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15 回帰

◇33




 そうして駅で天笠と別れた後、僕は少しの間その場に立ち尽くしていた。


 僕は目の前に続く下り坂を眺め、そこから家までの帰り道を幻視する。

 坂を下り、大通りを右に曲がって、三つ先の交差点を左折。ずっとまっすぐ行って、郵便局の一つ先のところで曲がればもう僕の家だ。


 『何か行動しなくては』という気持ちが心の中に沸いていた。しかもそれが時間限定で、いつ消えてしまうかわからない不安定な代物であることも重々分かっていた。


 恐らく、今なのだ。今行動しなければ、僕はまた今日までの生活に戻ることになるかもしれない。何をすればいいのか、全く分かっていない。それでもどうにかしなければ。

 

 耳元で悪魔が、気の迷いだと囁く。

 否定はできない。これは一時的な感情の流れに身を任せようとする行為だ。後から振り返ればとんだ骨折り損の愚かな行為に終わるかもしれない。

 自分はどうするべきか? ――いや、今の自分はどうしたいか。


(反省しない、か)


 頭に浮かんでいるのは天笠に言われたこと。


 状況は昨日の夜から何も変わってない。

 今の僕には何もない。

 自分が何者か分からない。『友達』だってもう一人もいない。人も、時間も、とっくに僕を置いて進み続けている。


 結局何を考えたところで、もう僕の腹は決まっているのかもしれない。

 悩む段階なんて、それこそとっくに通り過ぎてはるか後方だ。


 視界にはいつも通り、いたるところでナニカが蠢いている。変わってしまった日常の一番代表的な光景で、もう当たり前のものとして処理される光景。


 ああ、そうだ。


 これだって、元々僕にとっての『いつも通り』だった。


 僕はもう一度今来た道を引き返す。

 記憶は未だ断片的だ。


 もう一度やり直すために。

 ここから一歩踏み出すために。


 まだ残っているはずだ。

 中学生よりも前の僕、『津島与一』が住んでいた、あの家が。



――――

――



 西白森の駅の改札を抜ける。

 この場所に来るのは、遊園地の帰り道以来だった。

 『津島与一』はこの場所を知っている。


 陽がすでに傾き、宵闇の中で西白森の路地を一人歩く。僕のほかには誰もいない一人きりの世界だ。むき出しの耳にしんと響いてくるのは静寂だけ。

 午前中の肌寒さが幻であったかのような熱帯夜だった。


 路地を抜ければ少しだけ道幅の広くなった交差点に出る。街に不釣り合いなLEDの赤信号が闇の中で煌々と輝いていた。長い赤信号を嫌って歩道橋の上を進む。体を突き動かすような衝動が足を止めさせることはありえない。

 歩道橋を降りるとそのまま交差点に平行に直進する。


 『僕』にとってはほとんどが見知らぬ道で、『津島与一』にとってはそうではなかった。

 僕の記憶にもある街並みに合致しているところは少しだけで、歩いている方向なんてほとんど当てずっぽうと言っても良かった。


 歩く。

 歩く歩く歩く歩く。


 そして混ざっていく。

 言い知れぬ既視感は感じるべきでない未視感へ。

 問題文の空欄を埋めるように、目の前の答えが過去を掘り起こしては、僕へと回帰する。


 足は段々と早まり、加速し、いつしか僕は走り出していた。止むことのない炎のように急かしてくる心にその身を任せて駆け出した。視界に移る街の風景はネオンサインのように揺らめき、形を変え、溶けるように過ぎ去っていく。

 すぐに息は上がる。それでも無我夢中に走った。追いかけているのか、逃げているのか、分からないぐらいに走った。


 目指している場所のこと、ナニカのこと、過去のこと、そしてこれからのこと。色々なものが頭の中に生まれ、駆け回って、加速度的に意識は現実から離されていく。


 極端に狭くなった視界にはそんな内心とは裏腹に次から次へと風景が写る。街灯に照らされたゴミ袋。ガソリンスタンドの料金表示。誰一人として並んでいないバス停。シャッターの降ろされた郵便局。路肩に一時停止した普通車。赤く光る信号機、……っ!


