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11 狂気

◇21




 次の日。休日明けの月曜日。

 大型の台風の接近が白森だけでなく、日本中で伝えられる中、白森市では未だ雲1つない快晴であった。晴れ過ぎていてどこか気持ちが悪い。

 とかく奇妙な天気だった。洋書なんかであれば冒頭にストレンジデイとでも書かれるのかもしれない。もちろん読んだことはない。


 天笠と出かけた先週とは違って、今日はしっかり学校に間に合う時間に起きた。というか昨日の起きた時間を引きずって逆に早く起きすぎた。

 現在、朝7時。いつもなら目覚ましもまだかからないこの時間に、既に玄関を出て歩き始めていた。

 絡まったコードをほどいて、いつも通り耳にイヤホンを一つ一つ差し込む。接続するのはいつも通り古ぼけた音楽プレイヤー。流れてくるのも同じあの曲。


 この時までは、僕にとっては変わらない日常だった。やっぱり天気予報はあてにならない、ぐらいのことをのほほんと考えていた。折り畳みの傘は一応カバンの中に入っているが、果たして使う機会があるのかどうか。


 そして、高い塀の道を曲がって大通りに出た時だった。


「お」「あ」


 鉢合わせしたその人物は僕のよく知る――というか昨日ぶりの――深路だった。

 深路はいつもだったらそのままにしている黒髪を、なぜか後ろで1つにくくって纏めていた。


「お前――どうした?」

「それはこっちのセリフだ。津島はいつからこんな優等生になってしまったんだ?」

「あ? 僕はたまたまだよ、たまたま。昨日起きた時間が早かったから引っ張られたんだろ多分」

「奇遇だな。私もだ」


「「……」」


 沈黙。


「なんで髪結んでるんだ?」


 深路の頭の後ろを指さしながら言う。


「今日体育があるだろう? 時間もあったから家で結んできた。――ほら」


 深路は通学カバンとは別に横から下げた布製の手提げの袋をこちらに揺らして見せる。

 おそらくジャージか何かが入っているのだろう。中からは紺色のものがちらっと覗かせている。


「……昨日の。覚えてるか?」

「ああ。覚えているよ。昨日の今日で忘れるわけがないだろう?」


 話題は昨日の話に移る。僕は昨日の事件のことについて尋ねたつもりだった。


「楽しかったな」


 だからそんなことを言われて驚いたのはおかしなことではないと思う。

 その言葉を聞いた僕は、正直思考の外過ぎてフリーズしていたが。


 ……そうか。こいつ、あの死体を見てないんだ。

 頭の中をさっと刹那的によぎった考えは、すぐに捨てた。


「私は、次出かけるのが凄く楽しみだよ。色々行きたい場所とやりたいことがあるんだ」

「次行くなら白森の外に行ってみたいよ。一回も出たことないから、いつか行ってみたいんだけど。なんか一人だけで行こうって気にはならないんだよなあ」


 今までは誘っていいものなのか、自分から言い出せなかったのだが、「友達」と言われ一度遊びに行っただけで口からすらすらと。我ながら単純な人間だ。


 ちなみに僕は生まれてこの方白森市一筋の人間だ。まあこんなこと言ってると聞こえはいいが、怠惰にしていて一度も市外へ出たことがないだけ。両親にどこかに連れて行ってもらった記憶もない。誰かの誘い? 聞くまでもない。


