7.同じ景色の中にある
ニコラはまた、丘の上にいた。風も、木の葉がざわめく音も、草の匂いも、全てが心地良い。キラキラと光を反射して流れていく小川、それに沿って北に視線を流せば青く輝くトゥーガ連峰の山々が、そして塔が見える。大好きな場所で、ニコラはまたいつものように考え事を始めた。彼だけの、一人だけの時間だった……。
ニコラは目を覚ました。彼の体の下には、冷たい石の階段があった。どれだけ眠っていたのか分からないが、しかし辺りはまだ暗闇に閉ざされていた。ニコラはもう一度眠ろうかとも思ったが、しかし、目をつぶってもあまり眠る気にはならなかった。妙にすっきりした気分だった。大好きな場所の、丘の夢を見たからかもしれない。朝が来て、塔を下りて村に帰れば、好きなだけ丘に行くことができる。
しかし、丘のことを考えたとき、ニコラは何か心に引っ掛かるものを感じた。そもそも、ニコラが丘を好きな理由は何だったか? そう、「自分だけ両親がいない」という寂しさから逃れられるからだ。一人ぼっちになって考え事をすることで、一人ぼっちの寂しさを忘れられるからだ。しかし、そうするとおかしなことになる。
ニコラは両親に会いたくて、一人ぼっちが嫌で塔を登ったのだ。そして、塔を登る事で自分は一人ぼっちではないと気付いたはずだった。なのに、彼はまだ丘が好きだった。きっと、村に帰ればまた丘に行き、一人で考え事をするだろう。そう、また一人ぼっちだ。自分は一人ぼっちではないと分かったはずなのに……。
ぐるぐると考えているうちに、ニコラは分かった。「周りは関係ない、自分が成長しなければいけないんだ」と……。今までも、決して一人ぼっちではなかった。しかし、ニコラは自分で自分を一人ぼっちにしていた。このまま、丘が好きなまま帰っても、何も変わらない。また自分を一人ぼっちにするだけだ。皆に両親がいるからではない。自分に両親がいないからではない。丘に逃げない強さが、一人ぼっちを恐がらない強い心が、一人ぼっちにならないために必要なのだ。それを手に入れるにはどうすれば良いか? その時ニコラに、方法は一つしか思い浮かばなかった。彼はランプをつけて、周りが少しだけ明るくなったのを確認すると、階段を登り始めた。五日目の朝すらまだやって来ていないというのに、諦めるにはまだ早すぎたのだ。
ニコラは最後の力をふりしぼって、闇の中のらせん階段を登った。休憩もとらず、ただひたすらに登り続けた。足首はいよいよ赤黒く変色してきて、水を失った喉がヒューヒューと渇いた悲鳴を上げた。目の前は闇……あとどれだけ登れば良いのか? ニコラにはもう検討もつかない。しかし、彼は登り続けた。登ることしか考えなかった。
そのまま、毛布の中で朝を迎え、そして光の中を下りていったらどんなに楽なことだろう? しかしその先にあるのは、元いた場所だ。一人ぼっちの村だ。ニコラが帰りたい村はそこではなかった。みんながいる村だ。家に帰ればおじいさんがいて、学校に行けば先生や友達がいて、たまに両親から手紙がくる……そんな表面的なことではない。ニコラの心がみんなの心と共にある……そんな村に彼は帰りたかった。いや、生まれて初めて行きたかった。そこに行くには、来た道を戻ってはダメなのだ。すなわち、登らなければならない。ニコラが求める場所は、果てしない闇の先にある。
「痛っ!」
バランスを崩して、ニコラは前のめりに倒れた。右足は、いよいよ踏ん張りが利かなくなってきた。脳が痛みを和らげるために神経を麻痺させたのか、足の感覚はほとんどなかった。ニコラは何とか立ち上がったが、足元はフラフラとしておぼつかない。数歩登った所で、彼はまた倒れてしまった。
しかし、ニコラは止まるわけには行かなかった。右足が言うことを聞かなくなったぐらいで……と、彼は持っていたランプをリュックにくくりつけると、空いた手を地面についた。そして、ニコラはその手を「前足」に変えた。ワニのように、四つの足で這いながら階段を登り始めたのだ。闇の中にうごめくシルエットは、もう人間のものには見えないかもしれない。しかし、そんな見てくれ的なことは、もうニコラにとってはどうでも良かった。いかに、見た目は人間から爬虫類に退化しても、彼はその精神を「弱虫なニコラ」の先に進化させたかったのだから。今は、ただひたすら、全身に残る全ての力を使って進むことが大切だった。
太陽は偉大だ。何十億年と言う長い時間、ずっと闇を払い続けているのだから。しかし、それに比べてニコラの背中にあったランプは非力で、ついにその輝きを失ってしまった。ニコラの周りは完全に闇に閉ざされた。もう、目は頼りにならない。もっとも、光があったとしても、喉の渇きと疲労によってその視界はかすんでしまっていたが……。とにかく、彼は手探りで階段を登った。柵があるから、誤って塔の内側に落ちることは無いだろうが、しかし同時に、いよいよ本当に終わりも見えなくなってしまった。「はぁはぁ」と大きく息を吐きながら、彼は後どのぐらい這い続ければ天辺に着くのか? 一段先でそれは終わるかもしれないし、一万段先かもしれなかった。「分からない」は大きな不安となって、闇の中に取り残された人間の心をズタズタにしてしまう。