 パーッ、という少し高くて物凄く大きな音が近くで聞こえて僕はようやく意識を取り戻した。


 ふざけんな! という罵声と目の前の赤信号ですぐに状況を把握する。……僕がいたのは交差点のど真ん中。謝罪と共に慌てて横断歩道の手前に戻る。


 僕は一度止まる。努めて鷹揚にまばらに流れていく車を眺める。心臓の脈動がじっとしていても全身から伝わってくる。


 ……落ち着け。


 額の中心を擦った。


 信号が青に変わる。

 服は張り付き、汗も湧き出て流れ落ちていく。一つ深く深呼吸をして、もう一度ゆっくりと歩き始めた。


 いつだって心の中にはあった街。ぼやけた思い出の中にしか残っていない街。

 それが情報と共に鮮明になる。思い出とともに感傷が生まれる。懐かしさと、見知らぬ街を歩いているような新鮮さと。気を抜かなくても許容量を超えて、目の前の現実が吹っ飛んでしまう。


 そして。


 (……)


 今と過去をつなぎ留める目的地、終着点。


 それはまだ確かに存在していた。


 何の変哲もないごく一般的な二階建ての民家の前で足を止める。

 薄暗い電灯の明かりでも十分だ。また一つ空欄が埋まる。


 その扉の前に立って僕はポケットから自分の財布を取り出す。

 レシートの飽和した財布。その紙束を全て引き抜いた。


 ――カチャリ。


 間に挟まっていた何かが地面へと落ちる。

 それは二組の鍵が括りつけられた簡素な鍵束。


 この家のものだ。


 その鍵を鍵穴に差し込むとガチャリ、と音を立てて意外にも滑らかに回る。

 ドアノブに手をかける。プルアップ式のそれを引っ張れば扉は容易に開いた。

 密閉されて淀み切った屋内へと外の空気が流れ込むように流入する。


「……ただいま」


 少しも変わっていない我が家に僕は足を踏み入れた。


 窓から差し込む外の光はあれど、家の中は暗くてはっきりとしなかった。

 この家に戻ってくるのは小学生以来だ。特別感は――よく分からない。日常感と非日常感が自分の中に入り混じっていた。

 知っている景色だ。

 観音開きの靴箱、上着を掛けるために壁に取り付けられたハンガーフック、額縁に入った二頭の子犬のジグソーパズル、居間と廊下とを仕切ったガラスに木枠の引き戸。ここまで来て、目を閉じればもう頭に思い浮かべられるようになっていた。


 玄関には靴が一足も無い。靴箱から床、何から何まで埃が積もっている。靴を脱ごうと靴箱に手を当てたときに伝わってくる感触はどこまでもつるりとしていた。手には溜まった埃が白く付いた。足元の土間を靴でスーッと引きずると、擦ったところがその軌跡の通りに色を少し変えた。

 そして玄関に座って靴を脱ぐ。埃が付くからというわけでもなかったが、癖で自然に靴下に脱いでいた靴下を靴の中に突っ込んだ。

 僕から見て左の木の引き戸が洗面所、右のガラス張りの引き戸がリビングに繋がっている。左を一瞥してから、僕は右のドアを開けた。中は窓のシャッターが閉まったままになっているのか真っ暗闇であった。


 何も見えない。

 僕はすぐ近くの壁にあるはずの電気のスイッチを手探りで押した。

 だがやはりと言うべきか明かりは点かない。どれだけ放置されていたのか分からないが、電気が通っていると考えるのが間違いだろう。

 代わりに携帯のライトを点け、馴染みのある部屋を一望する。

 このリビングも知っている。

 引き出しの位置も、電気の位置も、テレビの置いてあった場所も。全部憶えているんだ。


 ライトをつけたまま廊下に戻る。そのまま奥の階段へと歩いた。

 老人以外でも上るのに苦労しそうなほど急角度の階段である。はやる気持ちで素早く一段目に踏み出したが、そこで止まる。

 一つ経験があった。ここは足に汗をかいている状態で急いで行こうとすると転ぶ、と。埃が積もっていることも考えればそれは必至のように思われ、一段一段と手すりを掴みながらゆっくりと上った。


