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17/18

17 感情

◇37




 転げ落ちるようにバスを降車して、その勢いのまま走りだす。

 朝日はすでに昇っており、放射冷却によって寒々しくなっているはずの地上に強烈な日差しが照り付ける。あの日と同じ、人が溶けそうなほどの炎天。


 何か確証があるわけじゃない。頭に描けた道筋も、本当に繋がっているのか分からないほどでたらめだ。

 息が上がる。苦しい。昨日から着替えていないシャツが背中に張り付く。

 それでも走る足と心臓は止められない。今止めてしまったら、何かが終わってしまう気がするから。

 右手はある人物へと電話をかけ続ける。あの家から数十回繰り返して一度だって繋がらない。焦りを募らせる『電波の届かない場所にいます』のアナウンス。


 二週間前。今とは違って三人で通った道。話す相手はもういない。

 営業していないのか、人気のない派手色に装飾された遊園地。入り口に並んでいたはずの人の列さえも影の形もない。

 日曜日の静けさに包まれた建物。

 それを妨げる蝉の声。

 懐かしさを漂わせる風景。


 ……。

 視線の先にあの黒い少女が見える。


 どこからともなく現れたその少女は僕と目が合っているのにもかかわらず、何も反応は起こさない。ただしこちらから視線を離すことはなく、僕のことをじっと見つめて観察しているようだった。過去、功罪、意思、全てを透過して心に突き刺さるような視線を向けた。


 僕は目の前の人物に対して、何か言葉を投げかけようとした。が、途中で止めた。

 その、顔。

 別れたはずの後輩の顔。

 そして今向かう先にいるだろう友達によく似た顔。


 ――今ならその顔が誰のものであったのか、直ぐに分かる。


 その少女を見たことで思い出される今日の出来事。それは逆に僕に自分の目的を冷たく突きつけさせてくれていた。


 辛い、とても辛い坂道を、少女を置き去りに走り抜ける。通り過ぎる。ずっと頭を回しているせいで、昨夜のように無我夢中になることも出来ない。雑念が入るのを自分で止められない。

 それでも目を開けたまま。その奥の裏山へ。

 囲うフェンスを乗り越え、その先へ。


 道は草木と土によって埋もれ、辛うじて形を成しているだけの道を、奥に向かって走り続ける。

 もう日が出ているのに、うっそうと茂った山の中は殆どが木の陰になっていて、隙間から入り込む強烈な日差しがモノクロの縞を作る。じめじめとした土の匂いを感じ、靴の裏から伝わる感触は地面の上を走っているとは思えないほど柔らかいものだ。

 蝉の声は密に生えた木々たちの中で逃げ場に困ったように反射し、まるで人を狂わせる亡霊の声のようにいたるところで響き渡る。

 風が吹いていかないからか熱のこもりきった室内のような暑さだった。足を踏み出す度に顔から噴き出す汗が、顎の先から流れ落ちてズボンの膝を濡らす。


 そうだ。


 あの日も。

 あの日もこんな風にこの道を通った。


 ……ああ。


 やっぱりいるのか。

 ここにいることが、僕の想像を確かだと証明してしまう人物。


 足を止める。感傷には浸らない。

 今日で終わりにするから。


「おはよう」




◇38




「はあっ、はぁ、ふっ…………ん……なんか、久しぶりに、会った気がするよ。……最近ほとんど部屋から出ていなかったから」

「……」

「……あそこにいるの、深路か。全く二人してこんなクソ早い時間からご苦労なことで」

「……」

「そんなに驚かなくてもいいだろう? そっちからしたらむしろ好都合なことなんじゃないのか?」


 吸って、吐く。その繰り返し。ぐちゃぐちゃに乱れた息を整えてから、口火を切る。声に安堵の色が残らないように。


 目の前の人物は動かない。いつもより角度の付いた笑顔を顔に張り付けながらこちらを見ている。僕を映しているその瞳に浮かんでいるのは驚きか、喜びか。

 気持ちが顔に出やすいタイプ、という言葉が初めて腑に落ちた気がした。


「どうして僕がここにいると思う? ――叔父さん」

「さあ? どうしてこんなところにいるんだい? 昨日も返ってこなかったし」


 正面。二メートル先。手袋をはめ、ジャージを着て全身黒づくめであっても見慣れたはずの顔。夏場の超炎天下において、全く適していないような服装。見たことのない別人のように感じるのは、きっと僕のせいだ。

