闇の竜と勇敢なる『花嫁』
花嫁衣装を纏うには、まだ若すぎる少女であった。
成人の歳は15とされている。少女はこの冬ようやく13になる。結い上げた亜麻色の髪も被せられた薄織りのベールも、素朴で身体に沿うようなラインで極力布を少なく、けれど布地自体は純白の絹で誂えたドレスも整った少女の容姿を引き立ててはいたが、まだ幼さ残る横顔に大人の女が嫁ぐための装いはかえって痛々しく見えた。
嫁ぐという名目ではあってもそれが死出の装束であるという事実が、尚更その姿を痛ましく見せている。少女に家族はない。両親は去年、魔物に襲われて死んだ。だからこそ彼女が選ばれた。花嫁という名の人柱に。
――太陽が闇に覆い隠されたならば、次の収穫の祭と共に清らかな乙女を捧げよ。それは闇の竜が『花嫁』を求めるが証ゆえに。
古くからの言い伝えの通り、百年に一度かあるいはもう少し近く、あるいは遠く、けれど確実に太陽が闇に覆われる時はやってきた。そしてその収穫の祭には、一人の乙女を着飾らせて霊山へと登らせた。
戻った娘は一人としていない。
花嫁という言葉はもはや比喩でしかなく、単なる食料であろうと誰もが『知っている』。少女の住む村は純朴な人々で満ちており、もう数年後に太陽が覆われていたならば彼女も誰かに、あるいは隣村かどこかに嫁いでいたことだろう。両親を失った少女とその弟妹に村人達は優しく、見返りもなく養ってくれた。けれど誰かを犠牲にしなければいけない時が来たとなれば、それに自分の子をとは望まぬのが親であろう。
片親すらいない娘は、彼女とその妹だけだった。半ば決定事項であった『花嫁』に自ら立候補したという形を取ったのは、少女の打算でもあった。弟妹はまだ幼い、己が犠牲になったという事実があれば、彼らはこの村で成人まで無事に養ってもらえるだろう。どうせ避けられぬならば、お互いに揉めることなく粛々と事を進めてしまった方が互いのために他ならない。
――それに。
少しだけ一人にしてほしい、と村の女達に頼んで、家を出てもらっている間に手にとったものを、少女は太腿に縛り付けた。ぴたりとしたドレスではあったがその辺りには流石に多少の余裕がある。少しの間それが布の上に浮かぬように歩き方を確かめ、よしというように頷くと、少女は自ら扉を開き準備は終わったと告げた。
霊山は中腹までは村の者が自由に入ることができるが、それより上は闇の竜の領であると言われている。男達が引く車に静かに少女は乗り込んだ。自由に行ける場所までは車に乗って引かれてゆき、そこからは『花嫁』が自ら歩を進める。頂上を目指せばいいと村の長老からは聞いていた。ドレスと同じ純白にの靴は、その歩みのために本来の花嫁衣装のような高い踵を持たずに作られている。
「お世話になりました……弟や妹を、よろしくお願いいたします」
村人達の顔に浮かぶのが、切なさや悲しさであることが嬉しかった。決して死を望まれて行くのではなく、惜しまれて死ぬのだと実感できる。
「くれぐれも、心を込めてお仕えするように」
「承りました」
――ゆえに、もはや二度と太陽が隠れることがないように。
己が最後の『花嫁』となるように。
それが叶うかはわからない。けれど少女は思うのだ。わざわざ若い乙女を指定して、喰らうために呼び寄せる者など……邪悪でしかないだろう、と。
そっと太腿を押さえた。父の形見がそこにはある。誰にも気付かれることなく。
再びしっかりと頭を下げてから、箱のように作られた車へと少女は乗り込み――堪えた嗚咽が聞こえる中で、少女はただ薄暗い車の中で前をじっと見据えていた。
車を降りた『花嫁』が山道の向こうに消えるのを見届けて、男達は山を降りていく。
からからと来たときよりもずっと軽い車輪の音を、山道を登りながら少女は聞いた。
鼓動が痛いほどに速い。汗ばんだ手を握り締め、普段は入ることを許されぬ山を一歩、また一歩と少女は進んでゆく。
どのように闇の竜が訪れるのか少女は知らない。村の誰もそれは知らない。闇の竜というのがどのような存在なのかすら、村人達はよく知らない。なぜならば、誰一人として戻ってこなかったのだから。
ただ、太陽を闇で覆うことで『花嫁』を求める合図とする。それだけが村の知る全てのようなものであった。だから歩を進める少女も、いついかなる存在が己を襲うのかも知らない。
ふっ、と少女のベールを急な風が巻き上げた。穏やかな天気に見合わぬ突然の強い風に歩を止める。
道を塞ぐように闇が現れたかのように見えた。
よく見れば獣のようにも見えるが、汚れ一つ見当たらぬ漆黒の毛並み。全体としては狼と似たような姿は、けれどその背に宿した翼以外にも明らかに異質な存在感を放ってそこにいた。いつの間にか、少女の目の前に舞い降りていた。
