ける。
……そろそろ帰ろう。
やることがある。芸術祭用の描きかけの絵を、まだ家に残したままだ。時間を確保しないと、やはりどうにも進まない。
どうしても作品として『完成』させたい、初めてそんな気持ちになっている。
歩き出す直前に、不意に背後から気配を感じた。
どうも今日は人の気配に敏感/鈍感なのかもしれない。
些事の思考をしながら振り向く。
いつの間にか後ろには一人の少女が立っていた。
少女は純粋からは程遠い、悪戯心に満ちた笑みを浮かべている。
ああ。
なんてこった。
どうやら僕が大人になるには、まだまだほど遠いらしい。
鼻で笑って、その少女へ手を伸ばす。
指が、少女の頬に触れた。
(了)
ここまでお付き合いくださりありがとうございました。




