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16 兄弟

◇35




『九月二日 絵ではなく何か文章を書き残すということは初めてだけど、自分を落ち着かせるためにこれを書きたいと思う。与一は僕と同じものが見えている。どうすればよいのか、自分でも分からない。』


『九月六日 今日与一の頭を撫でたときに、初めて人肌の温もりという奴を感じた。あんまりびっくりしたからか、久しぶりに人前で声が出せた。与一に僕のようにはなって欲しくない。どんなことでもしてあげたいと思う』


『十一月十三日 やはり与一も友達と呼べるような人はいないようだ。悔しいけど、僕にはどうすることもできない。ごめん。与一には嫌がられているけれど、僕が話しかけて、つい頭を撫でてしまうことはどうか許してほしい。僕が話していられるのは与一だけなんだ。』


『五月十八日 最近与一が僕に話しかけてくれるようになった。……与一と話すのは楽しい。自分自身が救われている気がする。与一も同じ気持ちだといいのだけれど。』


『六月七日 与一と一緒に秘密の文字を作った。ナニカを使って伝える僕らだけの特別なものだ。どこで使うんだろう、なんてことには目を瞑るとして、本当に楽しかった。与一の発想には何度も驚かされたし、僕自身夢中になった。後ろに書き写しておこう。』


『七月二十八日 初めて与一に僕の絵を見せた。それまでは描くといっても落書き程度で、作品として真面目に描くことはなかったんだけど……ふとした思い付きで、与一に見てもらおうと思ったのだ。最初から与一に見せよう、と思って描き始めたから、いつもより神経を尖らせた。我ながらいい出来だと思う。人に自分の絵を見せることだって初めてだったけれど、すごく興味を持ってくれたみたいで嬉しかった。サプライズで入れたちょっとした仕掛けにも目を輝かせていたし。与一は昨日からずっと自分のノートに絵を描いている。もっといいものを見せられるように僕も頑張らなくちゃ。』


『八月一日 初めて見せたあの絵。与一にあげてしばらくしてから失くしてしまったらしく、それから与一はずっと不機嫌だったのだけれど、今日になって見つかったらしい。無くさないようにというのはいいんだけれど、僕の部屋に他の絵と一緒に飾りだしたのはなぜなんだろう……?』


『八月三十日 あれからずっと与一は僕に絵を求めてくる。どうも褒められすぎて参るなあ。つい天狗になってしまう。自分で言うのもなんだけれど、僕の絵はあまり気持ちのいいものじゃないと思うけど……いや、自分的にはとても嬉しいんだ。けれど、言われるがままよく分からないアプリのアカウントまで作らされてしまった。絵を公開するなんて恥ずかしいからいいのに。』


『十月一日 最近与一には友達ができたらしい。しかも二人も。これは喜ばしいことだ。話を聞いてみると二人とも少し変わっている子のようだ。与一はすごい。自慢の弟だ。』



 日記は非常にシンプルなもので、その日程も不規則だ。おおよその理由は分かる。宗孝は長い文章を書くことが好きではなかったのだろう。

 ほとんどの文章の下には落書きのように絵が付け加えられている。……端書でさえ僕となんて比べるまでもないほど凄まじいものだ。

 あまりにリアルで、あまりに現実感がない。

 宗孝が描いた絵が僕の憧れだった。


 だけど、なんだろう――何かが欠けている気がする

 記憶の中で感じていたはずの、僕を引き付ける魔力のような何かがそこにはない。

 下書きだからなのだろうか。


 ……これ、僕か。

 笑っている子供の絵を親指で撫でる。そこにはもう何も残っていないはずなのに、驚くほど温かい。


 日記につづられた日付のほとんどに僕の名前が出てくる。

 そのほとんどが、あまりに優しい。


 だからこそ、苦しい。


 どうしてこの日記がここにあるのか。

 どうしてこの日記を読まなければいけなかったのか。


 本当に今更だけどさ。

 ごめん、宗孝。


「……」


 気が付くと、知らない天井が見える。

 椅子に座っていたはずの僕は、いつのまにか横にあるベッドに上半身を仰向けの状態で寝転がっていた。

 静かに上半身だけを起こす。

 ずいぶんと時間が経っている気がした。


 日記を傍らに置く。開いているページは六年前の七月二十六日のページだ。

 そして日記はそのページから先は空白のページが続いているだけ。ここで終わり。


 ――それはこのノートを僕が盗んだからだ。


 六年前のあの事件の前日、僕が初めて宗孝の部屋に入ったあの日。いつもにこにこしている宗孝へのちょっとした悪戯心だった。

 部屋に侵入した僕は、机の上に置かれていたこのノートにはすぐに気が付いた。この部屋をこっそり覗くたびに、宗孝がこのノートに何かを書いていたのを知っていたからだ。


 本当に軽い気持ちだった。

 宗孝が怒ったところなんてそれまで一度も見たことがなかったから。

 ノートの存在は自分の机の引き出しに入れた一時間後にはすっかり忘れていた。


 事件の日、家を出る準備の時にその存在に気が付いた。その時にはノートを取ったときに持っていた悪戯心や背徳感は少しもなくて、後で謝って返そう、なんて気楽に考えていた。