「私も外に出たことはないぞ。別に何か不便があるわけでもない。ずっと長くいたらいつか幸運でも回ってくるかもしれないしな」


 深路は遠い目をしながら言う。

 幸運。僕には果たして回ってくるのだろうか。


「お前、覚えてるか? 僕、小学生のとき深路の都会への憧れを延々と聞かされたんだぜ?」

「ふっ。いや、全く記憶にないな。そんなこと言ってたか私?」

「いや絶対言ってたね。うん。これは間違いない。お前が一流企業に入社するところから始まるライフプランを僕は何となく覚えている。確か、」

「あーいい! もういい! わかったわかった。私は断固認めないが、その先を聞くと色々と不味いことになりそうだ。そこらへんでやめとこう。な?」

「いや不味いことってなんだよ」


 ぐっ、と親指を立てて肩を叩いてくる深路にツッコむ。というか結局認めはしないのか。

 深路は僕に何かを言い返そうと、自分の記憶を探るように僕の顔を見つめる。


 2秒。

 3秒。

 4秒。

 一度何か思いついたかのようにあ、と小さく声を出したが、何かが違ったのか、また同じ顔に戻って、むー、と唸り続ける。


「おーい。足止まってんぞー」


 僕が呼びかけると、考え込んでいた目の前の相手がいないことに気づいた深路は顔を上げて歩き出す。


「それで? 僕に言いたいことは見つからなかったんだろ?」

「…………あ、石見と仲良し」


 ……おう。

 どんなことを言われてもあしらってやろうと考えていたが、それは流石に、なあ。

 言ってやったぜ、みたいな顔をされると反応に困る。あとどうでもいいがその顔はすごくイラっとする。


 石見。

 あいつは恐らくなんで僕に嫌われているのかも分かっていないだろう。僕ですら分かっていないのだから当然。でもそれでいい。面倒臭い。


「流石に石見の話となると黙るか。しかし不思議だな。あいつ、あの頃とそんなに変わっているか? 私も会ってない時期があったから絶対ではないが」

「それいつの話だ? 中学の頃か?」


 興味はなかったが、違和のある深路の口ぶりは気になった。

 同じ中学校、だったよなこいつら。


「私は別に津島のように仲が悪くなったわけでもないがな。……まあ、1度話さない期間ができてしまうと会う気になれなかった」


 その理由は、分かる。

 高校に入ったばかりの自分が、同じことを深路に対して思っていたから。

 小学生の自分にとって、深路は本当に数少ない友達の1人だ。時が経って僕の憶えが薄くなっていたとしても、多くの思い出を共有していたことに間違いない。加えて悲しいことだが、入院で出鼻を挫かれた中学生時代に親しい友人はできていない。

つまり繋がりの深さは僕にとって、人生において屈指。しかしそれだけの繋がりを持っていても、いっそこのまま会わない方が、という誰のためかわからない遠慮の心が実際に働いたのだ。


