7話 父との衝突
父との衝突
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「……ただいま。」
先生とユナと別れて、私は帰宅した。あの事件があった次の日に家で一人でいるのに少し抵抗を覚えるが、その気持ちをぐっと抑えて階段を上った。窓の外からは、浮かれた気持ちに反して、曇り空が一面に広がっていた。それから目を離すと、私の部屋の隣にあるお父さんの部屋の扉が少し開いていることに気がついた。
私はそれが気になり扉を閉めようとしたのだが、お父さんの部屋の中を見ることに少し好奇心が湧いた。おそらく一度も入ったことがないだろうこの部屋はどのような感じなのか。まぁ恐らく綺麗ではあるのだろうが、無性に見てみたくなったのだ。
大丈夫、きっとバレない……そう思ってギイっ、と少し軋んだ音を立てながらドアを開けると────
「そこで何をしている。」
「うわあぁぁ!」
ドアを開けきる前にお父さんが背後に現われ、扉に手を付きパタンっと閉められた。惜しくもお父さんの部屋の中は見れなかったのだ。
「そんなに驚かなくても。家に着いたときに呼び掛けはしたぞ。だけどお前の返しがないと思って二階に上がったらこの様子だ。……それで、俺の質問に答えろ。何をしていた。」
文面と表情だけ見れば怒っているように見えるが、これはお父さんの特徴だ。いつも無表情で固い言葉しか知らないお父さんは普段からなんでも怒っているように思えるが、本当はそうではない。だいたい、本当に怒っていることはそうそうない。私自身、怒られたことなど一度もないからだ。分かりにくくて、近付きにくい。私が優等生を演じるために手本にした人であり、そして私が一番嫌っていた人。
なんでも出来て、無愛想で、ポーカーフェイスで、お母さんを一番愛してて───すぐ、壊れちゃう人。だから嫌いだった。でも尊敬してた。矛盾した気持ちがどんどん高まっていたからそれが嫌になって、私は嫌いの気持ちを強くした。だから、お父さんと一線を引いていた。ずっとそのままでいいと思っていた。だけど先生と出逢って、お父さんの一面を知って、すごく嬉しくて。だから、もう一度尊敬できた。好きになれた。きっとそれはお父さんも同じ───
そう思って私は今までのことを詫びようとした───
「───いや、これよりも知りたいことがある。なぜ学校に行った。」
なぜかこのときのお父さんはいつもより険しい表情をして見えた。えっ、と声を出したときにお父さんは私の腕を乱暴に掴む。
「もう家の外に出るな。学校にも行くな。」
「い、言ってる意味がわからない。ど、どうしたの?私は平気よ?」
するとお父さんは、そのまま私の腕を引っ張り私の部屋に連れていく。部屋のベッドに私を放り出したかと思ったらそのままお父さんは私に跨り、手首を押さえつける。この体勢はまずいです。ピンチです。私たち親子ですよ?え?
「何かあったら遅いんだ。もうこの家から出るな。異論は認めない。お前は俺の言うことをきいていればいい。」
「ちょっ……、離してよお父さん!なんでこんなことするの!?嫌だよ、痛いよお父さん!」
「黙っていろ。おまえが抵抗しないのならばこんなことする必要はない。お願いだから大人しくしていろ。」
さらにお父さんは私の手首を掴む力を強める。いくら運動が苦手なお父さんでも、護身術は得意だし、そもそも男性だ。私が力で勝てるはずがない。
「なんで学校に行っちゃダメなの?なんで外に出ちゃダメなの?なんで私はお父さんに支配されなきゃいけないの?なんで?私はお父さんも自分と同じ気持ちだと思ってたのに……。もう一度ちゃんと仲良くなれると思ったのに……。私だけだったの?ねぇ、私のこと嫌いなの?」
「おまえ、何を言って───」
「お父さんなんか大っ嫌い!![#「!!」は縦中横]どうせすぐ壊れちゃうんだ!お母さんがいないとおかしくなるんだ!私が頑張って代わりになろうと思ったのに……。お母さんがすべてなら、私を束縛しないでよ!![#「!!」は縦中横]」
