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6.恋しい場所

 ニコラの脚は快調だった。それはもう、弱虫で寂しがり屋な男の子のものではなく、ただひたすら天辺を目指す、強靭な男のそれだった。一歩一歩が力強く、石の階段に「ミシリ」と悲鳴を上げさせた。

 塔を登り始めて三日目となったその日、ニコラは一日でかなりの高さまでやって来ることができた。それは、かなり狭くなった塔の内壁や階段の幅を見れば、一目で分かった。それはコバルトの空が近付いていることの証明であり、そしてニコラの心を奮い立たせる音をなさない声援であり、激励だった。彼は石造り無口な応援団に応えようと、また力強い一歩を踏み出した。

 そうこうしているうちに、塔の白い壁がほんのりと桃色に染まり始めた。それは、別に塔の色が変わったわけではなく、窓から差し込む光によるもので、その時、塔の外は綺麗な夕焼けに染まっていた。ニコラは一瞬、その美しい光の色に溜息を漏らしたが、しかし次の瞬間、また上の渦巻きに目をやり、気を引きしめると階段を登り始めた。目指すは次のフロア。ニコラはトントンと登っていく。桃色に染まった壁や階段は、次第に紫、深青ナイトブルー、と色を変えていった。もう夜は目の前まで来ているらしく、ニコラの足元も見えにくくなってきた。「そろそろランプをつけようか?」と、彼は足を動かしながら考えた。

 しかしその時、彼の足裏を妙な感覚が襲った。それまで足の裏にあったのは硬く力強い反発だったのだが、しかしそれが、一瞬フワリと浮くような感覚に変わったのだ。「何だろうか?」と、考える間もなく、聞こえてきたのはガラガラという音。そして、ニコラの視界はぐるぐると回転した。全ては一瞬の出来事だ。ガツンガツンと体を打たれながら、ニコラはやっと状況を飲み込んだ。もろくなっていた階段の一部が崩れて、バランスを失った彼の体は、らせん階段の上をゴロゴロと転がり落ちているのだ。ニコラは何とか止まろうと、体に力を入れて踏ん張ってみたが、しかし重いリュックを背負っている上、一度勢いがついた回転はなかなか止まらず、結局彼は、階段内側の柵に背中からぶつかるまで止まらなかった。

 静かになって、視点が一つに定まった。あちこち痛む体に、ニコラは思わず「うぅ〜」と唸り声を上げた。「今日は順調だったのに、最後の最後でとんだ目に遭ってしまった」と、今ぶつかったばかりの柵にもたれながら、彼は溜息を漏らした。しかしその時……それは「また」だった。また、ニコラはさっきと同じ、フワリと浮くような感覚に襲われた。それも今度は背中……もたれかかっていたはずの柵が無くなったのだ。

「うあ!」

 と、声を上げながら、ニコラは両手を階段にベタリと張りつけ、おなかに力を入れた。さっきと違い、後ろには何も無い。そのまま体を重力に従わせれば、渦巻きの底へ真っ逆さまだ。ニコラは思い切り歯を食いしばって、全身をガタガタ震わせながらも階段に戻ろうとした。しかし、ここぞとばかりにリュックが「重力との共存」を主張するのが憎かった。それは、ニコラとリュックの綱引きだった。負けるわけにはいかないニコラは、「あああああ!」と声を震わせながら、手の爪を目一杯石の階段に食い込ませて、これでもかというぐらいの力で踏ん張った。

 数秒後、「綱引き」に勝利したのはニコラだった。荒い息を整えながら、彼はふと、自分が今まさにいた場所を振り返って見た。柵が綺麗に崩れ落ちている。ニコラはゾッとした。心臓がバクバクと大きく揺れ動き、全身から汗が噴き出した。なのに、まるで冬の荒野にいるように寒い。体が自然にガタガタと震えた。目の前にあったのは、ぽっかりと開いた「死の世界」の扉だったのだ。