 再会した深路香奈は、その言葉が嘘に聞こえるほど大人びていて、記憶とは大きく違って見えていた。


「それまでにいろいろ考えることも多くてな。高校に入ったあたりでようやく気持ちが定まった。その副産物さ」


 石見と、僕と、周囲の人間とだって自分からコミュニケーションを取ろうとする――そんなこいつの姿を当時は信じがたく。


 僕は友達の変化を見たくなかった。

深く向き合ったものごとが、まるっきり形を変えてしまうことは恐ろしい。

 この世には正解などないと再認識させられ、どこへも進めなくなりそうになる。

 それは人間関係に留まらない、普遍的な世界の取り決めだ。


 何を思い、その結論に至ったのか。

 未だ真面目に取り合わないで現実からの逃げ道を作ろうとする自分には、理解できないのだろう。……こんな諦観が良い証だな。


 毎日のように顔を合わせるようになり、良くも悪くも人間たかだか3年間では本質的に変わらないってことだけは分かったけどね。俺も、こいつも。


――だけど。


「残念ながら、石見に対してはそう単純じゃないんだなこれが」


 変化が嫌だ、というのは確かにそう。

 だが深路とも高校で再会し、友達だったという条件は同じ。同じ空間で生活していれば否が応でも話す機会は生まれ、なんだかんだと結局つるむような関係に至っている。


 そうならなかった理由は……何度考えたって分からないのだ。

 視線、言動、雰囲気。すべてにおいて心が受け入れることを拒絶しようとする。

 同じ空間にいることが、たまらなく嫌で仕方がない。


 生理的にムリ、ってやつなのか? 小学生の時は……どうだったかな。深路は変わってないと言うけど、僕だけに伝わるものでもあるのか。



 深路は「お前らの問題だから、特に私から口出すことはないが……」と1度置いて、


「私は運命なんて言葉は信じていないが、津島がいて、三谷がいて、石見がいる。この学校に来て本当に良かった気がするんだ」


 なんてことを言いだした。

 思わず深路の顔を見つめるが、目の前のそいつはいたって真面目な顔をしてそんなことを言っている。

 普段なら絶対大笑いしていただろう。大丈夫かお前、と。なぜだか口から出てこない。


「だから――いつでもいいから」


 その先を深路は言わなかった。

 僕が黙っていると、深路もそのまま遠い目をして沈黙した。



「そういや、お前なんで三谷のとこの中学に通ってたんだ?」


 話が途切れたその後に、僕は深路にできるだけそれとなく言った。

 これは深路に聞きたかった質問の1つで、ずっと聞けていなかったもの。滅多に出てこない過去の話題が出た今が格好のタイミングに思えた。そうでもないと、昔の話は切り出しづらい。


 僕と深路は西白森小学校の時の同級生で、卒業した後に僕は東白森へと移った。

 連絡は取れずてっきりそのまま学区域の中学校へと行ったのだとばかり思っていたから、三谷や石見と同じ中学校と知ったときは驚いたものである。


「それなら簡単なことさ」


 だが深路はこっちを向くと、何でもないことのように答える。


「津島が西白森からいなくなった少し後に、私の家も引っ越したのさ。白森のちょっと南側の方にな」

「そうか……深路も引っ越してたのか」

「まあ色々あったからな」


 年単位の疑問はあっさり解ける。あまりに過ぎるほどだ。答えだってあまりにも単純で、至極当然のことでしかない。往々にしてそんなもの、か?

 聞いた後からの考えでしかないのだが、どうして僕はこんなことすら聞くのを躊躇っていたのだろうか。


 ……なんだか自分が馬鹿に思えてきた。



 僕らはそうしていつぶりかわからないぐらい、昔の話をしながら高校までの道を歩いた。

 他人に合わせて歩いているのに、登校時間はいつもの半分以下にも思える。


 学校前の大通りに出ても、まだ生徒の影は微塵も存在していなかった。そりゃそうだ。僕ならまだ寝ている時間だし。


「あ、昼飯買わなきゃ」


 大通りに曲がったすぐ目の前のところにあるコンビニが目に入った。いつもと勝手が違ったからあやうく忘れるところだった。

 コンビニに入って、すぐのところにある小さめの買い物かごを持つ。僕が目指すのは――今日はおにぎりはやめてパンにしようかな――奥の菓子パンなどが並ぶコーナーだ。

 ……そうだ。


「深路は何がいいと思う?」


 こいつが何を選ぶか少し気になった。というか、何でもいいから深路に話しかけたかっただけのような気もする。

 この前学食のパンを買っていたときは、たしかハムサンドみたいなものを選んでいた。


「今のお前の好みなんて私は分からんぞ? あのクソ不味いおにぎりを買ってくるような奴なんて」

「クソまず……? あ、ネギ味噌醤油コーンのことか?」

「具の中身なんて言われても分からん。私が貰ったやつだ」

「わさびカルビマヨネーズの方か。あれは普通においしかったと思ったけど。あと、別に上げてないからな。勝手に食っただけだからなお前」


 そうだっけ、と思いっきり顔を作ってとぼける深路。


「ま、そんな前のことは流しといてやる。僕の好みとか考えないでさ、今深路が一番おいしそうだと思ったやつ挙げてくれよ」

「そうか。なら……んー……これだ」


 そういって、深路が手に取ったのは、菓子パン――の横の棚に置いてあるコーヒーゼリーだ。っておい。


「パンのところで言ったつもりだったんだけど……」

「そんな話は全く聞いてないぞ。はい。いやーすまないな、ご馳走になるよ」


 そう言って僕に甘味が手渡される……は?


