14 名前
◇31
メビウスに、現代アート展の看板はもうどこにもなかった。
「先輩! 二時間しかないですからね! 出来るだけたくさん回りますよ!」
天笠に引っ張られるように僕らは五階のスポーツ系の娯楽施設まで直行する。
メビウス自体は三週間前とほとんど変わっちゃいない。小さい子供とその家族、若者など休日であるからこそ一層多様な人だかり。初めて足を踏み入れた五階は思っていたよりもずっと広く、混んでいると思うほどではなかった。
施設の受付を通っても、ずっと腕を引かれ続ける。サッカー、テニス、バスケだの、とにかくいろいろなものに付き合わされた。
気乗りしない体の動きは、やはり鈍い。
ゴルフは酷かった。コースはパターしか使わない簡易的なものだが、僕と天笠はどちらも初心者。延々と外し続ける僕の頭付近に、すっぽ抜けた天笠のグラブが飛んできたときは流石に恐怖を感じた。だが僕と違って運動神経がいいのか、その後は直ぐに対応して立て続けに良いアプローチをしていた。
「はいはい次行きますよー! もうあと半分しかないですからねー!」
もう既に予定の半分、一時間中遊び倒しているというのにもかかわらず、未だに天笠の元気は留まることを知らない。
――――違う。こんなことじゃない。
対照的にもう僕はヘトヘトだ。
僕は運動が嫌いではないし、苦手でもない。だがそれ以前の問題だ。
気力がないだけではない。昨日の夜からここまで何も食べていないから、楽しいという感情よりも空腹からくる虚脱感のほうが上回っている。
今度はちょうど台が一つだけ空いた卓球のスペースの方へと引っ張られる。
卓球は他のスポーツのネットでの区切りと違って、一つの台ごとに部屋があった。
部屋の中は非常に簡素な作りで、得点板を置いた机と卓球台、それらが必要最低限のスペースだけで構成されていた。
「はい先輩これ。十点先取ですよ!」
先に部屋に入った天笠は傍の机に用意されているラケットとボールを僕に手渡す。本人はもう一つのラケットを持って台を挟んだ向こう側へと小走りで向かう。
「サーブは二本交代にしましょう。じゃ、どうぞ!」
天笠の向けた真っ直ぐな視線に促されるままに、僕は手元のピンポン玉を軽く打ち出す。
自陣へと来たボールに対して、天笠がとった行動は全力のフルスイング。
捉えたボールが僕の方の卓球台へと勢いよく突き刺さる、ことはなく明後日の方向へと飛んで行った。
飛んで行った球は壁に当たって何度か跳ね返り、僕の足元へと転がって戻ってくる。僕は息を吐き出しながら、何も言わずにボールを拾った。
「あれー? おかしいなー?」
そんなことを言いながら、天笠が僕の得点板を一枚めくる。どうやら真面目に狙ったらしい。
次のサーブ。僕は先ほどよりもさらに強く、若干低いバウンドで打った。
が、無情にもそのボールに対して天笠がとったのは先ほどと同じ全力フルスイング。先ほどよりも低い球にそれを試みたことで、ボールはさらに明後日の方へとものすごい勢いで飛んでいく。
跳ね返ったボールは僕に当たって止まり、先ほどと同じように足元で静止した。
……はぁ。
僕は大きくため息をついてその場にしゃがみ込む。
「……ちょっと休憩ね。もう疲れたから」
僕はピンポン玉を拾い、握ったまま壁に背中を預けた。空腹感はピークに達しており、もう何もする気が起きなかった。
意外にも天笠はそんな僕に対して何も言わずに、卓球台に寄っかかって僕を見ていた。
目の奥に暗いものを一切感じない純粋な視線。そんな天笠のいつもの視線さえも、僕の何かを見定めているように感じてしまい、思わず顔を背けた。
――――確かめなきゃいけないことがあるはずだ。
そしてこの沈黙は少しの間続いた。
いつもと違って、天笠は何も言わない。そんな慣れない状況に、僕はひどい居た堪れなさを感じていた。
「……天笠さ。自分の存在意義、とかって考えたことあるのか?」
僕はその質問に殊更、何か意味を込めたつもりはなかった。ただ沈黙を埋めるためだけの空っぽの質問だった。だからこそ胸から溢れた言葉だった。
天笠の勢いに引っ張られるままにこの時まで来ていた。
だから一度立ち止まってしまえば、悪魔が再び思考停止を囁くのは必然だった。
しかし天笠はうーん、と少し考える仕草をする。
「先輩って、あれですかね? 過去をいつまでもひきずるタイプの人ですか?」
「……まあそうだな。そりゃあ同じ失敗はしちゃいけないと思うからな」
唐突によく分からない質問をされる。
僕は賽子から出た目をそのまま肯定することしか知らない。
それでも過去を後悔して反省し、次に繋げる。人のため、ではなく自分のため。実際どうかということを別にして、それが「あるべき」人間の生き方だ。と思う。