 驚きがないと言ったら噓になる。それでも、僕が頭の中で思い描いた人物だった。


「……っ」


 逡巡。

 決して自分が今から話すことにではない。

 こちらに気づかず、奥にいる深路。彼女にも見届けてもらうべきなのではないか。そんな思考がよぎった。


 自分自身に腹が立つ。

 拳は握りこんだまま、はっ、ともう一度だけ強く息を吐いた。


「……叔父さんに話したいことがあるんだ。少しだけ長くなるかもしれないけど、聞いてもらってもいいかな?」

「急いでいる……んだけど、何やら大事なことのようだし、構わないよ」

「ありがとう」


 あくまでもいつも通り。いつもの会話と何も変わらない。

 気を抜けば、目の前の人物の恰好が明らかに不審なもので、異様な雰囲気を身にまとっていることを忘れてしまいそうになるぐらいに。


「まず最初にね、お礼がいいたいんだ」

「お礼?」

「そう。僕ってさ、今まで自分の置かれている立場とか。そういうこと考えたことなかったんだ。目が覚めたら病院の天井で、自分の体に繋がれているはずの点滴とか見ても妙に現実感がなくてさ。もしかしたら夢の中にいるんじゃないか、って思ってたんだ。それでいて過去のこともよく思い出せなくてさ。ふわふわした状態のまま今日まで生きてきたんだ」

「なんだか危なっかしい子だね」

「自分でもそう思うよ。今になるまで自分がどうしなきゃいけない、とか考えもしなかったんだ。ただ何となく生きて、何となく死ぬ。それでいいと思ってた。そんな僕が今日まで生きてこれたのは間違いなく叔父さんのおかげだ。家族の一人もいなくなった僕を家においてくれて、同じように接してくれたことに、どんな作意があったとしても、最初に感謝を僕は伝えたいんだ」

「……受け取っておくよ。それで? 本題はなんだい?」


 冷静に。


「叔父さん、六年前の事件って覚えてる?」

「ああ、この山で与一の友達の女の子が亡くなった事件のことでしょ? 勿論覚えているよ」

「じゃあ、最近起きている連続猟奇死体は?」

「……あー、ニュースでよくやってる奴ね。怖い事件だよね」


 ただ自分の感情のまま。


「犯人なんだろ、叔父さん」


 言葉を紡いだ。


「僕、思い出したんだ。過去のこと、自分のこと、宗孝のこと。死体の構図が何を意味しているのか。――あれは宗孝が僕に見せてくれた初めての絵なんだ。死体のそばに書かれている暗号文字までそっくりそのままね。今じゃ忘れていたのが信じられないぐらい鮮明に思い出せるよ。あの絵は僕にとっての宝物だったから」


「事件の犯人はあの絵を見たことがあるのは間違いない。でも、一度家の中で失くしたとき以外は宗孝の部屋から動かしてない絵を見ることは普通ありえないんだ。だからその時点で犯人候補は両親か宗孝、家に偶に出入りしていた叔父さんの三人しかいない」


「六年前の事件の時点で既にもう死んでいるから、両親はあり得ない。そして宗孝はね、これは僕にしかわからないんだけど、犯人じゃない理由があるんだ。宗孝は傍のあの文字を絶対に『血』では書かない。あの文字を書く材料は僕と宗孝の間では、一つだけと決まっているから」


「西白森の家にも行ったよ。ほとんどが僕の記憶のままになっていた中で、唯一変わっていた場所が宗孝の部屋だった。……もぬけの殻だったよ。整頓されて少ない家財道具から飾ってあった絵まで何にもなくなってた。それができる人も、一人だけしかいない」