「お前が、花嫁か」
「はい」
目を軽く伏せながら少女は応え、両膝を地面についた。それは庶民が高貴なる人に忠誠を示すのと同じ仕草である。闇の竜に人と同じ礼儀が通じるのかは知らないが、少女にとってはその仕草が――都合がいい。
(思ったより、大きくは、ない)
人を喰うのだろう存在は、天衝くばかりに大きいのだろうと思っていた。
けれど闇の竜であろう存在は、少女の背丈の二倍ほどの高さしかないように見えた。無論獣としては規格外に大きいが、魔物であればそれより大柄なものも多い。
(ならば、やはりただの邪悪な魔物じゃないのか)
魔物には知恵ある存在もあるという。ならば楽に無力な餌を得るために、こういった手段を取る者もいるのかもしれない。
人の言葉も話せるのだから、知恵ある獣ではあるのだろう。
けれど。
けれど、この大きさならば。
(命を惜しまなければ――)
「こちらへ来るがいい――っ!」
そう闇の竜が言った時には、少女の身体はその目の前にあった。
絹地を惜しむことなく破って出した小剣の柄から抜き打ちざまの一撃が竜の鼻先を掠める。咄嗟に身を引かなければ鼻筋から目を正確に狙った一撃。
さらに深く踏み込み、全身の体重をかけた突きが心臓へと届く前に前足を叩きつける。少女が潰れない程度には手加減してあったが、吹き飛ばして動きを封じるつもりで。
けれど少女は地面に転がりつつも、すぐさま起き上がっていた。ドレスは左腿の横から裾まで大きく破け、頭を覆っていた薄布のベールを剥ぎ取って左手に持っている。荒削りではあるが、戦い方を知っている動きであった。
「――傭兵か?」
「違う」
やや低めの声がはっきりと竜に否定を返す。
「確かに私は村が選んだ『花嫁』だ」
互いにその距離のまま睨み合う。左手で広げるように持ったベールのせいで、少女の右手がどうなっているのか見えない。
「ただ、私は少しだけ、戦い方を知っていた。……偶然だ」
本当は、偶然ではないのかもしれない。彼女の両親は戦士であった。ゆえに街へと作物を売りに行く馬車に同行し、その帰りに遭遇した魔物から命を以って馬車を逃がしたのだ。馬車に積んでいたのは冬を越すために必要な物資であり、積荷が奪われていたならば二人どころではない住民が春を迎えられなかっただろう。
そして少女は両親から戦い方を教わっていた。両親を失ってからは稽古の続きを弟妹につけた。戦士の家は自分達だけではないから、少女は『花嫁』となることを厭わなかった。
戦士の家は子に戦い方を教える。そして戦士は戦えるからこそ、村人を庇って死ぬことも多い。村の周囲は強力な魔物のいない地であるが、危険な道を通って街に行かなければ村の生活は成り立たない。
とはいえ竜が知る限り、戦いを挑んできた『花嫁』は初めてだったはずだ。ならば偶然のうちと言えるのかもしれない。もしかしたら『己』が知らないだけかもしれないが。
「なぜ花嫁が私を殺そうとする?」
純粋に疑問でしかないそれに、律儀に答えが返ってくる。
「花嫁と言いながら喰らうつもりでしかない、若く弱い女を要求するような魔物は殺すべきだ」
殺意は向けられたままなのに、そのどこかアンバランスな様子にふっと竜は笑い出しそうになった。口角が吊り上がるのだけは己に許してもいいだろう、毛並みに埋もれて読み取れないだろうから、と笑い声だけは堪えた。
「どうして私をそのような魔物だと判断した?」
「誰も、帰ってこなかったと聞いている」
「嫁いだならば当然だろう」
「だが、なぜ竜が人間の花嫁を必要とする。それならば魔物が食料を求めていると考えた方が自然だろう」
「たった百年ほどに一度、か?」
少女の唇が動こうとして、閉ざされた。眉間に皺が寄る。ふとその瞳が鮮やかな緑であることに気がついた。若葉のような美しい緑だ。
しばしの沈黙が緊張感を保ったまま流れる。
「……ならばなぜ、百年に一度も花嫁を求める?」
考え込んでいた少女が、逆に竜へと疑問をぶつけてきた。その答えに一瞬竜は戸惑うも、すっと一つの推論に達した。
「もしや人間達は、『同じ竜が花嫁を何度も求めている』と思っていたのか?」
少女の動きが明らかに、さっきとはまた違う様子で止まった。
ぽかんと開いたままの唇には紅が乗っているのであろう、鮮やかだ。まだ人間としても幼いうちに入るだろう容姿とはなんだか不釣り合いだなと思うが、同時に似合っているとも思う。
「……え!?」
「やはりか」
長い戸惑いのあとにようやく絞り出した短い疑問符を帯びた叫びが、竜の問いへの肯定だった。
「全部、違う竜だったのか?」
「そうだ。我ら闇の竜は男しか生まれぬ。ゆえに人の花嫁を求める」