お父さんの言葉を遮り、私は声を荒らげながら泣いた。怖かった。そしてお父さんが憎かった。いろんな感情が体を支配して私は思い切りお父さんの股間めがけて蹴りを入れる。
それに悶えたお父さんはベッドから転倒。その隙を見て私はとにかく走った。
「夏月!」
お父さんが私の名を呼ぶ。だけど私は足を止めなかった。私の瞳から溢れ出る涙も止まらなかった。私は涙を運ぶ風になる。
今はただ、お父さんから離れたかった。
「あれ?なっちゃん?どうしたの、こんなところで走って。」
自分の体力の限界も忘れ、ひたすら走っていたら聞き覚えのある声がした。
「優弥さん……。」
走っていた足を止め、振り向く。そうしたら、優弥さんが数メートル先から涙でぐしゃぐしゃになったであろう私の顔をまじまじと見ながら近づいてくる。
「……シンと何かあったの?」
図星すぎて硬直する私に、優弥さんは優しく微笑む。
「そっか。やっぱり何かあったんだね。じゃあ、僕ん家くる?もう暗いし、夕飯も一緒に食べよっか。」
私は素直にこくん、と頷いた。
「お待たせ。さ、ご飯にしよう。」
色とりどりのロールパンを乗せた皿と卵のスープが入ったカップがテーブルの上に置かれる。私は不規則に揺れるスープの湯気を目で追っていた。
今私は、優弥さんの家にお邪魔している。ちょうど、夕飯の支度ができたところだ。
「このパンはなんですか?」
私が色とりどりのパンを指差すと、優弥さんは説明してくれる。
「これは色とりどりのフレッシュロールパン。赤色がトマト味。黄色がトウモロコシ味。緑がホウレンソウの味がするパンだよ。」
「へぇ……。」
私はそのパンへと手を伸ばし、少しちぎって口の中に入れた。すると、口いっぱいに野菜の味が広がりモチモチとした生地が心地よく感じる。
「美味しいですね。」
「うふふ、ありがとう。なっちゃんは本当に美味しそうに食べてくれるね。シンだといつも無表情だから、本当に美味しいのかわかんなくなっちゃうんだよねー。」
口元に手を添えて笑う優弥さん。この人は見た目に反して品がいい。食べ方も綺麗だし。なんで金髪にしちゃったんだろうなあ……。
そんなことを考えながらパンを頬張っていると優弥さんは切り出す。
「食べながらでいいからさ……。シンと何があったか、教えて?」
私はごくん、とパンを飲み込む。そうだ。本題はそれだ。
「実は───」
「なるほど、ね。」
説明し終わったときには夕食を平らげていて、優弥さんはそれを片付けようと席を立つ。そしてクスクスと笑っていた。私はそれを怪訝な面持ちで見る。
「ああ、ごめんごめん。なっちゃんは本気で怖かったんだよね。でも安心して。シンが誤解を与えるような行動をしてしまっただけで、なっちゃんが想像しているような怖いことは何もないから。」
あくまでにこやかに優弥さんは言った。
「あのね、なっちゃん。本当にシンが好きなのなら、分かっているはずだよ。シンは、君が思っているようなことをする人間じゃないって。」
「それは……そうだけど───」
「シンが君を閉じ込めようとしたのはあってるかもね。そういう子だから。」
「え」
サーッと血の気が引いた。私はみるみる青ざめる。じゃあ、私が思った怖いことはしようとしてないけど、監禁しようとは思ったと。いやいや、怖いです。十分怖いです。
「……シンはね、ちょっと行き過ぎちゃうんだよ。愛が深い故にとんでもないことをするんだ。……歪んだ、僕の教えだけどね。」
苦笑混じりに優弥さんは語っていく。
「あの子は加減ってものがわからないんだよ。表情を変えることができない。でも感情の起伏は常人より激しい。愛が深い故に憎悪にまみれた恨みも深い。……例えるならば君のお母さんが愛を示し、早乙女貴仁が恨みを示す。沙月ちゃんを愛しすぎた故に、殺されたときの殺人鬼への恨みは尋常じゃなかった。───それは、他のものが何も見えていないくらいね。」
分かるだろう?、と言うように優弥さんは私を見やる。私は当時のことを思い出した俯いた。
