1話 テスト結果
テスト結果
「───ってことで、今日のHR終了!」
下校を知らせるチャイムと共に、担任教師の元気な声が教室に響く。
途端に、ガヤガヤと騒ぎ出すクラスメイト。その騒々しさに少し苛立ちを覚えていると、一人が駆け足でこちらに向かってくるのが見えた。
「ナツ、一緒に帰ろ〜」
こののんびりとした声の主はいつも、帰りのHRが終わったら、駆け足で私のところにやってきてくれる。
「そんなに急がなくても、私は逃げないわよ、ユナ。」
そう返したら、ユナは私の肩をぐらぐらと揺らして、言った。
「だって、あたしが来なかったら一人で帰っちゃったときがあったじゃん!」
「あのときはユナが友達と話してて、帰りが遅くなりそうだったから……」
するとユナは、真顔で言った。
「そうだっけ?覚えてないや。まぁ、どっちでもいいし。」
思わず、ガクッと崩れ落ちるところだった。いつもの、〝ユナ節〟が始まった。
瀬戸祐奈。彼女は私の親友とも言える存在だ。のんびりとした口調が特徴的で、クラスの人気者。適当で、マイペースな彼女は、言葉と表情にギャップがあり、周りを困惑させることも多々ある。因みに私も、その被害者だ。だがそんな彼女にはカリスマ性があると思う。マイペースに見えても、意外と周りのことをよく見ているし、周りにすぐとけ込めるタイプだ。だからこそ、クラスの中心にいられる。私も、彼女のそんなところに絆されたのかもしれない。
「そう言えばナツ、また一位だったよね〜。」
ユナのことを考えていたら、いつの間にか私たちは並んで廊下を歩いていた。いけないいけない、ボーっとしていた。
ユナが言っているのは、今回のテストのことだろう。
「さすが、神童は違うよね〜。」
「だから、その呼び方やめてって。」
運動靴に履き替えながら、ユナと言い合う。〝神童〟と呼ばれて動揺したことを隠そうと少しツンケンした言いようになってしまったが、バレていないだろうか。
靴紐が上手く結べない。
「だってー、一年生最初のテストから今までずーっと一位をキープし続け、スポーツ万能、美人サマサマ、井立夏月サマですぞ〜?」
「からかわないでよ」
井立夏月。それは、私のことだ。私たちは今、中学二年生。ちょうど先日、期末テストが終わったところだ。たしかに、一年生最初のテストから今まで一位をキープできたことは、誇りに思っている。それに、自分でも運動はできる方だと思う。だからといって、〝神童〟はさすがに言い過ぎだ。
だから私は、あまりこの言葉が好きではない。
靴紐がやっと結べたと思ったら、ユナを待たせていることに気がついた。そのことを詫びようとしていたら、気にしていないと言わんばかりに、ユナは私の腕を引っ張る。
「そういえばさ〜……」
ユナが話を変えて、友達の話をしてくれる。
私は、ユナが友達の話をするのが好きだ。私には全然関係ない人だし、そもそも話したことすらもないだろう。
でも、ユナが楽しそうに話すのは、とてもいい気分になるのだ。
「あ、もう分かれ道か〜。じゃあ、この話はまた今度ね!」
バイバイ、と手を振って歩き去って行くユナ。
私とユナは学校から家までとても近い。だからいつも歩いて登下校するのだが、その間のお喋りも、そのぶん短い。自転車通学だったら、もっと短いだろう。そう考えるだけでも、気が重い。
ああ、憂鬱だ。べつに独りが嫌だとか、寂しいなんて思っていない。ただ、そんな気分になるのは……。
「……ただいま。」
いつもの日常だからだ。
私以外には誰もいないこの家に、毎回挨拶をするのも日課。そして、リビングに行っていつものメモ用紙に目を通す。
〝遅くなる〟
それだけが、書かれていた。いつも、この憎らしいくらいの綺麗な字に腹がたつ。なぜかはわからない。だけど、とてつもなく、嫌いなのだ。
その紙をくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に捨てる。
なんだか今日は、機嫌が悪いな。これの理由は、私でもわかっていた。でも、言い訳みたいで嫌だから、わからないフリをする。
重い足を無理矢理働かせて、二階に向かう。階段にある大きな窓から見えるコンクリートだらけの景色は、今日も変わらず、灰色だ。そんなことを頭の端で考えていると、自分の部屋の前に着いた。
ああ、やっぱり今日はなんだか、ボーっとしているな。ちゃんと気を引き締めないと。