「いや意味わからん。いつから僕がお前に奢るとかそういう話になったんだ」

「違うのか? わざわざ私に聞いてくるから買ってくれるのかと思ったぞ」


 そんなつもりは全くない、と言おうと思ったが、深路の態度を見て口を止める。

 深路はこちらを見ずに、コーヒーゼリーの置いてあった周辺の洋菓子コーナーを物色中だった。死ぬほど甘そうなモンブランや抹茶ケーキを見て、うーん、と何かを迷っている。


 ……これは買ってもらうことを微塵も疑ってないな。買わない、と言ったら違うやつを渡してくることは間違いないだろう。

 幸いコーヒーゼリーはざっと見た感じでは一番安いものだった。


「いや分かったよ。買うよ。これでいいんだろ?」

「おう。ご馳走になるよ。悪いなー」


 そのコーヒーゼリーと、適当に近くにあった菓子パンを2つばかり掴んで籠の中に放り込んだ。

 会計を済ませて、コーヒーゼリーを深路に渡そうとする。しかし、荷物になるから津島が持っていてくれ、ということで菓子パンと同じビニール袋に入れた。


 コンビニを出て学校まで歩く。少し時間を潰したつもりだったが、それでも他の生徒の姿は全くと言っていいほどなかった。なんなら人通りすらあまりない。


「こんなに人いない時間ってあるんだな。初めて見たわ」

「私はたまに生徒会で早く来ることもあるから知っていたぞ。なんだったら津島は遅刻するから最近見たんじゃないか?」

「そういえばそうだ。なんか見覚えあると思ったら忘れてた」


 皮肉を飛ばされているうちに正門に付いた。閉まっているので、空いている隣の小さな扉から内側に入る。7時半より前は正門が開いていないという都市伝説を体感する日が来るとは。


「登校日も少ないんだから、残りはちゃんと来いよ」

「……終業式っていつだっけ?」

「今週の木曜だ阿呆」


 はいはい。しばらくは外出しないし余裕だっつの。

 校舎までの道に作られた小さなビオトープを並んで抜ける。


「……さ」

「ん?」


 深路が何かを呟いたが聞こえない。


「あれ?」


 その代わり奥の駐輪場、止めてある赤い自転車が目に留まった。

 あのスポーツタイプの奴はたしか……三谷のものだ。まさかあいつまでこんな早く来てるのか?


「深路、あれ見ろよ」

「ん? あー、あれは三谷のだな。こんな時間に来ているのか?」


 私たちを棚に上げるが、と深路。それは間違いないな。

 三谷はあんな風でも優等生の部類なのだが、それでもこんな時間から学校に来るのは控えめに言って変だ。


 僕らは首をかしげながら苦笑いをし、そこそこ大きい囲いが作られている生物部のナントカ池の前を通って昇降口へと向かう。3か所ある透明な扉のうち、唯一開いている右側の扉から入った。2年生の靴箱は並んでいる中の真ん中だ。

 履き替える前に、僕は三谷の靴箱を少し覗く。


 ……あれ? 上履きしかない。


 何はともあれ靴を履き替えようと、下駄箱から上履きを地面に出した時だった。


 ――世界が止まった。

 心臓の動きも、呼吸すらも全てを忘れて、僕の視線は向いたある一点に釘付けになる。


 この角度から見える池の反対側のふちに「何か」があった。そして「ナニカ」もいた。


 思考が世界に追いつくと同時に体の感覚が戻り、止まっていたものを一気に噴き出すかのように心臓が全開で動き出す。血流が脳まで行き渡ると、手のひらの隙間から零れる水のように激しい頭痛の感覚が滲み出る。

