2.笑う隊長殿
夕食の時間、ニコラはスープを飲みながらチラチラとおじいさんの方を見た。おじいさんは黙々とスプーンを口に運んでいる。家の中には食器とスプーンがぶつかる、カチャカチャという音だけが響いた。外の方で虫が鳴いているのが聞こえるぐらい、二人の食卓は静かだった。
ニコラにとって、おじいさんは少し苦手な存在だった。村で大工をしているおじいさんはクマのような体をしていて、さらに、昔軍隊にいた時についた傷が、あちこちにある。顔も、とても人相が良いと言えるものではない。口元とアゴには白い、たわしのようにごわごわとしたヒゲがたくわえられているし、鼻も大きく、ワシのくちばしのような形をしている。そして眉間にはいつも深いしわが刻まれ、洞穴のように落ちくぼんだ目は、奥の方で鋭い光を放っている。その上無口で、こちらから話しかけないかぎり、ほとんど口を開くことはない。村人達からは「頼りになる」と慕われているが、ニコラは初めておじいさんを見た時、思わず泣いてしまった。もちろん、ずっと一緒に暮らしているのだからもう恐ろしいとは思わないが、ニコラはまだおじいさんに話かける時、チラチラとその様子をうかがわずにはいられなかった。しかも、これから自分がしようとしている話のことを考えると、なおさらだった。「塔に登りたい」などと、この世の中でそんなことを言うのは「自分は愚か者です」と宣言するに等しいことなのだから。しかし諦めようかと思うと、そのたびに昼間丘で読んだ物語が、そして「もしかしたら……」という言葉が頭の中に浮かんでくる。
『もしかしたら……』
それは、頭の中で唱えるたびにどんどん塔に登りたくなる、魔法の呪文だった。
「おじいちゃん……」
ついにニコラはスプーンを置くと、話を切り出した。すると、おじいさんの二つの目がニコラをまっすぐに見つめてきた。ニコラは一瞬その眼光にすくんだが、しかし気を取り直して言葉を続けた。
「僕のことを変な奴だと思わないでね」
そう前置きして一呼吸置くと、ニコラは単刀直入に言った。
「僕は塔に登りたいんだ」
おじいさんは目を見開いて、眉の両端を上げた。それからスプーンを置いて、「う〜ん」と低くかすれた鼻声を出した。
「何でだ?」
少し間を置いてから、おじいさんはニコラに聞いた。普通の親なら、「ダメだ。馬鹿なことを言ってるんじゃない」と一蹴するようなことなのだが、しかしそこを「何でだ?」と理由を聞いたのは、おじいさんが人一倍ニコラを心配しているからに他ならなかった。しかし、ニコラの方は聞かれて困ってしまった。「もしかしたら……」と思う反面、彼は同時に「そんなこと、あるはずない」とも思っているのだから。まさか、「天辺まで登ったら、神様がお父さんとお母さんに会わせてくれる気がする」などと言うわけにはいかなかい。そんなことは、例えおじいさんにでも恥ずかしくて言えやしない。しかし、ニコラは「もしかしたら……」に賭けたかった。
「とにかく、どうしても登りたいんだ」
ニコラは理由を言わず、ただそう答えた。とにかく真剣だと言うことを分かってもらうため、目だけはおじいさんと合わせて……。
さて、しかし今度はおじいさんが困ってしまった。自分の孫が真剣に塔に登りたがっているのだ。それも観光名所でも何でもない、考えるだけで笑い者にされるような塔にだ。おじいさんは両手を組んで、そこに額を乗せるようにしてうな垂れると、ワシのような鼻からフーッと溜息を漏らした。
「僕のこと、変な奴だと思う?」
おじいさんの様子を見ると、ニコラは少し不安になって聞いた。しかしおじいさんは体を起すと、すぐに首を横に振って、それから口を開いた。
「塔に登ってどうしたいんだ?」
「天辺まで行きたいんだ。一人で……」
「一人で?」
「そうしないとダメなんだ」
おじいさんには、ニコラの考えていることはさっぱり分からなかった。しかし普段大人しく、あまりわがままを言わないニコラがここまで言うのだから、「ニコラの望む通りにしてあげたい」とも思っていた。しかし、その望みを叶えてやるということはすなわち、ニコラを一人で塔に登らせるということなのだ。おじいさんは腕を組んで、また「う〜ん」と唸った。
「もう少し、大きくなってからじゃダメか?」
「待てないから言ってるんだ」
実際、もう数年も待てば彼の両親は帰ってくるかもしれない。しかし、子供のニコラにとって、その数年はあまりにも果てしない長さに感じられた。大げさな話、宇宙が生まれてから今に至るまでにかかった時間と、同じだけの時間がかかるような気がしたのだ。実際はそれに比べれば一瞬も一瞬なのだが、そんな刹那の時間でさえ、彼は待てるわけがなかった。
「う〜ん……」
おじいさんはまた唸った。そして、それ以降一切の言葉を口にせず、黙りこんでしまった。深い眉間のしわはより深くなっている。ニコラはそれを見ると、「僕はおじいちゃんを困らせているんだ」と気付いた。
