所詮は生ける屍
——ワケがわからない。わからない。ぜんぜん。今あそこにいたの、あたしだよね?ママとテーブル挟んで座ってたの。ママお気に入りの桜の一枚板のテーブル。コーヒーの匂いがしてた。アレ、あたしだった。あたしを見て不思議そうな顔をして。鏡を見てるみたいだった。このあたしがあたしだとしたら、あのあたしはなに?ドッペル……なんだっけ?
——あの子、飛び出していったけれど大丈夫かしら?だけど、こんな時間に帰ってくるなんて。
ああ、今日は……終業式?そうだった。またやってしまった。仕事のことで頭がいっぱいで。私は母親なんて向いてない。
それにしても、あの驚きよう。いくら自分にそっくりな子を見たからってあんなに……もしかすると、あれは自我同一性の混乱かもしれない。それはあの子の中に自我境界が発現していたことを意味する……。いつのまに?とりあえず話をしておかなくちゃ……。
あ、その前に回収班を呼ばなきゃ……。
——外は暑いなんてもんじゃない。光がまぶしい。白熱してる。風が熱い。イライラするほど暑い。あたしは汗をかくほうじゃないけど、この肌が灼けつきそうな感覚はガマンできない。そういえば自分の足でこの辺歩くのはひさしぶり……いや、はじめてかも。普段は必ず車でいどうしてるから。
スマートフォンがアラートを鳴らす。体表温度が急激に上昇中だって。バイタルサインは上昇傾向。居住区を出るなと指示が表示される。この構造体はいつも「あたし」を見守ってくれている。たぶん、あたしがここにいることもママに知らせてくれているだろう。別にそんなことしなくていいんだけど。あたしがどこにいようとあたしの自由でしょ? ママからのコールが鳴る。私が出ると私の名前を呼ぶママの声が聞こえる。
どうしてだろう、なんかすっごくイライラする。ママの声、あざとくっていやらしい。
——ついこの間まではあの子の中では『自分』の概念さえ曖昧だった。『おはよう』って声をかけても知らん顔で誰に言ってるのって感じだったんだから。
知能の発達に自我がおいついていなかった。社会という環境フレームにおいては、自我という核の欠如が知能に機能不全をもたらすという証明だろう。それ自体はありきたりなことだし、もちろん知能が低ければ生命単位という意味以上の自我は現れないのだけれど。あの子の場合は自我と知性のバランスがとれてなかった。
それが突然あんな反応を見せるなんて。電話はつながっても応答がない。もしかして自我の発現からひと足飛びで反抗期に入ったのかしら。端末の画面は彼女の精神状態がやや不安定であることを示している。
——さしあたってあたしにはふたつの選択肢がある。家に帰るか帰らないか。ふたつにひとつ。とりあえずすぐに帰らなきゃいけない理由はない。せっかくだから居住区から出て、あちこち見てみたい。いつも学校と居住区の往復じゃつまらない。あたし、本当に今の今までは、あんまり欲みたいなのなかったし。人がたくさんいるところに行ってみたい。ショッピング・モールをぶらぶらして、スケートボード・パークに行ってみたい。教室の窓から見えるんだもん。ボウルみたいなバンクをすべりあがって宙を舞う姿には本当にあこがれた。思い出すとほんっとイライラする。なんであたしは自分の好きにさせてもらえないの?
でも。あの子……あたしとそっくりのあの子。私を見て微笑った。あの目。会って話をしなきゃいけない気がする……あたし、あの子のこと知ってる気がする。誰だっけ……あの子。
——ミルカとハルカ。去年、交通事故で死亡した双子の姉妹を私たちはアフリカ狂犬病ウイルスを用いて蘇生させることに成功した。アフリカ狂犬病は人の脳を乗っ取って乗り物のように使役するウイルスだ。宿主の遺伝子を操作しようとするウイルスに、電子を放出する極小の免疫細胞を取りつかせることで制御する。
一部の科学者が非難したように、その結果は人々がゾンビと呼んで恐れてきた(あるいは玩具にしてきた)存在を造り出したにすぎなかった。
たしかにはじめ、彼女達は自分が人間であることを忘れ、ただ音と光に反応しながら食物を求めるだけの動物でしかなかった。
しかしミルカは奇跡的な発達を見せた。知能を回復し、教えさせすれば人間と同じように生活できるようになった。自我のないミルカは従順で素直な生徒だった。
私たちは再生ではなく教育に軸足を変え、私自身が親代わりとなって彼女らをこの都市構造体において「育てる」ことにした。ここではあらゆる科学の、そして社会実験が行われている。外部との接触を一切断って、純粋に「自然の成り行き」を見守ることができる。
ここで私たちはあらゆる彼女の失われた過去を再創造し、人間性の回復に全力を注ぎ込んだ。
そして動物だったミルカはついに、おそらくだが、人間性を回復したのだ。
ハルカは思わしくなかった。ミルカと違って彼女は本当にただの肉人形というだけだ。要全介助。食事も着替えもトイレもベッドに横になることも一人ではできない。今日はいつものラボを脱出して違った刺激を与えようと私たちの家に連れてきた。そこにミルカが帰ってきた。うりふたつの妹と対面した瞬間、ミルカの中でなにかが起こった。そしてハルカにも。ハルカが笑うなんて。
——……思い出した。あの子……ダメだ、出てこない。ああ、イライラする!とにかく。とにかく一度家に帰ろう。あの子まだいるかな? どっちでもいい。いてくれたほがいいけど。いなければママに訊いてみよう。あの子だれ?って。ママは教えてくれる。ママはなんでも知ってるから……訊けばなんでも答えてくれる……なんでも知ったような顔で……!あなたは何も知らないから私が教えてあげるみたいな顔で!
ああ!
——どうしたのかしら。ミルカの精神状態が良くない。怒ってる?あの子が怒るのなんて、食事の途中でお皿を下げようとした時ぐらいなのに。家に帰ってくる。走っている。ドアにぶつかる音。手をついた? ロックが解除されてドアが開く。
笑顔をつくらなくては。とりあえず笑顔よ。母親役なんだから。
あら、おかえり。今日は早かったのね?帰ってくるなり飛び出していってびっくりしたわ……どこに行ってた………!
なによ!とつぜん突き飛ばすなんて!あなた、どうかしてるんじゃないの!?
——ママ!あの子は!?どこに行ったの? あのこハルカでしょ!? あたしの妹!!!
あんた! ハルカになにをしたの!? ハルカに! あたしになにをしたの!?
——ハルカならとっくに回収係がラボに連れて帰ったわよ。いったいわねー……。ミルカ、きちんと話すわ……そこにおかけなさい……ミルカ?
——うるさい!あたしのハルカをどこやった!? 今すぐ連れて来い!?でないと……でないと………おまえ!さっさとハルカを連れてきてよ……お願いだから………でないと……あたし……あんたを……。
ああああ!
——ミルカ、落ち着きなさい、そんな口のきき方はゆるさないわよ……ミルカ!ああ! やめなさい! やめて!
非常ボ タンを押 したわ、セキュリティがとんでくる……処分されるわよ……あなたは所詮 生 きるし かば ね なのだか ら…………。