 ……でもそれはできなかった。あの日の後、僕はどうしても宗孝と話すことができなかった。あんなに一緒だった宗孝と目を見て正面から向き合うことが、どうしてもできなかった。自分がしたことへの後ろめたさよりも、もっと複雑で得体のしれない恐ろしさに向き合うことができなかった。

 疑ってしまったのだ。

 傍に綴られた血文字は僕と宗孝しか知っているはずがなくて。

 事件の犯人が宗孝なんじゃないかって。

 沈痛な表情をしていた宗孝を強く拒絶した。してしまえた。


 そして、宗孝は死んだ。

 なんでもない路上で車に轢かれて。

 後で運転手が飲酒していたことが分かったが、直前の様子を考えれば、それが自殺だったのか事故だったのかは分からなかった。


 僕の手元にはそのノートが残った。

 一度は、その中を見ようと思ったこともあった。

 どんなに宗孝の死が現実感のない、受け入れられないものであったとしても、そこにはただ宗孝がいない「現実」だけが続いた。ゆっくり、ゆっくりと宗孝がいない日常に自分が適応していくのが恐ろしかった。唐突に欠けた宗孝を埋めるために、傲慢にも盗んだもので埋めようとしたのだ。


 ただそれはできなかった。

 ノートを開こうとしたときに、誰かの視線を感じてしまったから。

 もしも僕の知らない、得体の知れない宗孝の本性がそこにあったとしたら。僕のすべてであったものが壊れてしまったら。僕はどうやって生きていけばいいのだろう。

 そんな思考に取りつかれた。


 それでも、そのまま日々を過ごしていくことなんて出来なくて。


 ――だから、歩道橋から足を踏み外した時には救いを感じてしまった。


 それから頭を強く打った僕は病院に運ばれ、目を覚ました頃には小学校生活と同時に記憶の方も都合よく吹き飛んでいた。

 よくもまあ、それからのうのうと過ごしていけたものだ。天笠は仕方ない、なんて言っていたがとんでもない。僕は忘れちゃいけない、自分の責任を放り出したのだ。


 やっぱり間違っていた。

 宗孝があんなことをするわけがなかったんだ。


 僕はこのノートとすぐに向き合って、宗孝に返すべきだった。

 「ごめん」って。

 「どうしたの?」って聞くべきだったのに。


 そして今、ノートを持って座っているこの今でも、どこかから視線を感じる。

 ……いや、今というのは嘘だ。本当はずっと、ずっとこの視線に気が付いていた。自分自身を糾弾するこの視線に。

 あらゆる人の視線がこの視線に感じて、気になっていた。怯えていた。その原因と向き合わなきゃいけないと思った心を後回しにしてきた。


 もう、終わりにしなきゃだめだ。


 ……最後のページには、僕と一緒に作った暗号文字の解読表が乗っていた。

 あ、から、ん、まで占めて五十音。どの文字も初めて見るように懐かしい。僕と宗孝で一緒に考えた、昔の大切な思い出の一部だ。

 解読表のオリジナルは一緒に書き込んだものであるから、これは恐らく宗孝が自分で書き写したものだろう。

 丁寧に、丁寧に写されていた。僕が間違えてオリジナルの用紙に書き込んでしまった「ん」に対応する文字の余計な横棒さえ、そこにはあった。当時の完成に対しての僕の興奮がこの表を通してでも伝わってくる。