 叔父さんは何も言わない。

 僕の知っている叔父さんだったら「怖いなあ、探偵ごっこかい?」なんておどけるはず。そのぐらい荒唐無稽なことを話しているはずだ。

 でも、何も言わない。

 汗一つかかずに、ただ先ほどよりも角度の付いた笑みを浮かべながら、こちらを見つめている。


 口をついて出たのはここでも心の弱さだった。あれだけうるさく猛っていた自分の中の感情も、直接向き合ってしまえば萎えてしまっていた。


「決定的な証拠とかは……ホント何もない。否定するのであれば、否定してほし「そうかあ! そっかそっか! 血じゃないんだね。そういうの分かっちゃうんだもんね。……羨ましいなあ!」


 不釣り合いに声が響く。


「否定することなんて、全くないよ。君の考えている通りだ。若い感性、いや、それが君たちのもつ超感覚ってやつなのかな? 全く恐ろしいねえ」


 目の前の男は薄ら笑いを浮かべて。本当に羨ましそうな顔をしていた。


 自信がなかったわけじゃなかった。むしろ確信があった。これしかないと思っていた。

 それでも、心のどこかでキッパリ否定してほしかったのだと。そう思う自分はどうしてもいた。


 ……ああ、クソ! 僕の目的を思い出せ!

 目的は深路を止めること、犯人を明らかにすること。

 だから後は警察を呼べば終わりだ。それ以上何か望みはない。


 だからお終いだ。もうこれで終わりなんだ。


 携帯をポケットから取り出す。汗で蒸れて画面に付いた蒸気を指で拭く。

 1、1、0。画面を指で叩く。顔を上げて今一度叔父さんを正面から見――っ!?


 急速に汗が引く。背筋が凍り付く。


「ま、ここにいる時点で答え合わせは済んでいるようなものだからね。今更何か言う必要もないでしょ」


 歪悪に笑う眼窩の奥底に見えたのは、正真正銘の闇だった。


「理由、聞きたいかい? 聞きたいよねえ? もちろん知りたくて仕方がないよねえ? ――いいや、どっちだって良いんだ! 話させてくれよ! いいだろう? きっと分かってくれるさ! なんてったって君は彼の弟だ! 分からないはずがない! そんなことはありえない! 六年も待たせられてこっちは色々溜まっているんだ! さあ彼の作品のすばらしさについて語り合おうじゃないか!」


 それは呪詛というにはあまりに興奮がのっていて、人に伝える言葉にしてはあまりに醜悪だった。


「初めて見てから彼の作品をずっと見ているが、あの凄さを上手く表現できる言葉が全く見つからない! 自分の中から溢れてくるパトス、外の世界から得られるインスピレーション、それらを全て使い尽くすより、彼の芸術を真似ることが最善の道だとすぐに分かった! それまで培ってきたプライドなんて一瞬で崩れ落ちるほどなんだ!」


――聞きたくもない。


「そんなんだったから模写だけでは満足できなくなっちゃってね。我慢できなくなったんだよ、六年前の今日に。これでも表現者の端くれだったからね、どうしても自分で作り上げたものを彼に評価してほしかった。……今となればわかる。あれは完全な早とちりだった。あの時の自分には彼の作品への研究が全く足りていなかったんだ。失敗の代償は大きかったよ。まさか彼が死んでしまうなんて。続けざまに与一まで大怪我を追って記憶と、彼と共有していた超感覚を失っている様子だったから……あのときは本当に心配したよ。目標を見失った気分だった。また自分から台無しにするわけにはいかない。だから待ち続けた。ひたすら研究して、分析して、待ち続けた」


 ――付き合う必要もない。


「春に君が彼女を僕の家に招いた時だ。遂にそこで何かが切れてしまった。だってしょうがないじゃないか。あんな姿を見せられたら運命を感じたって。『やってしまった』現場を偶然君に見られた後に後悔したよ。ああ、これでこの六年は無駄になってしまうかもしれない、ってね。だが殊の外物事は僕の思い通りに進んだ! 与一、君の超感覚が戻り始めたんだ。そこからは想像の通り、今日の作品のために練習を重ねていたってわけさ」


 ――目的はなんだ?