「私も過去を後悔する人間なんです。終わった後にこうすればよかった、ああすればよかった、なんてことは毎日のようにあって。先輩との会話でだってそう思うんですよ。聞かなかったこと、言わなかったこと、いろいろ後悔してるんです。過去に向き合わないなんてことはできないし、それに蓋をするのはダメだと思います」
ひどく意外なことだった。
くだらないことばかりする。何を考えているのかわからない。「友達」と言葉では言って頼ろうとしていても、今まで天笠をそんな風にしか捉えていなかった自分に気が付く。
いつだったか、偶然耳にしたクラスメイトの「人に興味なさそう」の声。否定できるわけもない。
結局僕も他人を知ろうともせずに決めつけ、都合よく解釈して、自分の世界だけの中に生きている。……自分を棚に上げてふざけた人間だ。
これも後悔なんだろうか……。
「でも反省はしません」
だって、と続ける。
「それはどんな形であれ、過去の自分が決めたことなんです。今ここにいる私じゃない。それをたとえ嘆いたとしても、省みることまでする必要はない。今何するかは今の自分が決めるんです。自分からどうでもいい縛りを受け入れるなんて、『人生の浪費』だと思いませんか?」
……。
………………。
全くぐうの音も出ない。調子に乗って同じ言葉を吐いていた過去の自分をそれこそ本気で後悔したくなる。
……いや、正直に言えば完全に理解したわけではなかった。
そもそも僕は何を後悔すればいいのか、なんてことさえ今は分からない。
それでも誰かに、『友達』に、悩みを吐露して、真剣なことを言ってもらえたことが、なにかとても、こう、……うれしかった。
「ま、これは私の意見です。どんなふうに生きたいか、自分でよく考えなきゃ駄目ですよ」
そうして天笠は快晴満点、にっこにこのしたり顔を浮かべる。
あまりにもいつも通りの姿だった。
つられて僕も笑う。笑って、ゆっくり目を閉じる。
それなのに。
それだけなのに。
瞼の裏がどうしてだか温かくて、閉じた目を開けることができなかった。
しばらくして僕は寄りかかっていた壁から背中を離し、ゆったりと立ち上がる。
「……よし! まだ一時間も残ってるのにこうやって休んでることは人生の、いや金の浪費だ。天笠、勝負の続きどうだ? ここから負けたら、土下座でも何でもしてやるぜ」
「お、良いんですかー、センパイ? 私が本気を出したら二点差なんてあってないような物だってことを教えてあげましょう!」
とても楽しい時間になる、そんな予感がした。
◇32
「ありがとうな、今日。わざわざ誘ってくれたんだろ?」
「それを私に聞けるぐらいには元気になったようで良かったです。先輩は調子に乗っているぐらいが良いと思いますよ」
「……なんか馬鹿にされてる気がするんだが」
「あはははは」
絶対に馬鹿にしてやがるなこの野郎。
土下座を賭けた卓球で僕が勝利してから、もう一ゲーム、もう一ゲームと、僕らは残りの一時間を最後まで遊び倒した。
終了時間になると、当然のように僕はヘロヘロ。流石の天笠も疲れ調子で、二人して近くのソファーに座り込んで休んだ。
一階のフードコートに寄ってかなりの遅めの昼飯を取った後、僕らはメビウスを出た。
僕も、深路も何も言わなかったが、そのまま駅へと真っ直ぐ向かった。十分ほど待って、ホームに来た電車に乗り込む。
開いている座席に二人で座ると、途端に眠気が襲ってくる。肉体的な疲労もあるが、むしろこれまでの精神的な疲労の蓄積がピークに達していた。瞼が重くて目が開かない。
何度も何度も船を漕ぎ、遂に意識が飛びかけたその時。
コン、と肩に何かが当たる。
一度。二度。三度。
繰り返すその感覚を感じながら、僕は意識を手放した。
その後、僕らは二人とも電車の中でそろって爆睡という事態に陥ったにもかかわらず、奇跡的に降り過ごすことなく、西白森駅で電車を降りた。
「ちょっとだけ話さないか?」
改札を出たときに、そう提案したのは僕の方だった。
今は二人、木のベンチに並んで腰かけていた。横に座る深路は子供のように足を揺らしている。
朝に空を覆っていた厚い雲は少なくなり、隙間から日が差したり差さなかったりを繰り返す。風はほとんど吹かず、気温はとても温い。周りの時間さえも停滞しているように感じた。
僕と天笠の間には沈黙が訪れていた。
天笠はうんともすんとも言わない。何かを、僕が言い出すことを待っている、そんな気がした。
居た堪れなさなんて、もうあるはずがない。
勇気を貯めていただけだ。
確認しなくてはいけないから。