 そして、この僕と宗孝以外にはとうてい読めないだろう文字を、僕はつい最近見たばかりであった。

 ――それは遊園地の死体と、三谷の死体。

 六年前の死体から続く、あの『構図』の血文字。


 それを知っているということは、今回の事件の犯人も絞られる。


 ノートを閉じる。

 これは元の場所に戻さなくちゃ。


 立ち上がって、持ったまま部屋を出る。


 部屋を出て、左の側の部屋。

 先ほど入らなかった宗孝の部屋。

 そのドアを開ける。


 手に持ったライトで部屋の中を照らす。

 白い光が舞い上がった埃を照らした。

 中は唯一の窓に白いカーテンが閉まっており、最初から弱々しい外の光を遮る。カーテンを開けたところで闇に自分の顔が映るばかりだろう。

 中へと一歩足を踏み入れる。四方を光にかざし、そして気づく。


 空っぽ、だった。


 机とベッド、本棚が置かれ、壁一面に額縁のかかった、白い壁紙のごく普通の一室。それが僕の記憶の中に残るこの部屋のあるべき姿。そう扉の前で予期していた。

 一部においてそれは正しい。確かに机とベッド、本棚と額縁は部屋の中にそのまま置かれている。


 だが――その全てに何も入っていない。ただそこにあるだけの、空。


 順調に穴埋めを続けていた頭が初めてそこで止まる。

 おかしい。

 間違いない。

 誰かがこの場所に手を加えている。


 宗孝が死んだ後、僕が何人たりともこの部屋に入れさせなかった。不審死の捜査に来た警察を部屋から叩き出し、叔父さんを——傲慢にも——跳ね除けた。

 両親の死なんかよりよっぽど受け入れられないものだった。宗孝はいつかふらっと何ともなしに帰ってくると本気で信じていた。あの目を細めた特徴的な笑みを浮かべた宗孝がいつでも僕を見ていて、いつか僕に声を掛けてくれるのだと。


 だがもはや、痕跡や温もり、どちらもここにはないと直感する。

 この場所だけはもう、時間が進んでしまっている。


 どくん。

 心臓の鼓動がまるでカウントダウンを打つように感じた。


 嫌な胸騒ぎが止まない。ライターを近づけてじりじりと焦がすように、ゆっくりと何かに焦らされている。自分の内側だけがやけに熱を帯びていた。


 あと少し、もう少しの時間があれば何も問題はない。今はまだ曖昧なところがあるが、じきに思い出す。定着する。そして『僕』が完成する。すぐに分からないものも分かるだろう。待っていればいい。ただひっそりと、静かに。


 違う。


 分からない、なんてことはない。今となっては何の役にも立たない言葉でしかない。

 焦らせているのは何者でもない自分。であれば、僕はもう『分かっている』はずなんだ。

 僕にはもう時間が残されていない、ということが。


 待て。とどのつまりは——『事件』が今どこかで進んでいる?


 ……思い出せ。思い出せ。

 今までの生活の中でどこかにあったはずだ。落ちていたはずだ。見落とされていたはずだ。犯人につながる違和感が。

 そのために一度自分の思考をまっさらにして考える。基本的なことから合理的に考えなくてはいけない。

 バッ、と両手で顔を叩く。


「よし」


 目的を明確化する。しなくちゃいけない。

 自分の責任、これまでの反省。考え出したらきりがないことだらけだ。不純物を抱えたままなら、心も体も重いままだ。結果は全く違うものへと引き寄せられてしまう。


 僕の望む結果が何か。それを一から再構成する。

 こんな頭を使う作業なんて得意ではないし、むしろ一番苦手、『メンドウ』なことだ。それでもやってやるしかない。


 大きく分けて明確化する。目的は二つだ。

 一つは事件の犯人を見つけること。あの日以来変死体は見つかっていないが、三谷が殺された以上、いつ僕やその周りの人間が殺されるかは分からないのだ。あんな思いはもう二度としたくない。

 もう一つは深路を殺人犯にしないこと。自分でも信じられないがまだ昨日のこと——いや日付は回っているからもう一昨日なのか——ともかく最後に会った夜、深路は明確に「殺す」と言っていた。あいつは本当にやるだろう。今までの付き合いだけじゃない。過去の記憶をさらっても同じ結論が出る。それをやってしまえば二度と『普通』の人生には戻れなくなる。一度説得し、そしてこの現状を招いた僕に、深路を説得する権利なんてないのかもしれない。完全なる僕のエゴ。その押し付け。それでも嫌だ。


 この二つの目的を達成するのはマストだ。そしてその上で、僕はこの事件の真相を明らかにし、自分の中で決着を付けなくてはいけない。それは他の誰でもない自分自身——いや、後輩との約束だから。


 これらについて重要な点は、

 ①六年前の事件と今回の事件に繋がりはあるのか。

 ②二つの事件の犯人は誰か。

 ③犯人の目的は何か。

 の三つである。


 ①に関してはもうほとんど言い切ってしまえるだろう。六年前の死体とほとんど同じ方法で死体を整える偶然などあるはずがない。白森という場所、死体の横に書かれた創作文字まで一致していることを考えればそこには何かしらの作意があるはずだ。