私は部屋の扉を開けた。椅子に腰掛けて、通学鞄の中から宿題を取り出す。そして、机の上にノートを広げ、宿題に取りかかった。
何分経っただろうか。辺りが薄暗くなったころ、宿題が終わった。ブーンブーンと近所迷惑なバイクのエンジン音がする。どこから聞こえてくるのだろうかと、立ち上がって窓の外を眺めていたら、ふとあることに気がついた。
「あ、今日走ってない。だから何か、物足りなかったのね。」
私は陸上部に所属していて、部活がない日は家の周りを走っているのだが、すっかり忘れてしまっていた。
「少し暗いけど、走っても問題ないわよね……。」
まだ聞こえるバイクのエンジン音に苛立ちを覚えながら、私はジャージに着替え始めた。
「よし、始めよう。」
準備運動が終わって、身体がほぐれたころ、さっそく私は走り始めていた。
頬で感じる強い風。体全体で風を切り、心地よい疾走感が私を包む。今まで死んでいた体が、蘇ったようだ。
そうだ、私は走らなきゃ意味がない。私にとっての生きる意味は、走ることなのだ。
ああ、生きている。
そう、心から感じる瞬間だ。全身の感覚をすべて使って、走るこの解放感。それを感じ取ったわたしは、自然と笑みを浮かべていた。
風になった。そんな感じだ。いつのまにか、バイクのエンジン音は聞こえなくなっていた。
「ふぅ。気持ちよかったー……。」
私はタオルで汗を拭きながら、リビングのソファーに腰を下ろす。
「今日は結構走ったな……。もう真っ暗だ。」
窓の外は真っ暗で、怖いくらい大きな月がくっきりと見える。なんだか、幻想的だ。
「あ、夕飯の支度しなくちゃ。」
今日は、カレーにしよう。……それで少しは、あの人の機嫌がよくなるといいけど。
はぁ、とため息をついて、キッチンに向かった。
「うん、いい感じね。」
カレーのいい匂いが漂ってきたので、私は火を消して、鍋の蓋を開ける。スプーンでカレールーを掬い、口まで運ぶ。
「熱い……っ!でも、美味しくできたわ。」
はふはふとカレールーを食べていたら、ガチャ、と玄関のドアが開いた音がした。
私は慌てて玄関に向かう。
そこには……、
「おかえりなさい。」
「……ああ。」
いつも通りのイケメン顔をかましてきたお父さんがいた。
お父さんの名前は、伸弥という。眼鏡をかけていて、その奥の切れ長の瞳は、女性の心を掴む。なにせお父さんは、すれ違っただけで二度…いや、三度見するくらいのイケメン───というより、美男子だ。しかも長身で、鬱陶しくない短髪。うん、やっぱり容姿だけはいい。……容姿だけは。
いつも通りのポーカーフェイス。無愛想な返事。いつもそれには呆れている。もう少し、愛想よく振舞っていればいいものを。
はぁ、とお父さんに気づかれないように、ため息をつく。そして、お父さんの鞄を受け取って階段を上がる。
「…………。」
その間、お父さんはなぜか私をじっと見つめていた。
お父さんの部屋の前に鞄を立てかけた後、すぐに私は階段を下りた。
リビングに戻ると、ネクタイを緩め、ソファーにドカッと腰掛けたお父さんが見えた。
私が何も言わずキッチンに向かうと、お父さんがこちらを一瞥した。
「……なに?」
さっきからジロジロとこちらを見てくるので、首を傾げたらお父さんは下を向く。
「……今日、部活なかったんだな。」
「え?」
なぜ分かったのだろう。そう思ったけれど、もう何も言うことはない、という顔でふいっと横を向いてしまった。
お皿に盛り付けたカレーを、リビングのハイテーブルに置いて、私はお父さんが座っている反対側の椅子に腰掛ける。
「「いただきます」」
私とお父さんの声が重なって、食事が始まる。
「ご馳走さま」
無言で続いていた食事を先に終わらせたのは、お父さんだった。そして、思い出したかのように私を見る。
「……テスト。」
「え?」
「前の期末テストの結果、返ってきたのだろう。」
ほんとうにお父さんは、最低限度のことしか言わない。それで私が理解できないと、考えたことはないのだろうか?まぁ、聞き返したら、ちゃんと答えてくれるのだけれど。二度手間だろうと、いつも私は思う。
いや、今はそういう問題ではない。要するに、〝テストの結果を持ってこい〟と言っているのだろう。最悪だ。なぜ普段は私の学校のことなど聞こうともしないのに、今日はテスト返しの日だと知っているのか。
とりあえず、私はテスト結果の紙を自分の部屋から持ってくることにした。