 それからしばらく、ニコラは階段に座って心を落ち着かせた。恐ろしい目にあったが、「これも試練なんだろう」と、そう思うことにした。そして落ち着くと、ニコラはランプをつけた。最初に階段がもろくなっていることに気付かなかったのが、今回のミスだ。「暗い時は、ちゃんとランプをつけないとダメだ」と、彼はおじいさんの四か条に一つ付け加えた。「急がば回れ」と、学校で教わったことわざが思い出された。

 気を取り直して……と、ニコラは階段を登ろうと立ち上がった。しかしその時、彼は右の足首に違和感を覚えた。痛いとか、うまく動かないとかそういうことではないが、しかし足首のあたりに、何かズーンと重たい感じがあるのだ。転げ落ちた時にひねるかどうにかしたらしい。しかし歩くことはできるので、ニコラは不安を感じつつも、次のフロアに向かって階段を登った。


 しかし、塔を登り始めて四日目の朝、足首の違和感ははっきりとした痛みに変わっていた。それでもまだ歩けないほどではないが、しかし、登ろうと踏ん張るたびに、それはズキンと痛んだ。ゆっくり登ればそれほど痛くはないが……しかし、そうすると問題になってくるのはおじいさんとの四か条だ。すなわち、「五日目の朝になっても天辺に辿り着けなかったら、迷わず下りてくること」。つまり、今日がラストなのだ。

 不安はそれだけではない。あのドロドロのお化けの悪夢を見た時、水筒の水をガブガブ飲んでしまったので、二つある水筒のうちの一つは、もう水が残りわずかだった。もう一つはまだ一杯だが、しかし、それを飲んで良いのは塔を下りるときだ。下りるにも同じだけの時間がかかるからだ。日が沈むのが先か、それとも水が尽きるのが先か……そのどちらよりも早く、ニコラは青空を見なくてはならないのだ。ニコラは脚に力を入れた。ズキンと痛む……しかし我慢した。

 すると、また天井が見えてきた。「できれば、あれが最後であって欲しい」と、ニコラは願いながら登った。だんだん天井が近付いてきて、そしてそこをくぐり抜けると……フロア。そして、上にはまた渦巻き。それは「ニコラ君、残念でした〜」と笑っているようだった。ここまでの四日間で、この渦巻きは色んな顔をニコラに見せてきたが、今の顔が一番彼の勘に障るものだった。頭に血が上って、ニコラはズンズンと塔を登った。怒りのせいか、痛みは感じなかった。

 すると、また天井が見えてきた。ニコラは拳をぎゅっと握り締めて、祈るように登った。登って、くぐった。

『ニコラ君、残念でした〜』

 そこにあったのは相変わらず挑発的な渦巻きだった。怒りを通り越して、今度ニコラは不安になった。夏の空にどこからともなく現れた夕立雲のように、それはニコラの心を覆っていく。すると、なんだか気持ちが後ろ向きになっていった。怒りに任せてズンズン登ってきたせいで、足首がまた痛くなってきた。水を節約していたので、喉がすごく渇いた。目に映るもの、壁にできた染みや影でさえ「無理」「諦めろ」という文字に見えてきた。心が押しつぶされそうだった。胸がしめつけられるようで、それは肉体の苦痛より深刻だった。ニコラは一歩も踏み出せなくなって、そして、ちょうどその時日が暮れた。

 闇の中に沈んだ階段の上に腰を下ろして、ニコラはただ黙って考え事をしていた。この四日間のことを……色々あった。初めてくぐったフロアでがっかりした。恐ろしい夢を見て泣いた。転がり落ちて怪我をした。挙句、天辺には辿り着けず、朝日と共に下り始めなければならないと言うのに、こんな所に座りこんでいる。散々だ……。

 しかし、残念ではあったが、ニコラは少しホッとしていた。明日になったらここを下り始めて、そしてみんなのいる場所に帰れるのだ。ニコラは今回のことで気付いた。「自分は決して一人ぼっちではない」ということに……。それを思えば、塔の天辺よりも、むしろ村の方が恋しかった。

 ニコラはそのまま、階段の上で横になった。そして、四日間の疲れをとるため、彼はゆっくりとまぶたを閉じた。まぶたの裏には、緑の絨毯が映っていた。どこからか漂ってくる草の匂いに誘われて、彼はそのまま眠った。




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