お母さんが死んだ後、お父さんは狂っていた。自分も腕に怪我を負っているのに病院からしょっちゅう抜け出そうとするし、ブツブツとなんか言ってるし、寒気がするくらい────おぞましい笑顔だった。ずっと、狂ったように笑ってた。かと思ったらいきなり怒鳴り出したりもした。もういないお母さんの話もし出すし。
それは退院したあとも続いて、もしかしたら私にも危険が及ぶかもしれない、ということで一時期私は優弥さんの家に預けられた。だが優弥さんもお父さんに付きっきりでほとんど私が一人で優弥さんの家に住んでいたのと変わりはない。
それからだいぶ落ち着いたときに私はやっとお父さんに再会した。もちろん、もう正常にはなっていた。だけど────
もう、あの頃の楽しい生活は戻ってこなかった。
「今回も同じだよ、なっちゃん。シンはなっちゃんを愛している故に、彩星さんに深い憎しみを抱いているんだ。そりゃあシンもだいぶ大人になったからもう刑務所に突っ込んでいくことはしないだろうけど、もうこんなことが起きないように、自分のすぐ側になっちゃんをおくつもりなんだ。まぁつまり監禁するってことだから十分まだ危なっかしいけど。まぁそこらへんは僕もカバーする必要があるし、ちゃんと後で叱っておくからね。」
食器を洗いながら優弥さんは微笑んだ。
月の明かりもない薄暗い窓の外からザザーっと雨が激しく降る音が聞こえて、私は窓に駆け寄る。
「降ってきちゃったねぇ。今年も雨かぁ。」
優弥さんは食器を乾燥機の中に入れながら残念そうに言った。私はそうですね、と返して窓に手をつける。ぽたぽたと窓の外側のガラスに水滴が付く。私は見ているだけで涼しくなるその光景をただただ見つめていた。
「あっ、そうだ。なっちゃん、シンの話、聞きたい?」
「あー……。興味はありますね。何かあるんですか?」
「いや……。話振った僕が言うことじゃないんだけど、実は暗い話しかないんだよねー……。」
ため息混じりに優弥さんは言った。私が振り向くと、優弥さんは苦笑するように微笑む。
「ほら、前にも話したことがあるでしょ?シンと僕にまつわる目《、》の話。」
「ええ。」
彩星さんの事件があった帰路で話していた『色』のこともこの話と関係がある。これの正体は共感覚という一部の人間にしか宿らない感覚のことだ。
例えば、音に色が見えたり食べ物に触れただけで味がわかったり……など、常人が感じる感覚と共鳴して、別の感覚も感じることを指すのだ。これは遺伝とはまったく関係のないことらしいのだが、偶然優弥さんもお父さんも共感覚なのだ。
優弥さんは生活に支障がないような軽いものらしく、人に言われるまで自分が他者と違うことに気が付かなかったという。まぁ一番近くにいたお父さんも共感覚なので、違和感はなかったのだろうが……。
反してお父さんは、生活に支障をきたすくらい莫大なものらしい。共感覚では人の感情を表す色が視えるらしいのだが、負の感情を見るとお父さんは体調を崩してしまう。
これはどういうことかと言うと、ふつう、共感覚保持者でも一つの感覚には一つの感覚しか共鳴しない。たとえば、音が聴こえるという聴覚に色が見えるという視覚が共鳴する……というものだ。だがお父さんの場合、視覚だけではなく触覚や嗅覚も共鳴するのだ。
つまり共鳴する感覚が多いほど、生活に大きな支障が出やすい。だからお父さんは高校時代はとても大変だったらしい。高校生なんて、特に人間関係などが難しくなる時期だ。そこで視てきたものは尋常ではないらしく、しょっちゅう吐き気がして保健室に通うことが多かったそうだ。
「まぁそういうことがあって当時のシンの目は完全に曇ってたな……。しかも、リセット《、、、、》があった頃もそこらへんだしね。」
私はその言葉に、首を傾げる。
「ああ、そっか。なっちゃんは知らないのか。じゃあ教えてあげよう。」
ふふん、となぜか得意げに腕を組む優弥さん。なんだろう。なんかムカつく。
「シンに記憶の障害があるのは知っているだろう?」
その問いに、私は頷いた。