 階段の先にはトイレの部屋とは別に扉が三つあった。木製のドアには所々に傷がついているだけで、ネームプレートのような装飾は一つもない。

 中がどんな部屋か想像の余地は全くない。


 だけど、知っている。


 右の部屋は空き部屋で、元々は僕の両親の部屋だった。両親が事故で亡くなってからは、捨てるに捨てられない物の置き場へ……思い出深い物もこの中にはたくさんある。

 左はもともと僕が使っていた部屋だ。一人でいることも多かった僕にとっては愛着も思い出もある部屋だ。思えば、今の僕の部屋には昔のものがほとんどない。


 そして正面。

 僕はそのまま目の前のドアに正対する。左、右の部屋と全く同じドア。それでもこの部屋は今の僕にとって重大な意味を持っていた。


「……」


 右手をそっとドアに這わせて軽く撫でる。手から伝わってくるのは埃と木の感触。触れた個所の埃がはらはらと地面に落ちる。

 この部屋に僕は何度も入ったことがある。

 物臭な僕の部屋とは違って、綺麗に整頓された部屋だった。


 脳が命令するより早く、ドアノブに手をかける。

 ノブを掴んでいる右手はすぐには動かない。

 金属製のノブをしっかり握るのに難儀するほど手に汗をかいていた。この汗が熱帯夜のせいだけではないのは分かっていた。


 ……慌てるな。

 思い出せ。

 僕はもう全て知っているはずだ。

 探すべきものと。

 それがどこにあるのかも。


 ゆっくりと手を放す。

 この部屋じゃない。僕はまだ『あれ』を返せていない。

 なら。

 僕が行くべきは。


 左側へ向き直す。

 そして、正対している扉――僕の部屋のドアノブを確かに握りこんだ。

 ゆっくりと、ゆっくりと開く。


 そしてライトの付いた携帯を掲げたまま、闇の中へと足を踏み入れる。


 (……)


 記憶の中の部屋と全く変わっていない。なんなら今の自分の部屋とも総変わりはない。相変わらずに棚には乱雑にファイルが突っ込まれ、床には教科書やプリントが散乱している。

 床に散乱したプリントは小学五年生のもので、津島与一、と自分の名前がどれも不格好な大きさで記入されている。


 驚きはない。


 僕は物が氾濫して使えるスペースのほとんどない机の前まで歩く。収納スペースが多く、組み合わせ自由を謳っていた茶色の学習机だ。よほど雑に扱っていたのかあちこちに傷がついている。

 その表面を繊細な赤子の頬のようにさらりと撫で上げる。指先から伝わる感覚は現実感がないようにのっぺりと表層にだけ張り付いた。


 少しの間の後、キャビネットの引き出しの方へと手を伸ばす。

 ガチッ、と金属の硬質な音とともに引いた右手から何かが引っかかる。


 鍵がかかっている。


 自分のポケットから自然に、さっき使ったばかりの二組の鍵束を取り出す。その中で家の鍵ではない、もう一つの鍵を人差し指と親指で掴んだ。

 

 僕の机の引き出しの鍵は、すんなりと目の前の鍵穴に差し込まれるとカチャ、とひどく軽い音を立てて回り切った。

 手汗のかいた右手で引き出しを開ければ、探していたものはそこにあった。探していたものだけが、そこにあった。


 ……手が震えた。


 表紙に何も書かれていない大学ノート。背表紙近くに折り目がつき、紙が若干浮き上がっている所からそれが未使用品ではないと分かる。


 僕はそれを持って引き出しを閉め、椅子を引いて浅く腰かけた。

 このノートは僕のものではなかった。


 ノートの持ち主は――宗孝。津島宗孝。

 ああ、そうだ。

 六年前に死んだ、六歳年上の兄だ。


 勢いのままこのノートを開くことができてしまえばどんなに楽だっただろう。

 けれど熱を持っていた僕の体はいつの間にか冷めきっていて、残り物を搾りつくしたように僕の内面も凪のように落ち着いていた。


 だが覚悟は決まっていた。

 ノートを開く手は汗ばみ、紙は手についていたが、それでも最初のページをゆっくりとめくった。


 『五月二十日』。

 最初のページはその日付から始まっていた。もちろんここ最近のものではない。六年前よりももっと後だ。

 これは宗孝が残した日記だった。




◇34




 僕の記憶の中の最初の光景、それは誰かに頭を撫でられているものだった。その光景はぼんやりしたもので、それが誰の手によるものなのかは分からなかった。

 その手は温かくもなく、冷たくもない。特徴という特徴は感じられない。それでも僕が物心つく前の一番はっきりした記憶だった。


「与一、僕すごいだろ?」


 気が付いたときには宗孝はいつも僕の近くにいて、何かあるたびに僕の頭を撫でながら柔らかな笑みを浮かべていた。


 宗孝は笑うときにいつも陽だまりの猫のように目を細めた。決して相手に対して不安感を与えるものではなかったが、僕にとっては何を考えているのかよくわからない不安感をも抱かせるものだった。