「……その、人の女から、闇の竜の男は生まれるのか?」
「その通り。我が母は先代の『花嫁』であり、私も番を持てる成竜となったゆえに花嫁を求めた」
「…………なら、本当に求めていたのは花嫁、だったのか……?」
「だから花嫁を求めている、と最初に我が祖先が伝えただろう。それと引き換えに、我ら闇の竜はこの村を魔物から守ると」
「ええ!?」
「ふむ……その部分も断絶していたのか」
判明した事実を受け止めるのに、だいぶ時間がかかったのだろう。少女は長く考え込んだ末に左手から布を離すと、太腿に縛り付けていた鞘を抜いてそこに剣を収め、自分の右側へと置いた。
「……誤解をして申し訳ありませんでした。あなたに攻撃をしたのは村の意志ではなく、あくまで私の独断です」
膝を付き頭を垂れる仕草は出会った直後と同じ、けれどその掌は空であることを示して上向きに膝の上へと置かれていた。
「つまりその咎はお前だけが負うと?」
「はい。……ただ、どうか村には本当に花嫁を迎えるのみであると、伝えてください。できるならば……それが失伝せぬよう、代々の闇の竜の方々が村へと伝え、そして花嫁を迎えに行ってほしいのです」
「村の伝承として伝えては、また形が変わるかもしれないからか」
「その通りです。事実、そうなったわけですから。……それに、あなたも花嫁を選ばねばならないでしょう」
「それでお前は、私を傷つけようとした罪を一人で被るというわけか」
「違います。……もともとそれは、私一人の罪です」
――そうしなければならないと少女を追い込んだのは、誰か。
失伝を起こした村か、伝えることを怠った代々の闇の竜か、結局は少女を犠牲にすることを選んだ村人達なのか。
闇の竜がその歩を進めると、少女は小さく身を震わせた。彼女を弾き飛ばす時はだいぶ気を使っていたが、本来その爪は魔物の厚い皮すら易々と引き裂くのだ。その爪をあえて見せつけるように前脚を上げれば、その手につられたように顔を上げた少女は覚悟を決めたように目を閉じた。
若葉の色が隠れてしまう。もったいないと思った。
竜にとって人間の美醜はさして気にする対象ではないが、この少女は美しいと思う。特に目の力が良い。まだ向けられたのはほとんどが戦意と戸惑いではあるが、その感情を映し真っ直ぐに見据える瞳は好ましい。
ひょい、と前足ですくい上げるように少女を持ち上げ、もう片足に座らせるように支えた。
「え、あ、ええ!?」
想像していたのとは全く違うであろう感触に、目を開けた少女が驚いた声を上げる。
ああ、また瞳が見えた。やはり、いい目をしている。
「ならば共に伝えに行こう。お前を花嫁に迎えるゆえ、心配はいらぬと。また私とお前の子が、花嫁を迎えに来るだろうと」
もともと、太陽を隠した年に乙女を送るようにというのは、単に闇の竜が成竜と認められるための儀式の一部が一時的に陽光を遮ってしまうからでしかないのだ。
別に花嫁を迎える竜が、直接村に赴いても問題はない。ちなみにこの山の中腹より上を立入禁止としているのも、山頂近くに住居を構えてその周囲を生活圏としているだけの話なのだ。
その辺りも全体的に失伝しているようなので、伝えに行くとしよう。この勇ましい花嫁と。
「結局私が花嫁なのですか!?」
「嫌なのか?」
「いえその、嫌とかではなく考えが追いつかないというか、今日会ったばかりだし」
「これまでの我らと花嫁も初対面で問題なく番になってきたが」
「そうですけど!」
「私はお前のような勇ましい花嫁は好ましい」
「あとドレス破いてしまいましたし、その……」
「問題ない」
「私にはある!」
「なら膝にこれでも掛けておけ」
口でベールを拾い上げてぽんと少女の上に落としてやる。慌てて少女が破れたドレスの隙間から覗く足元を隠すように膝にベールを掛けた。
「では行くぞ」
「っ、ぁ、ああうっ」
「嫌なのか」
「これから殺されてきますって出てきたのに顔を合わせづらいっ!」
「説明だけしてすぐに我が家に連れ帰るから我慢しろ」
「うあ、が、我慢するけど!」
片手で膝のベールを押さえて片手で真っ赤になった顔を覆う少女に、闇の竜は今度こそ笑い声を立てた。
「行くぞ」
「わかった覚悟した! 行ってくれ!」
そして大事そうに抱えたままの花嫁の赤く染まった横顔へと口づけを落とすと、その翼を羽ばたかせた。
その村からは百年ほどに一度、闇の竜へと乙女が嫁ぐ。
闇の竜と乙女は霊山の頂にて暮らし、竜は村を魔物から守る。
――正しき伝承と花嫁を求めて若き竜が訪れる慣習をもたらしたのが、勇敢な乙女であったことを知る者はやがていなくなるだろう。
きっかけがその乙女の剣であったことは、かの乙女――花嫁と、その夫である闇の竜だけの秘密である。