部屋から紙を持ってきて、少し震えた手で、紙をお父さんに差し出す。するとお父さんは、テストの結果を音読した。
「国語百点、数学九十七点、社会九十二点、理科百点、英語九十九点、音楽百点、保健体育九十五点、技術家庭八十八点。合計七百七十一点。学年一位……」
そこまで読んで、ため息をつきながらお父さんは私にテスト結果を返した。
「順位はまったく問題ない。だが、技術家庭だけ九十点以上ではないだろう。もう少し頑張りなさい。」
頑張ったよ。私なりにちゃんと勉強したよ。そう言い返したかった。でも、私が言えるのは、〝これからのこと〟だけなんだ。
「次は努力します。」
「気をぬくと、すぐ一位の座を奪われるぞ。それだけは頭に入れておけ。」
「……はい。」
私は急いで食器をリビングに運んで、水に浸し、逃げるように二階へ向かった。
お父さんは、〝今まで〟なんて見てくれない。〝これから〟頑張らないと、意味がないのだ。それに、お父さんは褒めてくれない。欠点ばかり指摘してくる。もう、嫌だ。でも、仕方がないのかもしれない。だって、昔のお父さんは私よりなんでもできたらしい。完璧なお父さんに比べて、私は……。
お父さんへの憎しみよりも、今は自己嫌悪の方が強い気がした。そんなとき、空耳かもしれないけど、聞こえた。
「でも、よくやったな。夏月。」
*****
「ほんとうに俺は、最悪な父親だ。」
夏月と別れたあと、ぼやく様に伸弥は皿洗いをしながら言った。伸弥は、ひどい自己嫌悪に陥ると、独り言が多くなる。ため息をつきながら、伸弥は続ける。
「きっと、夏月は俺の言葉に傷ついているだろう。……はぁ、なぜあんなことを言ってしまったのか…………。」
そんなの、本人しかわからないよ。自分のことでしょ?自己嫌悪に陥るまえに、言わなきゃよかったのに。最近は一言多いんだよ、伸弥は。前は逆に言葉が足りないくらいだったのになぁ。よくやったな、だけでいいんだよ。
まぁ、私の声なんて聞こえてないだろうけど。
すると伸弥は、皿洗いが終わったのか、キッチンに立てかけてある写真を見ながらぼやく。
「お前だったら、どうするんだろうな、さつき。」
……さて、あのころの井立沙月ならどう答えただろうねぇ?まぁ、私の声なんて聞こえてないだろうけどさ、私が特別に助言を与えてあげるよ。
過去に悔やんでも、もう遅いんだ。だから、前だけ見てて。そうしたらきっと、道は開ける。だって、過去だけ見てたら、また守れないんだよ?だから、頑張ってね、伸弥。
*****
「んで、明日は授業参観だから、心の準備しとけよー。あ、ちなみに……俺のスーツ姿が見れるぞ?」
ドヤ顔で宣言した先生に向かって、チャラそうな男子が言う。
「はーい。先生のスーツ姿なんて、どうでもいいと思いまーす。」
「うるせー。そこは空気よんで、『先生のスーツ姿見れるなんて、楽しみ!』って言うんだよ。」
ドッと笑いがおこるなか、私は窓から澄んだ青空を眺めていた。
授業参観なんて、私には関係ない。
……お父さんは来ないから。
はぁ、とため息をついて、長い長いHRが終わるのを待った。
「じゃあ、今日のHR終了!早く帰れよー。」
先生の号令で、みんなは散らばる。ふぅ、と息を吐くとユナがこちらに駆け込んでくるのがわかった。
「ナツー、一緒に帰ろ〜。」
「ごめん、ユナ。今日、部活あるから……。」
「そっかー、残念。」
またねー、と手を振って去っていくユナ。私も手を振りながら、ユナが見えなくなるまで笑顔でいた。
ユナが見えなくなったとき、私は手を下ろして俯く。
「……着替えよう。」
私は袋から、ジャージを取り出した。熱がこもった制服を脱ぐと、少しの解放感が生まれる。アブラゼミの鳴き声が、まるで世界の中心かのように、あらゆるところで木霊している。
「……五月蝿い」
毒のような言葉が、ついに私の口から出てしまった。
「じゃあ、今日はおしまい!おつかれー。」
顧問の城野先生が、団扇を扇ぎながら部活終了の合図をだす。
「「お疲れ様でしたー‼︎」」
数の少ない部員の声が一つとなって、運動場に響き渡る。それを境に、みんなは散らばっていく。
一方で私は、城野先生に呼び出されていた。
城野先生は私を見るなり、こちらを睨みつける。
そのとき、私は悟った。ああ、〝いつもの〟がくる。
「あのさぁ、アンタ自分が一番速いとでも思ってるの?」
腕を組んで私を見上げる先生。また理不尽な文句が始まった。