 ②が分かっていたら苦労していない。そもそも関連があることは断言できても、二つの事件の犯人が同一人物だとは言い切れない。過去に僕が宗孝を犯人だと考えた原因は血文字だ。だが宗孝はもういない。それを僕と宗孝以外に知っていた人がいる? そんなわけがない。……何かが引っかかる。本当に血文字だけで僕は犯人が宗孝だと確信したのだろうか。

 ③なんてそれ以上に分かるはずがない。どうしてこの事件は六年もの間が空いたのだろうか。サイコパスの通り魔的な犯行であるならば、こんな間は不要であるはずだ。ならば右手を残して四肢を切断するあの死体に、傍の血文字にどんな意味があるというのか。


 そうだ、分かるはずがない。

 自殺なんてことはありえない死体がいくつも出ているのに、一向に犯人についての情報は報道されない。被害者の共通点もだ。新たな情報が何も見つからないのだろう。被害者の共通点も普通に考えたらまず分からない。

 普通ではないこと。普通ではない視点。

 当事者としての視点、僕だけの視点。



「あ」


 思い出す。

 今の僕の部屋に残っていた昔の僕の落書き。あの死体の構図。冷静に考えれば、奇妙だ。

 由香さんの死体が目に焼きついて必死に描いた、とするならば一応の筋が通っているように見えた。

 だがそれはおかしい。あの絵は落書き帳の中で比較しても細部にまで書き込まれていた。びっしりと。ある種の執念を感じるほどに。


 事件から一週間が立たないうちに僕は事故にあって入院している。けれど僕の描く絵の仕上がりが遅いのはずっと変わっていない。僕があの絵を短期間に書き上げることは不可能なのだ。

 しかしあの絵を描いたのは間違いなく自分だ。それは間違いない。


 だとしたら考えられる可能性は一つ。


 僕はもっと前にあの絵を描いている。つまり、あの構図を六年前より前に見たことがあるということだ。


「どこだ……?」


 内向的どころではなかった昔の僕が、何か新しい情報を得る先は極端に限られている。

 現実ではありえない、それでいて強烈な印象を残す。そんなものを見る機会なんて。


 ——ある。


 そうか。

 この部屋に足りないもの。

 昔の僕を構成して、今の僕に欠けているもの。


 ぐるりと見渡した宗孝の部屋。

 それぞれ詳細には全く思い出せない。

 けれども、その存在と宗孝との思い出を思い出してしまえばとても物足りない。

 僕と宗孝、そして深路たちを繋いだものなのだから。


 だけど。


「ああクソッ!」


 頭を掻きむしる。

 紙一重のはずなんだ。存在ははっきりと認識できるのに、脳の回路が『そこ』へと上手く繋がらない。

 空の額縁と額縁の隙間の壁へ、右手を軽く叩きつけた。


(……?)


 なんだ……これ?

 右手から伝わる感触が、軽い?

 伏せた顔を上げ、恐る恐る手を退ける。


 目に映るのは壁と額縁だけ。


 奥……?


 目の前の額縁に手を掛ける。

 金具に引っかかっている後ろのひもを外し、床に降ろす。かかっていた部分の壁紙はくっきりと跡ができている。吸着式のフックが付いている以外には…………いや、まさか、これって。


 フックを指でつまみ、『それを持ち上げるようにしながら引っ張る』。


 カタッ、と音を立てて壁の一部、およそ三十センチ四方が外れた。――隠し収納。こんな場所にあったら誰も気づかない。

 床の額縁の上に板を置いて中を……筒状になっているこれは……紙、だよな?


 ……手に取って…………字が……間違いない、宗孝の字だ。

 広げて…………そして、確かめ。



『ええーっ、あの絵見つかったの? いや、別に嫌がってる、とかそういうことじゃあないんだけど……実はさ、もう一枚描いちゃったんだよ、同じ絵。ほら、これ』


『どうしようかなあ、いらないならもう捨てちゃっても……え? ダメ? だって勿体ないって? えー、そんなこと言われてもなあ……』


『じゃ、ここにしまって置くよ。ここ、僕の秘密の収納なんだ。また失くしちゃったときはこいつを与一にあげるよ。……いや、だからってそんな簡単に無くさないでよね、もう』