 背筋へと走る悪寒とそれを塗りつぶすほどの拍動に身を任せ、僕は靴下のまま走り出した。



「……はっ、ふっ、はっ」


 呼吸が荒い。

 自分の体が自分でコントロールできない。

 視界は大地震が起こっているのかと錯覚するほど定まらず、辛うじて網膜の奥へと像を結んでいるものもそれがなんであるのかを脳が拒否して受け止められない。

 額から汗が大量に噴き出るものの、オーバーヒートを起こした機械のように頭の中は熱く、また自分もただただ呆然と目の前の惨状を見つめることしかできない。


「……おいどうした!? ……ぁ」


 突然の奇行に面食らっていた深路も後から追いついた。僕の肩を叩いた手はすぐに固まり、そのまま力なく下に降ろされる。


 そこには、最近見たばかりの、人のようなものがあった。


 左足。

 右足。

 左腕。

 切断、されている。


 唯一残った右腕の手が握るべっとりと血の付いたのこぎり。

 乱雑に置かれた左手が奇妙なものを描いていた。


 そして、その顔は。



 ――昨日見たばかりの三谷だった。


「……ぃ…………?」


 喉を通って出てくる空気は、最早声としての形をなさなかった。




◇22




 その後、学校へと警察が到着し、僕はまた警察署で事情を聞かれることになった。

 三谷は警察が到着したときにはすでに死んでいたそうだ。そう、警察署の刑事さんが教えてくれた、らしい。その時僕は、唇を真っ青にして、目は虚ろ、体をガタガタと震えさせることしかできなかった。今となってはどんな風に告げられたのかも思い出せない。

 何回か警察に呼ばれては、その度に三谷の姿を思い出して吐きそうになった。


 ……薄く目を開ける。


 窓から既に真南近くに登った太陽からの光が膨大に差し込んでいて、部屋の中はとても暑い。昨日の夜はエアコンをつけ忘れたのだろうか。

 緩慢な動作で首を自分のベッドの横に置いてある時計に向ける。だが、その目覚まし時計は7時ぐらいを指したまま動く様子がない。しばらくボーッと見続けていると、その時計は1ヶ月前に自分で壊したことを思い出す。

 腕をゆっくりと頭の方まで持ってきて、枕元の自分の携帯の電源ボタンを押す。だが、携帯からの反応はない。時計の代わりに表示されたのは、電池残量が足りないことを示すための赤くなった電池の画像が表示された。

 役立たずの携帯をそこら辺へと放り投げ、再び顔を枕へと埋める。

 ……どうせ学校は休校だ。


 目を閉じても、なかなか眠ることができない。瞼の裏に、三谷の姿が焼き付いて離れないからだ。

 瞼に映る三谷は、……やめよう。何も考えたくない。

 遂には数えようとした羊の中にさえ三谷の顔が混じりだした僕は、『暑い』こと以外の思考をどうにかして切り捨てる。体感にして5時間以上ベッドの上で悪戦苦闘した後、疲れ果てて意識を失った。



――――

――



 …………暑い。

 次に目を覚ました時、西日が既に窓から指していた。

 鉛になったかのように重たい体をベッドから起こすと、部屋の中の気温は非常に高いはずなのに、体の中が寒くてしょうがない。ベッドのシーツは汗でぐしょぐしょに濡れていて、気持ちの悪さを感じる。

 頭がぐらぐらする……流石に熱中症か。


 尻の部分に固い感触。浮かせて確かめると、手のひらに収まるぐらいの硬い物体――充電切れになった自分の携帯がそこにはあった。

 立ち上がって、机の上に伸びている充電コードにその携帯をつなぎ、ふらふらとした足どりで部屋を出る。壁に手をつきながら階段を下りて、1階の台所に向かった。

 戸棚から、プリントされたキャラクターの絵が剥げかけているコップを取り出す。壊れたら変えようと思っていたのだが、なかなか壊れないため使い続けているものだった。コックを上げて水道水を入れ、それを一気に飲み干す。

 ……美味しい。言い知れぬ快感と一緒に体中に元気が蘇る。

 こんな気分でも人間は生理現象には抗えないってか、と自虐的な思考を続けた。もう1杯コップに入れて同じように飲み干すと、汗にまみれた自分の服を脱いで洗濯機へと放り込む。


 ……そういえば家の中には誰もいない。


 台所とつながったリビングに向かい、テレビの上の掛け時計を見ると今は午後6時半過ぎを指していた。隣の部屋からは一切物音がしない。この時間になっても広夢が家にいないのは珍しいことだった。


 ……するべきことは、何もない。

 早々に部屋に戻り、上半身裸のままベッドに倒れこんだ。復活した携帯を机の上からコードごと引っ張ってくる。


 ……もう……眠い。

 ……………瞼が……上がらない……。


 何もせず、倒れた。





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