まぁ、私より身長が低いからあまり迫力はないのだけれど。
「しかも、今日全然走れてないし。やる気ないならさっさと辞めてよ」
長い茶髪の髪をくるくると指に絡めながら、先生は上目遣いで睨む。
この人は、私を嫌っている。理由は分からない。何かした覚えがないし。話したことも、特になかったはずだ。だけれど、ある日突然、私への態度が変わったのだ。そして、いつものように『辞めてくれ』と言っている。訳がわからない。
「走ることは好きなので、辞める気はありません。それに、大会に出場することは、もう決まっていることですし。私は、すぐ辞めるような適当な者ではありません。では。」
そう言って、私は踵を返す。後ろを振り返らなくても、城野先生がこちらを睨みつけているのは分かった。殺気にすら感じる恨みは、ほんとうにどこから来ているのか。やはり、私には分からなかった。
「……ただいま。」
静かで寂しい帰路をたどって、私はいつものように誰もいない家に挨拶をする。…………はずだった。
「おかえり。」
誰もいないはずなのに。私は思わず顔を上げた。ちょうどそこには、リビングのドアノブに手をかけたお父さんの姿があった。
私がポカン、としているとお父さんが口を開く。
「昨日言う機会を逃したが、今日は仕事がないんだ。」
お父さんは、弁護士である。だからいつも帰りが遅いし、そもそも帰ってこないときもある。それに、弁護士のなかでも優秀だと聞くし、テレビにも何度か出たことがある。たぶん、今回の案件に片がついたのだろう。次の仕事が入るまで、お父さんは休みがとれる。まぁ、その休みも一日くらいなのだけれど。
「そうなんだ。」
とりあえずそれだけ返すと、私は階段へ向かう。お父さんと一緒にいると、気分を悪くしそうだ。……私は、お父さんがあまり好きではないから。
そう思ったときだった。
お父さんは私の腕を優しく掴んだ。私はお父さんの方に振り返る。
「……今日はリビングで、宿題をしろ。」
「え?」
言葉の意図がわからず、私は首を傾げる。
「今日は俺の目がとどく範囲で、宿題をしろと言っているのだ。」
「あ、いや、そうではなくて。なんで今日に限ってと思ったのだけれど……。」
そこまで言って、私はお父さんの意図がわかった気がした。もしかして、技術家庭の点数が低かったから、監視することにしたのでは……⁉︎ああ、地獄のような日々が始まってしまう……!
「なんで、か……。それは、お前を……」
そこでなぜか、お父さんの言葉は途切れてしまった。その直後、お父さんは首の後ろ周辺を手で覆う。
「『お前を』?」
続きが聞きたかったのでお父さんを促すと……。
「お前、を……をっ!」
なぜか『を』を連呼している。いつもクールなお父さんが必死に呪文のように『を』を連呼しているので、私は可笑しくてたまらない。お父さんが首の後ろ周辺を手で覆うときは恥ずかしがっている証拠なのだ。お父さんはポーカーフェイスなので顔には出ないが、行動で何を思っているのかすぐ分かる。
私は声を上げて笑うのを我慢する。だけど、肩の震えが止まらない。
そんな私を見て、お父さんはハッと我にかえったような顔をして私の腕を解放し、右手の甲で顔を隠して斜め下を向く。
このポーズはさっきより更に恥ずかしがっているときに使うものだ。お父さんはゴホン、と一つ咳払いをする。
「と、とにかく……!今日は、リビングで宿題をしなさい。」
私を促すように、お父さんがリビングのドアを開けた。
「はいっ。」
いつもと同じ返事だけど、今日は少し元気な声が出た。
なんでだろう。少しだけ、お父さんの可愛い一面が見れた気がした。
*****
俺は、夏月が二階へ上がっていったのを確認してからふぅ、と息を吐いてソファーに腰掛けた。
今日で俺と夏月の距離は、グンっと縮んだ気がする。主に俺のせいで、いつもはドギマギしていたからな。
このまま上手くいけばいいのだが…………ん?
俺は、テーブルの上に置いてあるそれを手に取った。
これは……夏月のファイルか?それはウサギのイラストが複数刻まれた淡い水色のものだった。夏月はこのようなデザインが好きなのか……とぼんやり考えていると、ファイルから一枚のプリントが落ちた。
「これは……。」
俺はそれを見るなり、携帯電話を取り出す。明日、俺に回ってくるであろう案件を、他の者に任せてくれないかと伝えるために。
俺の手にあるプリントは……明日の授業参観のものだ。