5.神様がいなくても
塔を登り始めて、二日目も終わろうとしていた。徐々に明るさを失っていく塔の中を見つめながら、ニコラは階段に腰掛けて休憩をとっていた。上に行くにつれ細くなっている塔……その内壁はいくらか狭くなってきたか? 「結構上まで来たのかもしれない」と思いつつ、しかしニコラは溜息をついた。この塔に、若干嫌気がさしてきたからだ。最初は確かに、塔も、階段も、それが描く渦巻きも、全てが物珍しくて、ニコラはまるで絵本の中の勇者になった気分で、ワクワクと胸を躍らせながら登っていた。しかし、冒険の舞台はその巨大さだけが取り柄で、言い方さえ変えれば白い石細工にすぎなかった。二日も同じものを見せられ続けては、さすがに殺風景に思えてくる。
退屈とは恐ろしいもので、心が飢えると体も調子が悪くなってくる。実際、ニコラの登るスピードは確実に落ちていた。「これではいけない」と、何か変化を求めて、ニコラは登りながら色々とやってみた。例えば、階段の段数を数えてみたり、または一段飛ばしに登ってみたり……しかし、どちらも精神的、ないし肉体的に疲れるので途中でやめてしまった。結局残ったものと言えば、わけの分からない虚しさだけだった。
「おじいちゃん、今頃何してるかな?」
ふと、ニコラは自分の遥か下で待っているであろう人のことを考えた。「食事をしているか、それとも昼寝をしているだろうか?」と……。すると、それを皮切りに色々な人のことが頭の中に浮かんできた。先生、友達……両親と離れ離れに暮らしてはいるが、何だかんだで自分の周りにはたくさん人がいたのだと、彼は思った。
そんなことを考えながら、ぼーっと休憩しているうちに日は沈んだ。暗くなったからランプをつけて、ニコラはとりあえず、次のフロアまで行って休むことにした。空気が冷えてきたのか、靴の音がコーンコーンとよく響いた。それ以外に音は無い。今彼は、本当に一人ぼっちだった。
気がつくと、ニコラは何も無い、真っ白な世界に立っていた。見渡してみても、彼以外の何ものも存在しない……いや、遠くに一つだけ、黒い何かが見えた。そしてそれは、次第にニコラの方に近付いてくる。真っ黒な、ドロドロした何かだった。何かは分からなかったが、ただ一つだけ、直感的に分かることがあった。「絶対にあれに捕まってはダメだ」ということ。彼は慌てて逃げ出した。振り返って見ると、黒い何かは、しかしニコラの後ろを依然と追いかけてくる。それを見ると、彼は血相を変えた。
「おじいちゃーん! 先生ー!」
助けを呼ぶが、誰も応えてはくれない。ここにいるのはニコラとドロドロだけ……と、そうしているとバランスを崩して、ニコラは転んでしまった。「痛たた」と、すりむいた膝小僧を押さえつつ、彼は起き上がろうとした。が、そこを後から捕まえられた。ニコラは、ついに黒いドロドロに呑みこまれてしまった。
「わあ!」
暗い塔の中で、叫び声がこだました。ニコラは毛布をはねのけて起き上がっていた。「はあ、はあ」と、彼の息は荒い。それは、恐ろしい夢だった。
息が治まってくると、ニコラの耳には「ゴー」という、何か、禍々しいものの鳴き声のような音が聞こえてきた。何かと思い、ニコラはそれが聞こえてくる、上の方を見た。風の音だった。外を吹く風が窓から塔の中に入りこみ、逃げ道を探してぐるぐると回る音だった。しかし、それを聞くニコラの目に映ったのは、階段の描く渦巻きではなかった。そこにあったのは、どこまでも続く果てしない闇だった。飛び起きたは良いが、しかしまだ夜中だったらしい。
闇を見つめながら、ニコラはハッと思い出した。さっき見た夢に出てきた、黒いドロドロを……。あれが何だったのかは分からない。夢とはたいてい意味不明な内容のものだ。しかし、意味不明だからこそ、子供には恐怖なのだ。ニコラは、あのドロドロが今にも闇の中から襲いかかってくるような気がした。体中が冷たくなり、手足がガクガクと震えだす。ニコラは「そんなことあるわけない」と頭の中で念じた。目をつぶりながら、先生が教えてくれた楽しい歌を口ずさんだ。しかし、彼が恐る恐る目を開けてみた時だった。
「グオオオオオオオオオ!」
