1.もしかしたら…
風が駆け抜けていく。草原の草花や、森の木々に付いた葉がサラサラと音を立てた。それは太陽の光と交わって、緑の絨毯の上に綺麗なグラデーションを描き終わると、静かに去っていく。一変して静かになると、今度は小川のせせらぎに合わせて、鳥達がささやかな合唱を始めた。
草原は穏やかな午後を迎えていた。しかし、今まさに飛びたとうとしたところで、小鳥達はその気配に気付いた。瞬間、体を強張らせてその身を草の中に隠す。様子をうかがっていると、トタトタと忙しい靴音が聞こえてきた。草原を割るようにのびているあぜ道を、一人の少年が走ってくる。腕をふり、足をふり出すたびに、彼の肩から提げられた通学カバンはバタバタと音を立て、そして綺麗な金色の髪がキラキラと光を反射しながら揺れた。学校帰りの彼だが、家に向かっているわけではない。丘に向かって走っているのだ。丘は、この村で一番見晴らしの良い場所だ。
丘にやって来ると、少年は肩からカバンを下ろし、その場に座りこんだ。大きく息を吸い込むと、草の匂いが鼻をかすめる。上からは暖かい日差し。だから、彼はこの場所を気に入っているのだ。一人でぼんやりと考え事をするには、一番の場所だから。
さて、ぼんやりする準備が整ったところで、彼は視線を北に向けた。そこには山々がそびえ立っている。丘から見える山はサファイアのように青い。少年はそれらを、端の方から順にながめていく。そして彼の視線は、いつもそのうちの一つで止まる。アーキ山……北の山々をトゥーガ連峰と言うのだが、その中でも最も標高が高い山だ。しかし、彼は別にその山にこれといって思い入れがあるわけではない。彼が興味を注いでいるのは、その頂上から空に向かってのびている一筋の白い棒だ。いや、棒と言ったらそれは間違いだ。確かに、彼のいる丘から見れば細い棒にしか見えないのだが、しかし、それは天高くそびえる巨大な塔なのだ。彼はいつも、それを下の方から天辺に向かって流すように見る。しかし、彼の首がわずかに後ろに傾き始めると、白い塔の先は青空に溶けてしまったかのように、かすんで見えなくなってしまうのだ。少年は、今日も見えない塔の天辺を見つめながら溜息をついた。
少年の名はニコラ。今は村で、おじいさんと二人で暮らしている。元々彼はこの村の人間ではなく、東にある都で両親と一緒に暮らしていたのだが、しかし三才になったある日、彼が重い病気にかかってしまったことから全ては始まった。重い病気と言っても「不治の病」と言った類のものではなく、薬さえ飲めば治るようなものだった。しかし、その薬がめっぽう高価で、ニコラの病気が良くなる頃には、両親は大きな借金を背負ってしまっていた。町で普通に働いていてはまず返せないような、莫大な金額だった。そこで彼の両親は、ニコラを村に住むおじいさんに預け、「もらい」が良い西の大陸に出稼ぎに行ってしまったのだ。だからそれ以来、ニコラは両親の顔を見ていない。たまに来る手紙だけが、彼と両親のつながりだった。
そんな生い立ちがゆえに、ニコラは人より寂しがり屋だった。しかし彼の場合、普通の「寂しがり屋」とは少し様子が違った。普通、寂しがり屋は人といることを好むが、ニコラは逆だった。人といることを避けるのだ。彼は今、村の学校に通っていて、友達も普通の子と同じぐらいいるのだが、しかし、学校が終わっても彼はその友達と遊んだりはしない。あくまで、学校の中だけでの付き合いなのだ。彼が友達と学校帰りに遊んだのは一度だけ……その時、彼は両親のいない寂しさを忘れ、本当に楽しい時を過ごした……しかし、空が赤く染まった頃、みんなが家に帰りだす頃になって、ニコラはそれまでにないほどの大きな寂しさに襲われた。なぜなら、友達はみんな家に帰れば両親がいるから……それを思うと、いっそう自分の状況が浮き彫りになって彼自身を苛むのだ。夕日に照らされながら、彼は一人、目に涙を浮かべながらおじいさんが待つ家に帰った。
そんなことがあってから、彼は学校が終わると丘に来るようになった。丘にいるのはたいてい彼一人。寂しいが、それ以上の寂しさに襲われずにすむ。それに、丘に座って考え事をしていると、残りの寂しさも忘れられるのだ。毎日、夕方まで……それが彼の日課となった。