お父さんは超記憶症候群という障害者だ。超記憶症候群とは、すべてのことを記憶してしまい、忘れることができないことを指す。お父さんは、一度見たり聞いたりしたことを忘れられないのだ。これは共感覚が強いお父さんには迷惑な話で、誰かのことを思い出すとその時に感じたその人のオーラごと思い出してしまうので、それが負の感情であると気分を害してしまう。
「それでね…………。不思議だと思わないかい?人には脳の容量というものがある。普通の人は遠い昔のことは忘れ去り、記憶から完全に消える。だからまた新しい記憶ができるんだ。……僕の言いたいこと、わかる?」
「じゃあお父さんみたいな超記憶症候群の人は、記憶が消されることはないから、必ず脳の容量に限界が来るってことですか……?」
「そういうこと。」
優弥さんは、自分のこめかみ辺りを人差し指で指しながら言う。
「つまり、さっき言ったリセットは……脳の容量が満タンになって爆発する前に、すべての記憶を人工的に消すことを指す。だからシンは一度、すべてのことを忘れているんだよ。」
少し悲しそうに優弥さんは視線を落とす。
「で、でもそんな……全部忘れちゃうなんて、どうやって生活していったんですか?」
「まぁ今の医療は発達してるからね。ある程度の常識と自分が何者なのかくらいは覚えていたよ。……もちろん、僕や家族のことなんて覚えてなかったけどね。」
ふぅ、と息を吐いた優弥さんは肩を落とす。
「リセットが沙月ちゃんが死んだ後なら良かったのに……。そうしたら、もっと色々と楽になったかもしれない……。こんなこと言うのは、不謹慎にも程があるけど。」
優弥さんは大きくため息をついて、何もないところを見つめいていた。そのとき、私は昔のことを思い出していた。
あの日……お母さんが死んだ日、私たちは星見丘という丘に向かっている最中だった。……星見丘に行こうと誘ったのは、私だった。そのとき、酒に酔った早乙女貴仁が車で突っ込んできて……お母さんは、そしてお母さんのお腹の中にいた私の弟は死んでしまった。
お母さんは、私を庇い……そして、お父さんは私たち二人を庇おうとした───でも、間に合わなかった。そしてお母さんは死んで、お父さんは吹き飛ばされたときに右腕を負傷した。
───私だけが、無傷だった。あの日からおかしくなったのは、お父さんだけではないのだ。自分がいなかったら、お母さんは私を庇うことなく死ななかったかもしれない。それを庇おうとしたお父さんも無傷で済んだかもしれないのに。私がいなければ───
そんな考えが、ぐるぐると頭を回っていた。でも、葬式の日にあの場にいなかった貴義先生が、なぜか自分より悲しんでて、自分より死にたがってて、そこで少し冷静になれた。そして『この人に明日を届けたい』と純粋に思ったのだった。
───ピンポーン
不意に呼び鈴が鳴ってハッと現実に引き戻される。すると優弥さんはニヤニヤしだして「やっと来た」などとブツブツ言いながら席を立った。数歩歩いたところで、こちらを振り返る。
「なっちゃん、おいで。」
私を手招きして、優弥さんはまた歩き出した。それに私もついていく。
優弥さんが玄関扉を開こうとする前に、呼び鈴が再度鳴らされた。どうやら相手は早く応答してほしいらしい。すると優弥さんは「わかったわかった。ちょっと待っててよ」と急かす相手を大声で宥めた。扉を開けるとそこには───
「ちょっと遅かったねぇ。」
そこには、雨でびしょ濡れになって息を切らした───お父さんの姿があった。
ニヤニヤしている優弥さんと裏腹に、若干キレ気味のお父さんはぶっきらぼうに言った。
「……夏月がいるなら、………連絡しろ。」
はぁ、と疲れたようにため息をこぼすお父さんに訳が分からなくて、優弥さんを見た。ん?と小首を傾げた優弥さんは私が混乱していることに気がついたようで、ふふっと少し笑った。
「シンはね、なっちゃんを探してたんだよ。こんな夜にしかも雨の降っている中……ね。」
その言葉をきいた私はお父さんを見た。いつも整っている髪型も、皺一つないスーツも乱れている。こんなのになるまで私をたった一人で探してくれたの……?