もうこの時間が、終わりになるとしても。
覚悟は――もう決まった。
「先輩」
僕よりも先に天笠の声が響いた。
「もう、帰りませんか?」
提案でも、希望でもない。その声に乗っているのは僕に対する気遣いだけ。
ここで家に帰って、夏休みを過ごして、二学期からまた何事もなかったように学校に通ってみるとしよう。
三谷を忘れ、深路を避け、それでも天笠とくだらない話をしながら、また将棋を打つ。
違うゲームをしてみるのもいいかもしれない。メビウスではない、どこかほかの所へ出かけるのもいいかもしれない。
……きっとそれは楽しい。
こんな今更になって自分の気持ちを自覚してもしょうがなかった。
僕はこいつのことが好きだった。
でも。
あれだけ僕のことを気遣ってくれたもう一人の友達。
何年も僕のことを待っていてくれた友達。
僕はあいつらのことも同じくらい好きなんだ。
だから。
――だから。
「いや……今、話すから。少し待ってくれ」
さよならを、言わなくちゃいけない。
天笠の方へと顔を向ける。
既にこちらを向いていた天笠と視線が重なる。
「手、握ってもいいか?」
「……」
何でもないようなこと。
天笠は何も答えない。僕の目を真っ直ぐに見たままだ。
そして、天笠はにこり、と寂しげな笑みを浮かべた。
呆れたような顔で、手錠を掛けられる犯罪者のように手をこちらに差し出す。
「どうぞ」
僅かばかりの緊張。手に汗。
多分、ここが最後の分岐点だ。
もう引き返せない。
息を吸って、吐く。
――その勢いのまま、天笠の手を握った。
「ま、こうなっちゃいますよね」
握れなかった。
触れた感触もない。僕の手はそのままするりと透過していた。
「……お前、本当にここにいないのか?」
存在の否定。
『天笠』が他の人と話しているところを見たことがない。
『天笠』のことを知っている人が一人もいない。
『天笠』と交わしたはずのやり取りの履歴がどこにもない。
違和感はいくらでも転がっていた。
今日だってそうだ。
そもそも僕の家の前に出ている表札は『津島』――ではない。いくらしらみつぶしに家を捜したところで絶対に分からない。
そして三谷は天笠に会ったことはないと言っていた。
つまるところ常識的に考えれば、天笠が僕の部屋をノックする状況なんてあり得ない。
「はい、そうです。 ……ん、いいんですよ? もっと驚いても」
あっさりと答えが返ってくる。
そこに驚きなんて陳腐な感情の挟む余地はなかった。
彼女は言葉を続ける。
「正確に言うなら、先輩の世界にしかいません。平たく行っちゃえば妄想、思い込みの類ですね」
「全くこの年にもなって何をやっているのやら、と言いたくなりますけど……まあ先輩の場合は仕方ないですね。六年前の事故でほとんどの記憶が吹っ飛んでるんですから。吹っ飛んだ私と自分の同一性を見つけるのは難しかったのでしょうから」
「もっと詳しい話、聞きますか?」
「……いや、いいよ」
反射的に答える。
……ちょっとは僕の気持ちも考えてくれ。本当に重要なことを言っているのは分かるんだけど、カウンターパンチが速すぎて目眩を起こしそうなんだが。
否定したのにも関わらず、言葉は止まらない。
「私が五年前に生まれてから、ずっと先輩を見てきました。一番近くて遠いところにいる先輩を、私はずっと純粋に応援していたんですよ? 願わくばこのまま過去を忘れて生きて欲しいと」
聞きたくないことを。
「眼鏡をかけてきたときは驚きましたよ。遂に来てしまったと思いましたし、それより前に私の姿も見えなくなってしまうんじゃないかと思って。流石にもうあの時点では先輩の中に定着しすぎて大丈夫だったっぽいですけど」
すらすらと答えていく。
「先輩がナニカに悩んでいるのも分かってました。でも、自分から言うことはできませんでした。先輩の記憶が戻った時点で私の役目はおしまいですから。それはどうしても嫌だったんです」
「少しは人の話くらい、聞けよ……」
「いーや! 私は言いたかったこといっぱいあるんですからね!? 全く、これぐらいで済むと思わないでくださいよ」
彼女はいつも通りの調子で憤慨する。
そもそもですね――と前置きして。
「先輩、私の下の名前って知ってますか?」
言われてみると……全く分からない。
これまで中学と高校合わせて三年以上の付き合いならどこかで知る機会があってもよさそうなはずだ。
「分からないでしょう? ……そりゃあ分かりませんよ! だってないんですもん! 先輩が必要性を感じなかったせいで、ずーっと名無しの状態! 挙句の果てにはもうおしまい、ってふざけてると思いませんか!?」
「……すまん」
僕が悪いのか、これ?
