26_テセウスの船に君をのせて
遠くから見ていた大きな吊り橋は“認識を拒んでいる”ようにさえ思われた。例えば電車から遠くの建物と近くを眺めていると、その動きの違いがぼんやりと距離感やスケールを裏付けてくれる。けれどその橋は一体どれだけ遠いところにあるのか、どれだけ大きいのか、それがはっきりと分からなかった。これはナツも同じ。ジュースケとミッシェルが改造してくれたセントナツ号に乗って、“そこにあるはずだ、向かっているはずだ”と信じながら私たちは進んだ。キサキさんたちの“戦場”を離れ、矢印標識を越えて、その“実体”を捉えるまで。
「――あった」
右ハンドルの指先を緩め、ブレーキレバーを握り直す。『キィ』と音を立てて地に足が付く。ナツも一度荷台から降りた。
「もしかしたら辿り着けないんじゃないかって、ちょっと考えちゃった」
「ハルカがそう考えると本当になりそうだからやめて……」
「そんなこと……うん、考えないようにする」
橋の袂に立って、改めてそのスケールに圧倒される。こんなに大きな橋は知らないというか、少なくとも私の生きていたはずの時代には“存在しなかった”のではないか。道路6車線くらいが想像できる精一杯の幅だとして、それよりも明らかに幅が広い。二対の柱を菱形をいくつも作るように結んだ真っ白な塔はあの砂時計塔よりも更に高くて大きい。近くから見上げたら後ろにひっくり返ってしまいそうなほどに。大木なんて目ではない極太な鉛色のワイヤーを左右に、橋全体の重さも微動だにせず支えている。それが何本も、どこまでも――
「……ハルカには見える?」
「ううん、見えない」
そう、どこまでも。私たちには“橋の向こう側”が見えないのだ。全く同じ形の主塔たちは合わせ鏡のようにずっとずっと先まで続いていて、ピントの合う限界距離でもそれは同じ。ヴェールが一枚剥がれたと思った橋はまだ神秘を携えている。
「でも私たちには『セントナツ号マークII』がある!」
「そう……だね」
まーくつー。ナツが改造を経た特製の荷台に乗り込む。その通り神秘は私たちにもある。電動自転車もびっくりなエンジンにはミッシェルの部品が使われているらしく、ハンドル右手の裏側に付いた横長ボタンを握っていればペダルを漕がなくてもぐんぐん進んでくれる。強く握ればアクセルさながらだ。ここでは空は飛べないけれど、前カゴには何か詰められる余裕が残っているしライトもスタンドも付いたままだし。ナツが座っている荷台にもそれ以外にも色々と手が入っているようで、例えば――
――それは電子水平器と呼びましょうか。つまり路面の傾きを測れる装置のようです。ハルカさん、恐らくその装置が示すのは――
キサキさんはインカムを通して“いくつかのこと”を教えてくれた。ハンドルの真ん中に付いた小さな水平器のこともそう、丸い液晶のモノクロ数値プラスならそこは上り坂、マイナスなら下り坂。完全に水平ならば『0』を示すと。彼女は私たちならばこの橋に、その先に辿り着けるはずだと言ってくれた。それが何を意味するのかは推測すらも及ばないと、けれどこの場所からは離れられるはずだと、申し訳なさそうに。
「これ、橋の下どうなってるんだろう。廃材に見えるよね?」
「多分――」
ジュースケに案内されてナツと崖の部分を降りて行ったとき、直接覗き込んではいないものの谷底は確かに同じ廃材が続いているように見えた。この橋の下も同じ。……はず。こちら側の境界部分は少なくともあって、斜めに降りて行った先には土でも岩でも川でも海でもなく色褪せた廃材があると、朧げに私たちは認識している。
この世界のことをキサキさんとゆっくり話す時間は最後まで無かった。それは当然キサキさんのせいではないのに、「もっと話したかった」と彼女に言ってしまったことを今更少し後悔してしまう。彼女にはこの廃材の地と薄茜色――いや、“茜色”の空がどう見えていたのだろう。もちろん王のことも、ジュースケたちのことそうだけれど、透明ダコのこと――この世界のことは。
「あれ?」
ナツが何とも言えない疑問符を声に出した。
「ちょっといい? 止まれる?」
「ん? いいよ」
一旦止まってスタンドでセントナツ号……マークIIを自立させた。ナツの手招きに従って、サドルの根元辺りに備え付けられた小さな黒い箱を二人で注視する。制御装置か何かだと思っていたけれど……
「ここ」
ナツの言う通り、なにやら『凹』を横にしたような小さなマークが彫ってある。円形に薄っすらと縁が……ボタン?
