13 混濁
◇28
『ボク』は西白森で生まれた後、一度も街の外に出ることなく育った。
幼いころに特別の記憶はない。生活に不満はなかった。両親は妙な場面で反応して泣き出す『ボク』を、不思議に感じてはいただろうが、きちんと世話をしてくれていたと思う。
他の子どもたちと初めて関わりを持ったのは保育園に行くようになってから。そこでも『ボク』は特段もめ事を起こすことはなかった。
ただ『ボク』の奇行は一向に治る気配を見せなかった。『ボク』はそれを奇行だとも思っていなかったから当然と言えばそうであるが、鳩の死体なんかに興味津々だったのである。
他の子供たちはまだよかった。『ボク』が傍目に見て何か変なことをしていても彼らは笑っているだけだった。多分誰一人として『ボク』が言っていることを理解していなかっただろう。
ただ日を追うごとに『ボク』の周りの子供の数は減っていった。
原因は子供たちの保護者である。『ボク』のことを子供の会話などから聞いたのか、彼らは『ボク』と自分の子供を露骨に遠ざけた。
当時の『ボク』は何が何だか分かっていなかったが、今から考えるとそれは大いに納得できること。あの子は頭のおかしい子だから話しちゃいけません、って。それだけ切り取れば世間を見てもありふれたことだ。
それからもう一つ。変わったことがあるとすれば、この時期になると両親も『ボク』のことを気味悪がるようになっていたことだ。幼い『ボク』が両親との会話した記憶がほとんどないのもこれが理由。
別に寂しくはなかった。
小学校に上がったときには、『ボク』には世間と自分とのズレが理解できるぐらいには物心がついていたのが幸いだった。
見えてはいけないものが見えている。それが分かればそれを口に出さずに、注目せずにいればよかった。とは言ってもそれまであまり他人と話してこなかったせいで、最初は会話に混ざることさえ苦労していた。それでも最初は会話することが楽しくて、意識して他人の会話に混ざろうとした。周りの子供も新しい環境になったばかりであったから浮いてもいなかったと思う。
だがそれも半年ほど経てば慣れた。
そして分かったことが一つ。『ボク』は大勢とつるむのはあまり得意ではないということだ。次から次へと話している人に対して耳を傾けることに目新しさを失って既に飽きつつあった。
行事に一喜一憂するクラスの中心からは離れたところで遠巻きに眺める。話しかけられたら話し返す。そんなことをしているうちに『ボク』は保育園でも見たことのあるやつが『ボク』と同じように外れていることに気づいた。
それが深路香奈だった。
初めは『ボク』から話しかけた。一言、二言と話しているだけだった。段々会話は長くなり、そして話すことが当たり前になっていった。その会話にはいつしか石見和也が加わって、『ボク』らは三人で行動することが多くなった。
そして小学二年生に上がって一週間。
両親が死んだ。
事故死だった。
あまりにも唐突なことで、香奈や和也、周りの大人に至るまで多くの人が『ボク』に心配した声を掛けてくれた。
『ボク』は……全く現実感が湧かずにいた。
この表現も適切ではないのかもしれない。言い直すならば、『ボク』にとって両親が生きていても死んでいても、もはや大きな違いはなかった。この頃になっても『ボク』が両親から疎まれる存在であることは変わらず、一年以上言葉を交わしてさえいなかったのだから。
物心がつき始めた状態から続いたそんな状況の中では、『ボク』の中に両親に対する思いのようなものは上手く育まれることはなかった。
月に何度か叔父さんが家に来るようになっただけで、いつも通りの生活が続いた。
◇29
「全く、香奈はこんな暑いのによくあそこに行こうなんて思うよね」
「いい外出日和だろう? 日差しも強くないしそんなに暑くないし。年がら年中エアコンの効いた室内に居たら抵抗力が下がって体に悪いって校長が言っていただろう」
「いやあの校長の話なんか聞いてないから。当たり前のことのように言うのはやめてよね」
人すら溶かすような炎天の下。
歩きながら和也は香奈にぶつぶつと文句を言っているが、分からないでもない。裏山に行くのは七月だけで十数回目。いくらあの場所が特別だとは言っても真夏の山に何度も何度も……。実際に行けば分かる。暑さで死ぬ。
自身を家から持参した団扇で仰ぐ僕にとってもそれは例外ではない。あおいでもあおいでも生暖かい風が通り抜けるだけで、読んで字のごとく焼け石に水だ。