最初は草花や山のことを考えていた。「あの花は何と言う名前だろう?」とか、「あの山はどれぐらいの高さがあるのだろう?」とか。しかし、どれもおじいさんや学校の先生に聞けばすぐに答えが出てしまった。答えが出ると彼は困る。考え事のネタが無くなると、寂しさに襲われるからだ。そこで彼はいつしか、北の山に建っている塔のことを考えるようになった。塔のことなら、いくら大人達に聞いても「あるものは、ある!」の一言で終わってしまう。普通、そんな途方もないことについて考えるのは「よほどの暇人」か「頭のおかしな奴」なのだが、ニコラにとっては都合が良かった。あの塔はいつ、誰が、何のために建てたのだろう? 考えるが、彼には検討もつかない。しかし、だからこそ良い。彼はそうやって、ずっと答えの出ない問いについて考え続けているのだ。
しかしある日、授業が終わり、いつものように丘に行くため、彼が学校を出ようとした時だった。そこを先生に呼び止められた。
「ニコラ、あなたに渡したい物があるの」
そう言って、先生は自分のカバンから一冊の本を取り出した。『塔の物語』と書かれた古い本だ。
先生はとても優しい人だが、しかしひどくお節介な人でもあった。彼女はニコラが塔について考えていることを知り、「不思議な子だ」と思いつつも、「あるものは、ある!」では満足できない彼のために塔に関する本を探してきてくれたのだ。ニコラにしてみれば大きなお世話だ。彼は別に、塔について知りたいわけではないのだから。いや、むしろ分からないからこそありがたいのだ。しかしそうは言っても、先生が一生懸命探してきてくれた本を、「いりません」と突き返すわけにもいかなかった。
「ありがとうございます……」
ニコラはとりあえず本を受け取ると、それをカバンにしまってそのまま丘に向かった。揺れるたびにするカバンの音は、いつもより重量感がある。先生のくれた本のせいだろう。
丘に着くと、ニコラはいつもの様にカバンを置き、草の上に腰を下ろした。そして、塔を見つめて考え事を始める……が、今日はどうにも塔と一緒に先生の顔がチラつく。ニコラは横に置いてあるカバンを見た。塔について、彼は別に知りたくはない。しかしもらってしまった以上、本の内容は一応気になった。ニコラはしばらくカバンを見つめたまま、どうしたものかと迷っていたが、しかし最後は好奇心に負けて、カバンから本を取り出した。
さて、ニコラは本を読み始めたのだが、内容は別にどうと言うほどのものではなかった。塔を題材にしたおとぎ話がたくさんまとめられている、それだけの本だ。考え事のネタを失わずにすんだ安心感と、「な〜んだ」とちょっとガッカリしたような感情が彼の中で入り混じった。しかし、別にこの本を邪険にする必要もなくなったので、ニコラはその本を読んでみることにした。不思議な話、ちょっと恐い話、馬鹿馬鹿しい話、色々な物語があってなかなか面白い。気がつくと、ニコラは夢中で本を読んでいた。ペラペラという本のページをめくる音が、静かな丘に響いた。
しかし、ある物語を読み終えた時、彼はそれまでずっと本に落としていた視線を上げて、青空の中に溶けている塔の天辺を見た。それは、ある男の物語だった。
男には仲の良い恋人がいたのだが、ある日、その恋人が川に落ちて流されてしまった。男は一生懸命恋人を探したが、彼女は見つからなかった。しかし、途方に暮れていたそんなある日、男の元に神様が現れた。そしてこう言うのだ。
「もし、お前がたった一人で塔の天辺まで来ることができたら、恋人に会わせてやろう」
それを聞くと、男はさっそく塔を登り始めた。しかし、塔の中にはたくさんの罠があり、さらに恐ろしい魔物も巣くっていて、男は何度も何度も苦しめられた。が、男はめげず、傷つき、ボロボロになりながらも、「恋人に会いたい」というその一心で登り続けた。そしてついに塔の天辺に辿り着いたのだ。神様は約束通り男に恋人を会わせ、そのまま二人を天上の世界に招き入れた。男と恋人はそこで、末長く幸せに暮らしたそうな……
と、そんな物語だった。当然、ただのおとぎ話だ。ニコラはまだ八才にもなっていないが、しかしそれが「ただのおとぎ話」だということぐらい分かる。分かるが、しかし彼はまだ八才にもなっていない。「もしかしたら……」と言う思いは消えなかった。もしかしたら……もしかしたら……と、その日彼は、日が暮れるまでそんなことを考えていた。