 ………………ぁ……。


 これは。

 いや、これが。


 黒いインクを白い紙に垂らすように、一つの確信が自分の中へと染み渡る。


 非現実的な死体の構図。

 傍に書かれた血文字。

 六年前の事件とその後の空白。

 宗孝が綴ったノート。

 時間が止まったまま残っている旧家。

 空になった部屋。

 退院後の生活。

 ナニカが再び見えるようになった日。


 六年前の事件。そして今回の事件。

 論理構成と理由の肉付けのどちらも不完全のまま。それにも関わらず、これしかないという結論まで道筋が引けてしまう。


 汗が頬を伝う。

 すぐにでも頭の中の考えを整理したい。

 ――だけど。


 咄嗟に携帯の画面を点ける。写り込むのは『七月二十七日 六時三十五分』のデジタル文字。


 ……急げ!




◇36




 カチリ。

 壁に掛かっている時計の長針と短針が上を向いて重なる。

 ゆっくりと椅子から腰を上げる。

 やっとこの日が来た。


 なんて待ち遠しい日々だっただろうか。我慢できずに、何度も「練習」してしまったが、大した問題ではない。

 既に準備は終えている。だがもう少しだけ時間が必要だ。


 ……ああ。この苛立ちさえ今は甘美だ。

 刻一刻と時間が進んでいる。


 先ほどから何度も、何度も確認した荷物の中身をもう一度見返す。その作業を繰り返すほどに自分の口角が吊り上がっていくのが分かる。

 あまりの興奮に指先はもう震えている。

 失敗できない。


 夢と希望に、決意が混じる。

 一枚の紙を広げる。

 いつまで経っても色褪せることのない、自分の夢。


 初めての作品は最高の環境だった。鑑賞者が二人もいた。けれど勢い任せに作った自分の作品は拙かった。認めてもらえなかった。

 鑑賞者がいなくなってからは感性を磨いた。毎日『作品』を鑑賞して研究した。持てる限りの時間を全てそそいだ。下手なことをして鑑賞者を失うわけにいかなかった。

 だが自分でも分かっていた。

 発散したい。

 作り上げたい。

 今ならもっと上手くできると。


 ようやくだ。


 唇をゆっくりと嘗め回す。

 何十回と繰り返した確認作業の手を止める。いつのまにか時計の短針は四十五度以上傾いている。

 少し早いが、もういいだろう。


 上下を動きやすいジャージに着替える。

 つばのついた帽子を目深に被る。マスクをつけ、黒い皮手袋を両手にはめる。


 部屋の戸を開け、玄関の戸を開ければ、外はまだ暗い。

 予報は晴れ。今日は人が溶けるような炎天下になるような気がした。


 ここから「あの場所」までは本来バスに乗るのが一番早いが、この時間に動いているバスなんてあるはずもない。

 だから歩く。

 距離にすれば十キロ以上。三時間以上はかかる。さらに言えば、この部屋で時間を待って、一番早いバスに乗り込んでしまえば、着く時間はほとんど変わらないだろう。


 だが自らの内にある焦燥は、これ以上足を止めていることを許してくれない。

 何かしていないと、怒りと喜びでイカレてしまいそうになる。まあ、それも悪くはないのかもしれないが。


 そうして歩く。

 耽美耽溺思耽。世界の全てに耽る。

 世界はいい。新たな発見とバランスに心が躍る。

 闇はいい。どこもかしこも想像の余地がある。

 思索はいい。現実にない色で、現実にない構図で全てを作り出せる。

 全てを表現できる作品。辿り着いたのは六年前。


 あとはこの手で表現するだけだ。


 ほら、着いた。


 ボロボロに経年劣化した柵と『立ち入り禁止』の注意書きの前で立ち止まる。

 すでに東の空へと太陽は昇り、後ろには木々の生い茂る、丘のように小さな山が見える。


 大きな穴の開いた柵の一番上に手をかけ、それを乗り越える。

 道は草木と土によって埋もれ、辛うじて形を成しているだけの道を、奥に向かって歩き始める。


 ……ああ。


 視界のかなり先。


 少し驚きだ。もういるなんて。

 よかった。

 もう少し待つ必要があると思っていたけれど、嬉しい誤算。

 これですぐにでも作品に取り掛かれる。


 そう考えただけで至高の喜びに全身が包まれる。


 ああ、あの横顔。

 まさしく彼女こそ今日にふさわしい。


 歩を進める。無意識に、だが確実に、そのギアが変わっていく。


 あの日も。

 あの日もこんな風にこの道を歩いて。


 そしてこんなふうに――。


「おはよう」


 すぐ横から息切れしたような声が聞こえた。





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