と、それは、突風が奏でた自然の轟音だった。しかし、ニコラにとってそれは、彼を捕って食おうとする化け物の咆哮に他ならなかった。化け物はこう言っている。
『ニコラ! お前を頭から食ってやる!』
「うあああああああああ!」
と、ニコラは思わず叫び声を上げて走り出した。「あのドロドロが来る、逃げなきゃ!」と、下に続く階段に駆け込んだ……が、彼は目の前を見て絶望した。そこにもまた、底無しの闇が広がっていたのだ。ニコラはそれを見ると思わず腰を抜かし、その場にへたり込んで、そしてとうとう泣き出してしまった。必死で目をつぶって、耳を両手で塞いで、声を出さずに静かにすすり泣いた。そして思うことは、ただ「帰りたい」ということだった。両親はいないが、おじいさんがいる。学校にいけば優しい先生がいて、友達もいる。丘の上に座って辺りを見渡せば、色とりどりの景色がある。塔の中には無いものがいっぱいあるのだ。
しばらくすると、風がやんだのか塔の中は静かになった。ニコラはそれに気がつくと、立ち上がり、そして元の場所に戻って毛布を被った。「朝になったら塔を下りよう」と考えながら、そっと目を閉じる……しかし、震えて、叫んで、泣いているうちに頭がすっかりさえてしまったので、眠れなかった。ニコラはのそりと起き上がるとリュックから水筒を取り出し、そしてごくごくと飲んだ。おじいさんの四か条のうちの一つ……それを破って、思い切り飲んだ。
喉がうるおうと気持ちも落ち着いた。しかし、まだ眠くならないので、ニコラは闇を見つめながら考え事を始めた。この塔はいつ、誰が、何のために建てたのか? それは丘でいつも考えていた、答えの出ない疑問だった。実際にこうして登ってみたが、分からないものは分からいままだった。だから、ニコラはいつもと同じように色々と空想してみる。
いつ? 三千年前ぐらいだろう。
誰が? きっと神様だろう。
何のために? 人間に与えた試練だ。
と、そこまで考えて、ニコラはそれが前に読んだおとぎ話の内容と同じであることに気が付いた。おとぎ話は良い。彼はその類の読み物が好きだった。昔、本当に小さかった頃、眠れないときはお母さんがおとぎ話を聞かせてくれた……。「そうだ、暇つぶしにおとぎ話をしよう」と、ニコラはあの話をもう一度、思い出しながら朗読し始めた。「昔々、ある所に……」と、ニコラの声は闇の中で跳ね返り、自分に語り聞かせていた。
そして、話は男が塔を登っていく件まで進んだ。男は魔物や罠によって傷を負い、もう全身ボロボロだった。自分で物語をしながら、同時に「もう登るのをやめて、下りれば良いのに……」と、ニコラは主人公の男に対して思った。しかし彼の親切な忠告も、おとぎの国の男には届かなかった。どんなに苦しくても、辛くても、男は「恋人に会うんだ!」と、もう動けないはずの体にムチ打って登り続けた。決して、諦めなかった。
ニコラは朗読をやめた。そして、どうして自分が塔に登り始めたのかを、もう一度思い出してみた。「もしかしたら、神様が願いを叶えてくれるかもしれないから」と、そう思って登り始めた。いや、もっと言えば、両親に会いたかったから、両親のことを想っていたから……。もちろん、神様というのはおとぎの国の住人だ。天辺まで行っても、それはいないかもしれない。いや、いないだろう。しかし、だからといって、ここで引き返すのは少し違う気がした。物語の中の男は、「恋人に会わせてやろう」という神様の言葉によって塔を登り始めたが、しかしそれは、神様のために登ったのではなく、恋人のために登ったのだ。恋人への想いが本物だったから、最後まで登ることができたのだ。そしてそれは、紛れもなく愛なのだ。
ニコラはもう一度考えた。「ここで引き返したら、僕はお父さんとお母さんを愛していないことになってしまうんじゃないか?」と……。確かに、神様はいないかもしれない。しかし、そんなことはもうどうでも良いのだ。両親のために塔を登り、そして何年後かに再び会えた時、胸を張ってそのことを話せるように、この塔を最後まで登らなければならないのだ……と、ニコラはそう考えた。
ニコラは決心した。ちょうどその頃、夜が明けたのか闇は晴れ、目の前にはまた、渦を巻くらせん階段が現れた。それは上へ、上へと伸びていた。