 小学生になる少し前ぐらいの時期。反抗期に入っていたのもあって、こんな調子の宗孝がうっとうしくて嫌でしょうがなかった。

 幸か不幸か、両親の僕を見る目がだんだんと変化していたのもこの時期だった。あの人たちの視界に入るたびに向けられた『あの』視線。ゆっくりと、ゆっくりとその視線は周囲にも波及し、遂には周りの人間全員に監視されているとさえ感じるほどだった。

 『気持ち悪い』『あの子は変だ』『近寄っちゃいけない』『見た目は普通なのに』『何をしでかすかわからないぞ』『この前鳩の死体で遊んでいた』『ネズミを殺していた』『大人になったら人を殺してもおかしくない』

 彼らは決して僕には近づかず、それでいて目を離すことはなかった。


 いつしか人と目を合わせるのも嫌になって、周囲と自分との溝はさらに広がった。

 別に一人でいることは嫌いではなかった。嘘じゃない。……それでも自分自身の中のどこかに寂しさを抱えていたのも否定しようがなかった。

 この先の将来僕は孤独に生きていくんだ、なんて――今思えば自分でも笑ってしまうような――悲観的な考えを真面目に持っていた。

 けれどそんなこと、宗孝には全く関係のないことだった。


「与一、これ綺麗だろ?」


 僕が何も言わなくても、気づけば宗孝はいつも僕の近くにいた。

 そして僕が冷たい反応を返す度に、目を細めた特徴のある笑みを浮かべて僕の頭を撫でた。


 自然と分かった。

 記憶の中の手が僕の兄の手であることに。そしてその理由も。

 その手に感じた印象は――白。確かに兄の肌は日焼けしていない白いものであったが、それだけではなかった。明らかに父や母とは違う、『ナニカ』の見えないまっさらで綺麗な手だった。

 僕がそんな兄に興味を惹かれるようになったのは必然だった。

 会話が一言、二言と伸びていった。自分から話しかけることも増えていった。共通のことをする時間も増えていった。


 その中で宗孝は僕以外の人と会話をすることができない。そう、本人が申し訳なさそうに明かした。与一にまわりと上手くやる方法は教えてあげられない、と。

 そんなことは問題でもなかった。


 だって、楽しかった。

 本当に、本当に楽しくて、それ以外のことなんてどうでもいいことだった。

 今までの生活からはまるで違うものへと変わった。

 視線に対する居心地の悪さはどんどん小さくなり、正面から人の目を見ても何も思わなくなった。

 感じていた孤独感も、なくなってしまえば単に人に言えない恥ずかしい記憶だった。


 小学校に入学した後には友達だってできた。

 香奈、和也、そして香奈の姉の由香さん。沢山は居なかったし、これ以上欲しいとは本当に思うことはなかった。自分の中でそれが何よりも成長に思えた。

 みんなと、宗孝と何かをする。それだけでよかった。

 

 それもこれも全て宗孝のおかげだ。

 津島宗孝はもう僕のたった一人の家族で、兄弟で、親友だった。僕に構うことの少なかった両親と比べるまでもなく、何をするにも僕はいつも宗孝と一緒にしていた。

 宗孝は僕が知らないことを何でも知っていた。世の中との付き合い方、一人の時の遊び方、そしてナニカとの付き合い方。

 宗孝とはナニカの話も共有できた。僕はもちろん、宗孝にもナニカが見えていた。それに干渉することもできた。ナニカの蠢く世界は、僕と宗孝だけが共有できる秘密の空間であったのだ。

 ナニカを使って二人だけがわかる暗号だって作った。使いどころに困って随分温めていたが、それを使って石見との勝負で不正したことも覚えている。あのときは石見がどこかの戦闘民族のような豹変ぶり見せ、僕らは平身低頭したのをよく覚えている。

 楽しかった。


 全てが終わりを告げたのは六年前の七月二十七日。

 その日も僕は友達と宗孝を入れた四人、それに加えて深路の姉の由香さんを加えた五人で遊園地の裏山に来ていた。その日は夏真っただ中。しかし分厚い入道雲に覆われ少しだけ薄暗く、風の吹かない生温いような日だった。


 由香さんが凄惨な死体で見つかった。

 四肢と血文字。同じ構図。体には無数の切り傷と頭部の打撲痕。


 ――そして僕らが散り散りになった二日後、宗孝は死んだ。


 それから直ぐ、僕は事故にあって記憶を失くしたのだ。





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