しかし、ニコラの心は落ち着いていた。いや、それは「無」と言っても良いかもしれない。彼は闇に怯えることも、失った光にすがることもしなかった。ただ、手の平で次の一段を探し出し、それを登っていった。それはニコラだけの世界で、そこにはもう塔すら存在していないようだった。ニコラは何もない場所を、ただ登り続けた。
しかし、予期せず、ニコラ一人の世界は終わりを告げた。彼の手の平をヒヤリとした感覚が襲ったからだ。いくら探しても、次の段は無かった。あったのは、彼の行く手を塞ぐ、「石よりも冷たい何か」だった。
「ゴンゴン!」
拳で叩いてみると、それはそんな音を立てた。それはどうも、鉄の板のようだった。這いつくばったままでは分からないので、ニコラは仕方なく立ち上がると、その鉄板に体重を預けてみた。すると、「ギイイ」と耳障りな音を立てながら、それは動いて、次の瞬間ヒュッと風が頬を撫でた。突然のことで、ニコラは思わずゾクッと身震いすると、自分の周りを目を凝らして見た。
ニコラが目にしたのは闇の中でキラキラと輝くもの……それは、星だった。そこは外だったのだ。星達が送ってくるわずかな光を頼りに後ろを振り返ると、ニコラは先ほどの鉄板が扉であったことを知った。そして目が慣れてくると、彼は今までずっと見続けてきたものが、そこには存在しないことに気付いた。そう、いくら探しても、上にのびる塔はもう無かった。
天辺だった。夢にまで見た、塔の天辺だった。
「着いたんだ……」
ニコラは呟くと、その場に腰を下ろし、そして星空を見上げた。とびきり感動するわけでもなかった、達成感もあまり……。ただ疲れていて、風が冷たかった。何の感慨もない。世界で一番高い場所で見た星空は、村で見るのとあまり変わらなかった。そこは村から見れば遥か空の彼方なのだが、それでも、まだまだ空ではなかった。
「神様ー!」
ふと思い出したので、ニコラはその名を呼んでみた。しかし、いくら待っても返事をする者はいないし、ニコラとしても、それは予想通りのことだった。ただ、一応「もしかしたら……」に決着を付けておきたかったのだ。これではっきりした。やはり、神様はおとぎの国の住人なのだ。
結局、その地上とも空ともつかない場所にいるのはニコラ一人だった。おじいさんも村のみんなも、彼の足元より遥か下で寝息を立てている。そして、星達は遥か上の方で瞬いている。そこでは、これといって考えるべきことも見当たらない。一人ぼっちを極めたような場所だった。そこはひどくつまらない所で、こんな所にいるのは「よほどの暇人」か「頭のおかしな奴」だろう……と、そう思いながら、ニコラはフッと笑った。こんなものにすがっていた自分が、情けなくて仕方なかった。彼は実際にこの塔に登ることで、やっとその馬鹿馬鹿しさに気が付いたのだ。
それから、彼はしばらく星空をながめながら、ぼーっとしていた。何を思うわけでもなく、星達が消えていくのを見ていた。そのうち、空の色はだんだんと青みがかって行き、そして最後は東の空に明星が一つだけ残されて、星達はみんな空に別れを告げてしまった。
「朝になったら下りなきゃ……」
ニコラは、白み始めた空の端を見ながらつぶやいた。プカプカと浮いている紫色の東雲は、次第に明るいオレンジ色に染まっていった。それと共に、空気もだんだんと暖かくなって、ニコラの体にも少しずつ元気が戻ってきた。夜通しずっと登ってきたのに、すごくさっぱりとした気分で、空を見つめる顔は爽やかだった。気力がみなぎっていた。ニコラはだいぶ明るくなってきた空に向かって「うーん」と一伸びすると、それから東の方を向いた。「朝日を見て帰ろう」と、そんなことを思いながら……。
そしてついに、ニコラの前に太陽が顔を出した。ニコラは眩しさに一瞬目を閉じたが、しかしゆっくりとまぶたを開けると、次の瞬間、目の前の光景に思わず息を呑んだ。闇に沈んでいた地上が、東の方から、ゆっくり、ゆっくりと色を取り戻していく。海は青、森は緑、町には赤や黄色や白……地の果てから、地の果てまで。それは、そこに住む多くの人々にとって、ただの一日の始まりにすぎなかっただろう。しかし、ニコラにとってそれは、世界の誕生にも思える光景だった。今まで塔ばかり見てきたが、しかし目の前の光景はそれとは比較にならないほど雄大で、そして美しかった。
太陽はその姿を完全にさらけ出した。そしてその光によって、地上もまたニコラの前に全てをさらけ出して見せる。ニコラは思わずあちこち景色をながめた。真下を見下ろせば、トゥーガ連峰やカノン・ダラー、そしてニコラの村が見えた。遠くには都も見えるし、海の向こうに浮く、行ったことのない島も見えた。東西南北、そう、北も南も、東も……。そして、ニコラは西を見た。海が見えた。そして、その向こう側には大陸が見えた。西の大陸……両親のいる場所だった。
「お父さーん! お母さーん!」
聞こえるはずがないのに、ニコラは叫ばずにはいられなかった。不思議な感じだった。声も届かないほど遠くにあるのに、その場所はニコラの目の前なのだ。今まで、そこは遠い、想像もできないくらい遠い場所だった。教科書に載っていた地図で見たが、良く分からなかった。「自分がいる世界とは別の世界なのかもしれない」と、ニコラは何度も思った。しかし、今は目の前にあった。村も目の前だ。かつて住んでいた東の都も目の前だ。全部が一つの景色の中だった。ちゃんと、つながっていた。
それはつながりを持った、一つの世界……。