「それで、だ。君の記憶を試させてほしいんだ。今の君が鑑賞者にふさわしいのかどうか、ってことをね。君がしっかりと元の状態に戻るまで、六年間も待ったんだ。その仕上がりを試すぐらいの権利は、こちらにもあるはずだよね?」


 ――犯人は見つけた。もう目の前にいる。


「七月二十六日、何でこの日なのかわかるかい? ………………はい、おそい。こんなことも分からないようじゃあ心配だよ。君が持っている超感覚を疑ったことはないけど、これはその以前の問題だしなあ。今日という日に「書かれた日付だよ」……ん?」



 もう一つやることがあるだろう?



「宗孝は描いた絵にタイトルを付けない。その代わり、絵を描いた紙の裏側に描き終わった日付を書くんだ。……僕が宗孝に貰った最初の絵。叔父さんが執心しているあの絵が描かれたのが、七月二十六日だ」

「そっか、よかった。流石に君が戻ってくれていないと今までの作品の人たちも浮かばれなくなっちゃうから」


 視界がくらくらする。どんな顔をしていればいいのか分からない。

 本気で言っているんだろう。

 反吐が出る。


 手に持ったままになっていた携帯をもう一度ポケットへ突っ込む。

 子供じみた厭悪はすぐそばで鎌首をもたげている。

 そこには何も残っていない黒々とした濁流だけがあるのみで。こんなところに身を委ねたって何の利益もない。


 そんなことは関係ない。


 三谷を殺したこいつが、笑っていていい道理がどこにある?


「あんた、傍に書いてある文字がどんな意味なのか、知ってるか?」

「……いや、「どうせ知らないんだろ?」


 聞かなくても分かる。


「ご丁寧に要らない点まで付け足しやがって。何も分からないで表面をなぞってるだけの奴には分からないんだろ」


 出来るだけの嘲笑と侮蔑を込めて嘯く。

 人のことを言えるような人間じゃないのは分かってる。


「昔、僕が宗孝に作らせたこのアカウント。今はあんたが持ってるんだろう?」


 携帯を再び取り出して、画面を見せつける。開いていたのは、いつかの日に深路に見せられた絵描きのアカウント。

 この場所に来るまでの間に気づいたことだった。


「六年前に宗孝が描いた作品、しばらく間をおいて更新され始めた、多分、あんたの作品。最初から最後まで全部見たよ」


 最初はそこに乗せられている絵を見ても全く気付かなかった。だけど、その理由は日記に書かれていた小さな子供の絵に感じた欠落と同じことだった。


「正直に言うよ、深路が微妙な差異と言っていたもの――僕には少しも違いなんて分からなかった。芸術性なんてもの、てんで理解できないんだよ。……才能ないからね」


 目の前の顔に、喜びと悲しみが浮かぶ。


「だけど、『これ』をみたとき、分かったんだ」


 西白森の家からこの場所まで、肩掛けにして持っていた、小学生が使うような小さなバッグを足元に降ろす。筒状の『それ』は中には収まりきらず、ファスナーの金具に両側から挟まれていた。