僕と和也は完全に暑さにやられきって、まるで百鬼夜行の動く死体のように顔から生気を失っている。秘密基地へと続く坂道を歩いている。僕らの前を一人だけ元気すぎる香奈が先陣きって歩いている。そんな香奈に腕を引っ張られている由香さんは、ここからだと顔が見えないけど多分僕らと同じような表情をしているだろう。
「ムネ、大丈夫か? 生きてる?」
そして「彼」は一番後ろを歩いていた。だがさっきから雰囲気が少し変だ。心ここにあらずといった感じでボーっとしているし、僕の声に対する反応もどこかおぼろげで生気が薄い。
「……ん? ああ生きてるよ与一。ちょっと暑さにやられそうだけど」
そんな感じで返答はしたものの、やっぱり「彼」は浮かない表情のままだった。
「彼」はあまり丈夫ではない。体力的に辛いなら山へは来なくてもいいと毎回言っているのに。
返事に反応しようとしたとき、「あー!!!!」ととてつもなく大きな声が耳元で暴れた。
暑さに加えてのダブルパンチに脳はグラグラ。ノックアウト寸前。考えていたことは全部吹っ飛ばされて、本当のゾンビのようにゆっくりと隣を向く。
「与一、団扇持ってるじゃん! それならちょっと貸してよー! もう私暑くて死にそうなんだけどー!」
何かを言う前に僕の団扇は何者かに勢いよくひったくられる。
その下手人、由香さんは奪った団扇で高速に仰ぎだした。被った帽子の中――――が。
あ。と。
ぐにゃり、と世界がぼやけて消えた。
唐突に『僕』は何もない空間に放り出される。先ほどまで世界を作っていたはずのものは白く煙のように漂うばかりで、何も見えず、何も聞こえない。
そして次の瞬間には全く違う風景が、世界がそこには形作られる。
辺りを木々で囲まれ、僕の周りに人は居なくなっていた。
晴天、静寂、生木。
視覚、聴覚、触覚。それぞれから伝わる情報から混乱こそすれ、見慣れたこの場所が遊園地の裏山であることはすぐに想像がついた。
どうして、と考える暇もなく事態は進む。
どうやら僕は歩いているらしかった。らしいという表現が適切だと思ってしまう程に、僕の体と思考は文字通り繋がっていなかった。
この体が津島与一、自分のものであることは理解できる。だが一体、それを操れずにただ流されるまま世界を観測するだけの『僕』はいったい何者であるのか。
それでも僕の意思に反して足は動く。
置いてきぼりにされる思考へ微塵も配慮しない自分の足はその動きを徐々に加速し始める。
妙な胸騒ぎだけがしていた。
このままでいたら、何かとんでもないことが起きてしまうような。
それでも当然のように目を塞ぐことができない。背けることすらできない。
強烈な日差しの中で、自分だけどんどんと汗をかいていく不快感を、スティックのりで即席に張り付けられた紙のように心の表面にだけ感じる。
この場所にいるのに、この場所にいない。歩いている「僕」と、もうひとりの僕。まるで違う人間の感情が混ざりこんでいるような。
そうして流されるまま歩き続けた。
『僕』と僕はどちらも同じ気持ちを持っていた。
『僕』は与えられた点と点だけを結んで最悪の場面を漠然と思い描いている故の不安と胸騒ぎ。――僕が感じているのはこの先に何が待ち受けているのかを分かってしまうからこその恐怖だった。
『僕』が足を止める。
既に周りの景色は僕の記憶に新しい。既に気が付いていたが、この道は回数を数えるのが馬鹿らしくなるほど通ったことのある道なのだ。それでも、この場所の、この道のりのあまりの整い具合に身震いを覚える。
そこには既に先客が来ていた。
来ていた、というよりも、いた。
記憶の奥にこびりついた、というよりも脳の奥深くに食い込んで離れないその姿が目の前にあった。
「……っ」
口の中の水分は当の前から干上がっていて、思わず喉の奥が奇妙な音を立てる。
赤。
目に飛び込んできた光景から掬い取れる情報はそれだけ。
つい先ほどまで僕の隣にいて団扇を持っていった彼女が、目の前に転がっていた。左足、右足、左腕が切断され、唯一残った右腕にはべっとりと血の付いたのこぎりが右腕に握られている。そして乱雑に置かれた左手が奇妙なものを描いている。
由香さん――だった。
「……」
『僕』はこの時、そのあまりの異様さに本来出るはずの絶叫を忘れていた。ひたすらにそれに見入った。魅入られたのではない。
感じてはいけないはずの既視感を、『僕』が感じていた。
この異常さが理解できるだろうか。
『僕』は特殊な訓練を受けた軍人でもなければ、死体に興奮する異常性愛者でもない。ただの普通の人間だった。そう、そのはずだ。
そんな人間が猟奇的な死体を目の前にして――既視感を抱く?