お父さんは私を見つめ返して、少しため息をついたあと、手を差し伸べる。
「迎えに来た。帰ろう、夏月。」
私はお父さんの手をとり、隣に立った。
「まぁお叱りはまた今度として……。傘、持ってく?」
「ああ、借りる。」
優弥さんはお父さんにはい、と傘を手渡した。お父さんはその傘を広げ、私の手をぎゅっと握る。
「行くぞ。」
そう言い放ち、足を進めようとしたお父さんに───
「あ、ちょっと待って。」
と優弥さんが引き止める。まだ何か、と怪訝な面持ちになるお父さんに、優弥さんは苦笑しながらポケットから何かを取り出す。
「はい、これ。」
そしてそれを私に差し出した。私は急いで受け取った。それは、小さな紙袋だった。私は優弥さんを見ながら首を傾げる。
「中身は見るまでのお楽しみね。」
そう言って楽しそうに笑う優弥さんを一瞥したお父さんは私の手を再度握り、そそくさと歩き出した。
「Happy BirthDay、なっちゃん。」
後ろから聞こえた祝福の言葉に、私は少し微笑んだ。
私たちは家に着いてリビングに入り、向かい合ってソファに座った。その途端、気まずい沈黙が生まれた。その空気にどうしても耐えきれず、私は視線を泳がす。
「すまない。誤解を与えるような行動をしてしまって……。」
先に口を開いたのは、お父さんだった。私はその言葉に首を横に振る。
「お父さんは悪くないよ。私が早とちりして勝手に怯えてただけ。お父さんは、いつも私のことを考えてくれてたのに───」
「……いや、俺は結局自分のことしか考えてなかったんだよ。だから誤解を与えてしまった。……俺はもう夏月に怖い思いをさせたくなくて、外に出ないよう強制しようとした。それは確かに身の安全にはなるかもしれない。でも、過保護すぎた。お前の自由も、考えてなくて……。本当に、すまない。」
お父さんは座ったまま頭を下げた。その様子に私が戸惑っていると───
「今までの言動も、詫びる。俺は不器用だから上手く言葉にできなかったんだ。だからお前を傷つけてしまったこともあると思う。───本当にすまない。こんな父親で。」
さっきよりも深く頭を下げるお父さんに、私はちょっと泣きそうになった。
「顔を上げてよ、お父さん。」
私の少し震えた声に気づいたのか、お父さんは顔を上げる。
「人間、誰だって不器用だよ。私だってそう。全然上手くいかないの。いつも、失敗ばっかりで試行錯誤してる。でも、お父さんは必死に伝えようとしてくれた。それだけで十分だよ。」
言葉になるように努めた。もう景色がぼやけて見える。そんな中でも、お父さんが立ち上がって私の隣に立ったことがわかった。
「な、なに……?」
「……じゃあ、これからは本当のことを言う。今から言うことも本心だ。きいてくれ。」
「う、うん……?」
なぜか疑問系の返しになってしまった。そんなとき、お父さんは私の手を優しく引いて───
「……お父、さん……?」
ふわりと私を優しく抱きしめた。珈琲の苦い香りと、薄れた甘い香水の匂いが私の鼻をかすめた。大人の、匂いだ。
「……お前が家を飛び出して、事故や事件に巻き込まれるんじゃないかと思ったら怖かった……。また、置いていかれるのかって。また、大事な人を失うのかって思ったら……っ」
お父さんの大きな大きな体は、小刻みに震えていた。
───泣いて、いるんだ。私のために。
「……ごめんなさい、お父さん。いつも心配かけて……、ごめんなさい……っ!」
いつの間にか、私の瞳からは水滴が頬を伝って流れてくる。それはお父さんの胸あたりに付いてぐちゃぐちゃになっている。
二人で抱き合って、深い深い愛情を他の誰でもないお互いのために、ずっとずっと泣いていた。もう、雨の音は聞こえなくなっていた。
しばらくして、泣き疲れた私たちはソファでぐったりとしていた。
「……なぁ、夏月。」
「なぁに?」
二人で顔を見合わせる。
「お前は家を飛び出す前に『私がお母さんの代わりになろうとした』って言ってただろう?」
「うん。」
「あれは間違いだ。残念ながらさつきという人物は一人しかいないし、代わりなんて誰でもなれない。逆に言えば、おまえの代わりになんて誰もなれないんだよ、夏月。おまえは俺の、かけがえのない一人の娘だ。だからそれ以外になろうとするな。俺は、娘であるおまえがいい。」
優しく微笑むお父さんに、私もつられて笑顔になる。
「さて、行くか。」
言葉で表さなくても分かる。今から私たちが行く場所。すべての、始まりの場所。
───私たちの、星見丘へ。