「……何を言っているんだい?」


 隠し収納に入っていたもの。

 それは。


「見たことないわけないよな、これ」

「……そんな、どうして」


 僕が広げた『それ』を見た瞬間に、初めて叔父の顔から喜びの感情が消える。

 血の気が引き、手は打ち震え、唇は色味を失くす。僕の存在など忘れたかのように――自らの背負っていたリュックサックを開き、中身を辺りへと投げ捨て始めた。


 程なく、その手は止まる。


「……どうして?」


 同じ言葉をもう一度呟く。先ほどとは違う、驚きと混乱。


「やっぱり、それもあんたが持ってたんだね」


 叔父はリュックの中から取り出した、一枚の紙を手に持っていた。

 そこに描かれているものは。


 僕が広げているものとまったく同じ、散らばった四肢と、右腕と頭だけが残る体と、傍らの血文字――事件の『構図』そのものであり、津島宗孝の初めての作品であった。


 そして、初めての物的な証明でもある。


「……どうして、もう一枚あるんだ?」


 そりゃ驚くだろう。宗孝の部屋を、そこに飾られている全ての絵をさらって、研究したと言っているのだから。自分の手元にない絵など存在しないと思い、その中でも一番執着の強いであろう絵が、自分の知らない絵が、そこにあるのだから。


 裏に書かれた日付は『八月一日』。

 理由なんて簡単なこと。

 だが教えてやる必要は一ミリだってない。


「こんな僕に、僕にでも分かる、あんたと宗孝の作品の違い。それはまさしくナニカによるものだ。画面越しで見たって分からないんだよ。絵自体の優劣なんて、僕には分からないんだから。この絵、そしてあんたの持っているその絵もそう。宗孝はね、絵の上にナニカを重ねて描くんだ。だから僕にとってそれは、あまりにリアルで、あまりに現実感がない唯一無二のものだった」


 頭には宗孝の顔が浮かぶ。あの目を細めた特徴的な笑顔が僕を見ている。


「超感覚、か。そんな大それた名前を付けるほど、良いものじゃあないんだけどね。ただの『世界』さ。昔のことは知らないけど、少なくとも今の僕にとって、こんなものは」


 見渡した景色の中に、当たり前のようにナニカは蠢いている。もはやそれらを気に留めることは、無い。

 こんな酷い有様が、もとより僕の住む世界なのだから。それを受け入れて、ここに立っているのだから。


「おい! 聞こえているなら答えろ! どうしてお前がそんなものを持ってるんだ!」

「お望みの通り、こっちは批評してやっているってのに。――いいか、よく聞けよ? お前の作品なんてのは、僕にとって宗孝の作品に及ぶべくもない、猿真似の凡作だって言ってやってんだよ!」


 言い切った途端に、辺りの空気が変わる。いつの間にか太陽は雲に隠れ、影が辺りを包み込んでいた。

 肌で伝わる憤怒の香り。相対した顔は見たことがないほど紅潮し、握られた拳は痛いほどに強く、そして戦慄く。


 明らかに危険な状態だった。


「言わせておけばいい気になりやがってこの糞餓鬼が。誰がここまでテメエの面倒を見てきたと思ってるんだ。ああ、いいぜ。やはりテメエじゃ観賞役は務まらねえ、ってこった。もうお前に価値なんざねえんだ。お望み通りぶっ殺してやるよ!」


 絵を再びしまい込んで、先ほど足元に放り捨てたナイフを拾い上げる。

 血走ってぎょろついた視線が真っ直ぐこちらを捉えた。


 刹那。獲物を携えた相手は駆け出すように前へ、後ずさった僕は後ろへ。踏み出しそうな足をぐっと押しとどめる。


 殺人鬼との距離はもう三足分。

 蝉の声と共に木々の間で反射しているのか、足音がやけに無数に大きく聞こえる。


 何をしようと結末はもう変わらない。なら僕のすることはもう、ない。


 二歩。

 一歩。


「良治さん。遅いよ」


――叔父の体は唐突に横向きに弾き飛ばされた。


「刺されるつもりか?」

「……いいや。足音で来てたのは分かってたよ。ありがとう、こんなところまで来てくれて」


 僕だって馬鹿ではない。ここに来る前にせめて、と知り合いの警察関係者である良治さんに連絡していた。


『……前の遊園地のアレと何から何まで一緒だった……左手で書いてある文字も……』


 何かを知っているのだろう、とは考えていた。真意を問いただしたい気持ちもあった。だがそれには時間が足りなかった。だから場所と用件だけを一方的に話した。自分の中の仮説と、僕よりよっぽど人を見る目のある三谷を信じて。