目の前のヒトの形は、どこか自分の生命の根幹に訴えかけている。だがそれは歪に。心臓を鷲掴みするのではなく、尖った爪で表層を抉り取るように。ナニカに侵されたその姿は、酷く痛々しく、嫌悪感で脳を揺さぶる。
これは違う。もう見たくない。冒涜だ。そんな気持ちが次から次へと溢れ出してくる。
下唇を血が出るほどに噛み締めた。頭がおかしくなりそうだった。
『僕』は脱兎のごとく元来た道へと駆け出した。文字通り逃げる兎のように、得体のしれない恐怖を振り切るように。
駆けて、駆けて、駆けて、駆け。
「あ」
唐突に訪れる浮遊感。右足に感じる痛みで、何かに躓いたのだと分かったときには目前に土の地面が迫って――。
いつの間にか地面に立っている。
視界のクリアさと対照的に、脳細胞が事象に追いつかない。
「殺したいんだ。殺したくてたまらないんだ。なあ、どうしてこうなった?」
目の前には深路が。
「殺すのだけは、ダメだ。……そんなこと誰も望んじゃいない」
口が勝手に言葉を紡ぐ。『僕』の意志だ。
偽り、焦り。絡まる。
不意に後ろから肩を叩かれる。
「……だから」
叩いた左腕はぼとり、と僕の体の近くに落ちて。
「だから、こんなことになったのか?」
あの姿の三谷がこちらを睨んでいた。
◇30
意識が戻る。
暑いのか、寒いのか。
明るいのか、暗いのか。
死にたいのか、死にたくないのか。
何もかもがあいまいで、ひどく遠い、別の世界のように。
今抱えている思いだって、時間が解決してくれるのに。
僕は、ただ流されていればいいだけなのに。
義務なんて、責任なんて、負いたい奴だけ負っていればいいのに。
頭の中には誰のものか知れない、謎の記憶が次々と浮かび上がる。
僕じゃない。誰だ、お前は。
ナニカが視界を埋めていく。視界が黒く落ちていくたびに、遠くへと進めている気がした。
――手元の携帯が鳴った。
着信だ。
発信者は、未登録の番号。
だが僕は携帯を裏返し、その着信を取らない。
雑音によって光を、現実を、これ以上自分の中へと取り込みたくなかった。
携帯は鳴り続ける。だがそれも四、五秒の振動の後、途切れた。
……よかった。これでまた――。
――今度は、ピンポーン、と家のインターホンが鳴った。
今度こそ、僕の世界には無視できないほどの光が入ってくる。……酷い話だ。
家の中からは誰も動く気配がない。叔父さんがこの時間にいるはずはない。広夢は……寝ているのだろうか。
ガチャリ、という金属音。
玄関のドアが開かれた、のか。
いや、そんなはずがない。それはおかしい。
勢いで思わずベッドから立ち上がる。シーツと共に、固い物――携帯が床にゴトリと落ちた。床に転がり、携帯はひっくり返って表向きになる。
ちょうどその時に、携帯がピロン、という音と共に振動した。
今度は着信ではない。
知らない番号からのショートメッセージ――『家まで行きますね』。
「……は?」
急速に意識が覚める。誰だこいつ。何を言っているんだ?
扉越しに一階から、「おじゃまします」という声が聞こえる。
思考は意味のない高速回転を繰り返して足が動かない。
しばらくした後に、僕の部屋のドアがノックされた。
「やほー、先輩! 元気してますか?」
言葉が出ない。
思考演算は完全にオーバーフローした。
「どうせ先輩はなんだかんだ来ないと思ったので来ちゃいました」
部屋に来たのは、あまりに純粋な笑顔を浮かべる少女――『天笠』だった。
――――
――
「早く! 早く行きましょう!」
階下のリビングに天笠がソファーのところに座っている。いつもやかましい天笠にはとても似つかない光景だ。
天笠はいつもの見慣れた制服ではなく、黒ジャージのズボンに白パーカー、キャップと完全に私服である。
ことここに至っても頭が上手く働かない。壊れたままの状態だ。
「まさか忘れていないですよね……? 今日が日曜日ですよ!? 約束! しましたよね!?」
「…………ぁ、ああ」
言われていることは、半分当たっている。
……もちろん天笠の誘いを忘れていたわけではなかった。昨日の夜に諸々と共に記憶から吹っ飛んでいた上、出かける気なんて全く生まれていなかっただけ。捻るようなものも何もない。そんな気分にならなかった。本当にただそれだけ。
なんとなく罪悪感はあった。そもそも前回が変な終わり方になってしまったのは僕のせいであるからだ。
「……よく家の場所分かったな」
僕はどういうことだ、とあまりに早い到着のワケを尋ねる。
本当に聞きたいことは別のことだったが、雰囲気に吞まれ口が動いた。
僕に声を掛けられた天笠は、バネ仕掛けのように勢いよく立ち上がって答える。
「いやー苦労しましたよ。東白森にある家を片っ端から調べてきましたからね」
「……そんなわけあるか」
「や、結構前に先輩に用事があって、三谷先輩に聞いてたんです。結局その用事自体がなくなって行かなかったですけど」
「……あーなるほど。……そういやそんなこと言ってたっけなあ、あいつ」
「ま、そんなことはどうでもいいんですよ! 早く準備してください先輩! とっとと行きますよ!」
何を答えていても上の空。
全然用意をする様子もなく突っ立っている僕に対して、天笠は強く手を叩いて急かそうとする。
「ほらほら、すぐ着替えてください! 早く行きますよ!」
「……別にこの格好でいいよ」
「えー、今日陽が出てないから寒いですよその上下一枚」
「いいんだよ僕は。どうせ運動するとこ行くんだろ? 汗掻くわ」
天笠に引っ張られるままに洗面台へ行き、適当に顔を洗って寝癖を直す。
そしてリビングに戻って、押し出されるように玄関から外に出た。
確かに空は雲に覆われて薄暗く、だけどそんなに寒くはない。
「さあ行きますよ!」
天笠が僕の手を掴んだ。