「これミッシェルの形に見えない?」
「え……?」
『カチッ』
押した。隙間が空いた。ナツはそのまま指をかけて上方向に蓋を開いた。……開けた。
「……うそ」
振動を吸収しそうな内装の中には柄の異なる円筒形のエネルギー体が2本と、片方に金属端子を付け片方は二股に分かれた細いケーブル状の何かが格納されていた。『乾電池』に『イヤホン』と、私たちが呼ぶものが。
「これきっとミッシェルが入れてくれたんだよ、動かせるよこれ絶対!」
「うん――」
「ごめんハルカ、私泣きそう」
つられて私まで泣いてしまいそう。
「やっぱり音楽のCDなのかな、ジュースケが聴いてた曲なのかな……。ねぇ、イヤホン片耳ずつね!」
白いイヤホンの片割れを大事に受け取って、と思ったらナツがもう一度持って、
「絡まりそうだから乗ってから聴こうか、走りながらさ――」
「そうしようか」
ひとまずセントナツ号に戻る。
「――よし電池入ったよ。イヤホンも繋いだ!」
乗り込んでブレーキを確かめる頃にはナツの手が後ろから伸びて来て、今度こそイヤホンを着けてくれた。私は左耳、あのインカムと同じ。イヤホンの二股はそれほど長くないのでナツの頭が首の辺りにくっついた感じになる。
「髪、邪魔じゃない?」
「大丈夫! あ、動いた……!」
小さな液晶部分に何か情報が表示されたのだろう。ナツの喜びと期待がびりびりと伝わってくる。ミッシェルの整備は完璧に行き届いていて、ジュースケの心臓部は何かを届けてくれるはずだ。私よりも、ナツの方に。
「まずは出発!」
始めに少しペダルを漕いで、緩やかに速度を得たらハンドルを軽く握る。ボタンが押し込まれて、あとはペダルに足を掛けたままマークIIに委ねるだけだ。
巨大な吊り橋に踏み込んだ。他に通る人も車も自転車もいないのに、なんとなく左端の方を選ぶ。橋と空の境界には柵状の形はあれど、歩道らしき区画は設けられていない。横を見るくらいなら振り返ることにはならないだろうと、やはりどこまでも続く廃材の地――海を、規則的に遮っていく鉛色の鋼鉄線の向こうにぼんやりと眺める。滑らかな明るい灰色の路面は一切の不規則な振動を生まず、やがて少し先に傷や汚れを寄せ付けない純白の塔が近付いてくる。
「再生ボタン押すよ……!」
「いいよー」
短い沈黙にぎゅっと詰まった淡い緊張感。自然と意識が集中した左耳に、音楽が流れ込む。静かなイントロに続き“声”が――
「ねえ、これ……」
「ジュースケの声にそっくり」
「だよね!」
あるいはジュースケがこの声を借りたのかも。若く精悍な印象、芯のある力強い歌声。言葉は英語だ。
「スカイ、ボーントゥ……あー、もっと英語勉強しよう。リスニングだけなら……」
「私も……」
サンセットやレッド。あまり自信は無いけれど、目を覚ましたら赤い空だったと、“この世界のことを謳っている”ように聴こえる。
「ハルカにはさ、」
「うん?」
小さく鼻を啜る音が聞こえた。
「この世界はどう見えてたの」
あの薄青い空と浮島の海を、私と共にしたあなたには。
「私はね――」
――私は、この世界はキサキさんが思い描いたのではないかと思う。役目を終えたモノたちに目を向けた優しいキサキさんが。それは単なる自己投影でなく、私たち人間が何に辿り着き、何を捨てて行くのか、どんな“定義”を自己のうちに――
「ぅう……ジュースケぇ」
優しいナツも声を震わせる。
「ミッシェルもごめんね……挨拶したかったよぉ」
「――大丈夫、伝わってたよ」
「ほんと……」
本当ですとも。
「今からでも言おうかな。振り返らないから、上に向かって叫ぶからさ」
「いいよ、きっと聞こえる」
「耳閉じてもいいよ。……あ、片手運転ならできる?」
「大丈夫――」
私も聴きたいから。きっと想いは同じだから。「ぐすっ」っと聞こえた後に、ナツが大きく息を吸い込む。
――ありがとう。さようなら。私たちは先へ進みます。