「ダメなら良いんだ……」
ニコラはそれだけ言うと、食器を片付けて自分の部屋に向かってしまった。
分かっていた。子供の自分が塔を一人で登るなんてことは、危険なことなのだと。それにニコラは感謝していた。おじいさんは「ダメだ!」と言わなかった。頭ごなしに「馬鹿なことを言うな!」と言わなかったのだ。「う〜ん」と唸って考えてくれた。そのことは嬉しかった。
しかし、残念と言えば残念だった。それから数日、叶わぬ願いを胸に秘め、彼は悶々とした日々を過ごしていた。ニコラの「塔に登りたい」と言う思いは変わっていなかった。いやむしろ、丘に行って塔を見つめるたびに、その思いは大きくなっていった。
しかし、数日後の朝、ニコラはおじいさんに起された。朝日に照らされたおじいさんの顔はどこか穏やかで、ニコラは一瞬、それが誰だか分からなかった。そうして、ぼーっとしている彼に向かって、しかしおじいさんは言った。
「ニコラ、塔へ行こう」
ニコラは目を丸くした。
ニコラが「塔に登りたい」と言った日、おじいさんはニコラが寝てからもずっと考え込んでいた。一体、ニコラにどうしてやれば一番良いのか? 塔に登らせてやればニコラは喜ぶに違いなかった。しかし、塔の天辺は天高く、山の頂上すら低く思えるほどの高さにある。一日で登りきれるものではない。十分な食料と水を持たせて登らせるにしても、ニコラはまだ幼い。何か不都合が起こった時に冷静な判断をし、適切な行動を取れるとは限らない。一緒に登ってやれればそれが良いのだが、ニコラは「一人で」と言った。それにも、何か理由があるに違いないのだから、一緒に登ることもできない。
「う〜ん……」
おじいさんはまた低く唸った。ニコラの身のことを考えれば、登らせない方が良い。それは明らかなことだった。しかし、おじいさんはさっきの、「ダメなら良いんだ……」と言って部屋に戻っていったニコラの顔を思い出した。一応取りつくろって笑顔ではあったが、しかしとても残念そうな表情だった。ニコラの身のことを考えれば、塔に登らせない方が良い。しかし、それが果たしてニコラの心のためになるのか? おじいさんは薄暗い部屋の中で一人、頭を抱えて唸った。その時だった……
『できないなら、諦めるしかない』
突然、そんな言葉がおじいさんの頭の中に浮かんできた。誰の言葉だったか? おじいさんは思い出そうと、自分の記憶を掘り下げていった。すると、次第に声の主の輪郭がはっきりしてきて……そう、それはもう何十年も前のことだ。
もう何十年も前、戦争があって、若かったおじいさんも軍隊に借り出されて戦地へ行った。そんなある日、おじいさんの部隊がいた砦が敵に包囲されてしまった。敵の部隊はおじいさん達よりも三倍は大きなもので、そのまま立てこもって抵抗しても、結果は目に見えていた。「覚悟を決めてここで死ぬか?」と、おじいさんはそう思った。しかし、その時だった……
「この砦はもうダメだ。いくら頑張っても、二日で敵の手に落ちるだろう」
そう言ったのは部隊長だった。
「そこで私は武器と食料を持ってここを抜け出し、北の砦に合流しようと思う。皆もついて来るだろう?」
その言葉を聞くと、おじいさんは首を横に振ってから答えた。
「無理です隊長殿! 砦は完全に包囲されています。抜け出せません!」
「だから、見つからないように夜の闇に紛れてだな……」
「無理です! 絶対に見つかります!」
おじいさんは声を荒げて言った。しかし、部隊長はそれを聞くと笑い出し、それから続けて言った。
「そうだな、見つかるかもしれん。ただ、その時はその時だ。できないなら、諦めるしかない。だが、『挑まざる諦め』より、『挑んでからの諦め』の方が価値あるものだと私は思うぞ?」
そう言って、部隊長はまた、「ハッハッハッ」と大声で笑った。
結局、その日の夜に部隊長とおじいさん達は武器と食料を持って砦を抜け出した。運良くその夜は大雨で、雨音に紛れて敵の間をすり抜けることができた。後になって部隊長は「玉砕覚悟だったのに、死に損なったわ!」と言って、また大声で笑っていた。
それは、おじいさんにとって古い、古い思い出だった。静かな夜だったが、おじいさんの耳には「ハッハッハッ」と、部隊長の笑い声が聞こえてくるようだった。まるで、「お前はまた挑まずに諦めようとする気か?」と言われているようだった。
おじいさんは心を決めた。「ニコラを塔に登らせてやろう」と……。しかし、挑んで玉砕するのが自分なら良いのだが、直接塔に挑むのはニコラだ。ニコラが無事に帰ってこれるように、玉砕しないようにするにはどうしたら良いか? おじいさんは今度はそのことを考え始めた。次の日も、そのまた次の日も考えた。
そして数日後、おじいさんは言ったのだ。
「ニコラ、塔へ行こう」