 今まで少ししか話したことはなかったが、それでも来てくれると思っていた。


 目前まで迫っていた殺人鬼は、良治さんに横から腰に組み付かれて地面に倒れ伏している。良治さんは手慣れた動きで馬乗りの体勢へと移行し、凶器を持つ右腕を捻り上げる。


「っっぐぐうううっっ!!」


 呻き声を上げながら何とか抜け出そうともがくが叶わない。身長差はないものの、体格差は圧倒的だ。

 地に爪を突き立て、足で空を漕いで、暴れる。それでも状況は動かない。やがて捻り上げられた先の右手は握力を失っていく。手のひらから滑り落ちたナイフを、良治さんが足で弾いた。


 弾かれたナイフは滑り、回転し、やがて何かにぶつかって止まる。


「「「!?」」」


 足に当たったそのナイフを拾い上げたのは、白くすらりとした指。

 叔父のものでも、ましてや自分の指でもない。


「話、聞いていたぞ」

「……っ」


 いつからそこにいたのだろう、深路は。

 声音も、表情も、いつもと変わらない。


 それでも身にまとう雰囲気だけはかけ離れている。


 分かっている。昔も今もこういう奴だ。

 久しぶりな気がする、今までごめん、良いタイミングだ、言いたいことが無数にある。


「やめろよ、深路」


 それでも一目見て口をついて出たのは焦りだった。


「どこまで聞いていたのかは知らない。後で全部話す。だから」


 目の前の深路の体が、真下に落ちる。踏み出した一歩は真っ直ぐ叔父さんの方へ。声なんて全く届いていない。殺意をその手に握りしめて。

 僕がそれより一瞬早く動けたのは心構えのおかげだった。


「どうして止める?」


 うつ伏せの叔父を押さえつける良治さんの前に手を広げて立ちふさがった僕に、深路は足を止める。その目に、体に、持ったナイフに滾る殺意は炎のようにこちらの体を焦がす。

 それに充てられたのか、後ろにいる叔父はまだ固まっている。


「お前には殺してほしくない」

「こいつが由香を殺した。三谷も殺した。宗孝さんもこいつが殺したようなものだ」

「だとしてもだ!」

「過去を思い出したのなら分かっているだろう? 以前私を止めたのはお前だぞ、与一。それが何を招いたか、よく考えてみろ」


 深路は止めたゆっくりと足を進める。


――『殺すのだけはダメだ。そんなこと誰も望んじゃいない』


「……ああ、止めたのは僕だ。こんなことが起きたのも僕がいたからだ。でもこいつはもう終わりだ! 今更殺したって何にもならないのは深路だって分かるだろう!?」


 僕も、足を進める。

 自分の吐く言葉に意味なんてなかった。深路の言っていることは全て事実で、僕自身が今でも嘆いているのだから。


「深路、友達の定義の話してたよな? 何をその定義の中に入れたいかどうか、って。僕の定義は……まだ上手く言えないけど……せめて、幸せでいて欲しいんだ。深路のためじゃなくて、僕のために。だから、妥協できない」


 反省していない。全く愚かな生き方だ。人間的じゃない。

 それでも、僕がしたいのは賢い生き方じゃなくて、後悔のしない生き方だ。


 そうして僕らはお互いに手の届く距離で正対する。互いの意見は平行線のまま。

 絶えず言葉を紡ごうとする僕に対して深路は手で静止をかける。そして無言のままこちらに二つ折りの紙を差し出す。


 いつもとは違う。これは深路の優しさだ。


 ぐっ、と生唾を飲み込む。だからこそ外せない。だけどこれは運でしかない。頭の中はずっとぐちゃぐちゃだ。

 以前と同じ選択を採ることに、後悔はなかった。


「3」


 差し出されたその紙を受け取らずにはっきりと数字を述べる。

 声が届いた直後の深路の顔を見て、僕は自分の選択の可否を悟った。



 ――サイレンの音が蝉に交じってまばらに聞こえる。

 再び照りだした灼熱の太陽は、まだ長く続く夏を思い出させた。





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