25_goodbye
「ハルカ、あれ見て」
自転車を停めて二人で“標識”に駆け寄った。廃材を四角く固めた「撒き餌」も無くなり、どこか殺風景になった地面から突き出して立っていたのは外国にありそうな簡素な標識だ。一本の棒に括り付けられた五角形の板というか、矢印というか。
「教えてくれてるのかどうか微妙なところだね」
ナツの言う通り、たった二枚だけの灰色板にはその先の名前も距離も書かれていない。示している方角は私たちがいた場所と――あの大きな橋。
「む」
「む?」
標識の幹を睨んでいたナツが何かを見つけてくれた。
「ここに引っ掛けるのはどう?」
「ぴったり。そうしなさいって言われている気がする」
幹から小さな枝が一本出ている。しかも先端が『Y』の字型に。私は右手首に着けていた“ブレスレット”に触れた。細い金属の輪は完全な円ではなく、一箇所が千切れていて『C』の形になっている。力を籠めるとすぐに曲がって――
「あれ、思ったよりも……」
「どうしたの?」
曲げられると思ったら、微妙に一人では外せない。左手だけでは力が入れにくい。
「ナツ、これ外せる? 曲げちゃってもいいから」
「どれどれ」
ナツが両手を使うと金属の輪は簡単に形を変え、私の腕からするりと外れてしまった。もしかしたら本当に“独りでは外せない硬さ”だったのかもしれない。王はきっと、これを通して私を見守ってくれていた。
「ありがとう王様。インカムくんも」
枝先にブレスレットを引っ掛けて、そこにキサキさんから預かったインカムも引っ掛ける。これで私は“この世界のもの”を全て手放したことになる。
「グッドナイトかな、いや違うな――」
ナツが彼らに言葉を添えた。輪の微かな揺れに茜色の空が反射して踊り、やがて輪もインカムもじっとその時を待ち始める。同胞たちと共に。
「ん? これは置いて行かないよね?」
私の視線気付いたのか、ナツが大事に抱えていたメタリックブルーのCDプレイヤーを見せる。
「もちろん」
ひらりと返して裏表。いくつかの操作ボタンに小さな細長液晶が付いた四角い輪郭に、目いっぱい取られた円盤の意匠。ただしメーカーのロゴが見当たらない。――あの浮島に積まれたテレビの塔の個体たちと同じ。
「これ、開くのかな」
「……多分」
見たところ歪みは無いし、取り出し操作には電池が要らないはず。ジュースケは確かプレイヤーではなくその中のCDが彼を――
『カチッ』
「開い――あ」
ひらりと、何かが舞って、静かに地面に落ちた。
「大事に持ってなよって言ったのに。……違う、そうじゃないか」
「うん――」
きっと。ジュースケはナツ言われた通りにしていた。淡い色味が写していたのは、私たち“三人”の光。
「そっか、そうだね……。見て、ミッシェルのもある。これ持ってて」
ナツからCDプレイヤーを受け取る。挟んであったポラロイドカメラの写真は二枚あった。落ちずにいたもう一枚はジュースケとミッシェルだけが写った方だ。私とナツとジュースケで三人をミッシェルに撮ってもらった後に、ナツが「折角だから」と。
「最後までジュースケが持ってても文句なんて言わなかったのにな」
そうすることもできたのかもしれない。そうしなかったのかもしれない。しゃがんで大事そうに写真を拾うナツの背中に、ロボットアームを携えた白いミシンの真面目な収集家と、それを得意げに紹介する友人の双眼鏡と丸ランプの目を付けた細長い顔を描く。私から見ても優しいスナイパーだった。
「よし。ミッシェルの方も貸して。写真は私が持つよ。……と思ったけどカバン無いんだった」
ナツと出会った時に持っていた緑の肩掛けバッグか。そういえば。まぁ赤いフレームの伊達メガネもそうで、私たちは持ち物を抱えて準備万端とはいかないらしい。たまたま着ていたのであろう学生服以外には。
「そのCD、何も書いてないよね。外せる?」
「やってみる」
ナツの言う通りCDの片面には何の印刷もなく、七色の反射からは一切の情報が読み取れない。側面に作られた窪みに指をかけて中心の円盤の部分を押し込む。『ペキ』と軽い音が鳴り、裏面も光を返す。幸いディスクに傷は無いようだけれど、残念ながらこちらも一切を語らない。裏表反対説も否定されてしまった形だ。
「むー……。CD戻してまた写真を挟んでおこう。運転再開!」
「……うん」
頭の中に一度思い浮かべた“もしこれが動くならば他に必要なもの”を、拭うようにしてかき消す。ナツの潔さというか、強さがそうさせる。
そうして再び自動式自転車――セントナツ号に跨ってハンドルを握った。荷台の右側には黒い箱型の機構があるのでナツは左横向きに座る。目指すは蜃気楼のように私たちを待つ、あの橋だ。
透明ダコもキサキさんの形をした秩序の一つも、私たちを追いかけてはこなかった。
――だからこそキサキさんの凛とした後ろ姿と、隣に寄り添う廃材の王の姿を思い浮かべる。王はキサキさんよりもずっと大きい。もっと大きなものが現れたけれど、それでも見上げていたはずの王の高さは、例えば何十メートルとは成らなかった。透明ダコなんて圧倒してしまうほどのスケールを選べたのではないか。そうでないとしたら、それは何故だったのだろう。
振り返らずに思い描く。視線の彼方どこまでも続く人工物たちは、“燃えるような茜色”の空に照らされながら静かに睨む。降り立つ無数の透明ダコを、キサキさんの形を模した何体もの秩序を。二人は――王と王妃はきっと手を繋いで、それはどこか、あの薄青い空の浮き島で剥がれ落ちる天板と迫り来る収束を迎えた私たちのようで。あの時の私にはキサキさんほどの覚悟は無かったのだと思う。けれどもし私たちがその姿に一部でも重なるならば、今この場所があの空の“次”ならば。では、“その次”に向かうのは――
 