下の名前……。考えもしてなかった。
今更にそんなことを言われても、もはや『天笠』以外の呼び方なんて定着しそうもない。
「いや……やっぱりお前は天笠だよ。今更他の名前なんて必要ない」
「それとこれとは話が別ですよ! 全くもう……」
バネ仕掛けのように立ち上がった彼女は、また呆れた顔をして僕に指差す。
「あ……」
気づく。
彼女の後ろ。
陰になって鏡のように反射する駅舎のガラスに、少女の姿は全く映っていないことに。
それは最早この時間さえも、終わりに近いことを示していた。
「もうほとんど記憶が戻りそうになっているんですよ。まあなんてったって、先輩自身の手で『私』の不在が証明されちゃいましたからねー。あと一押しってところです」
「……なんでそんなに冷静なんだよ」
「やだなー先輩。私は最初からいつ消えてもおかしくない身ですよ」
――それが少しだけ長かっただけで。
彼女のつぶやきが空に溶けるころには、僕らの間に沈黙が戻っていた。
今なら、いや、そもそも分かっていた。
浮かび上がる断片的な記憶の欠片。それが全部自分のものだってことぐらい。
こいつは分かっていたはずなんだ。記憶の戻りかけた僕と会ったら絶対にこうなることを。
それなのに。
彼女は立ったまま後ろを、自分のいない街の景色を静かに眺める。
そしてそれに合わせるようにベンチから立った。
「もう、おしまいか?」
「はい。おしまいです」
「そっか……」
「そうです」
「……」
意味の無い言葉を吐く。
自分で決めたのに、終わりをできるだけ遠ざけたくて。
僕も彼女も、ゆっくりと返答を探すように語らった。
「どうして終わりにしようと思ったんですか?」
「僕さ、単純に好きだったんだ。あいつと、三谷と、三人で話してるだけで幸せを沢山貰ってた。あいつは僕を恨んでいるのかもしれないし、僕にすべての原因があるのかもしれないけど、いやだからこそ、僕があいつを助けてやりたいんだ」
「えー他人を理由にするんですか? それは卑怯なんじゃないですか、先輩?」
「かもしれない。でもさ、あいつ僕の『友達』だから。こんな僕に残ってる、唯一の」
「……あーあ。ちょっとは期待したのにまだまだ先輩は子供ですね」
「うるさい。悪いか?」
「いえいえ。そんな先輩のために可愛い後輩が一肌脱いであげます。知ってますか、大人は子供の延長線上にしかないんですよ?」
「……ありがとうな」
「はい! 存分に感謝してください!」
二人で笑い合う。
笑っていないと涙がこぼれてしまいそうだった。
僕がここで泣くのは、とても恥知らずな行為だ。
だから笑う。
笑う。
「じゃあ、またな」
「はい、また今度!」
これは、さよならじゃない。
別れを告げた後、手を振る。
本当なら握手でもしたいところだが、それも叶わない。
だから僕はちゃんと手を振った。
「……あー、センパイ。最後に一つ。目、閉じてもらってもいいですか?」
「……なんだよ」
いいからいいから、と促されるままに目を閉じる。
――最後まで頑張ってくださいね。
「……っつァ」
暗闇の中、おでこに鈍い痛みが走る。
思わずその箇所を手で擦る。
引き戻された。しっかりと現実に。
……くそ。最後まで好き勝手やりやがって。
目を開けた時にはもうそこに彼女の姿はなかった。
視界が滲んだのは、全て痛みのせいだった。