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あの事件の翌日、緒方はいつも通りの時間に本田と学校に登校した。結局生徒会執行委員の仕事は、後日準備が出来次第再度行われることとなった。
本田は小さな三つの色違いのキャンディを口に放り込み、話せない代わりとばかりに緒方の制服の裾を握って左右に揺らす。最初こそ制服がシワになることを気にしていた緒方だが、やはり言ったところで聞きはしないだろうと早々に諦めていた。
「あっれー、オハヨ。二人とも。相変わらず仲いいネ」
本田を半ば引っ張るような形で学校へと登校し、クラスに向かっていた緒方の前に見慣れた銀髪が立つ。踝より上まで折られた制服に履き潰された上履き、学内にも関わらず頭に被った深緑の帽子は神谷を異様なまでに目立たせた。
相変わらずの素行服装に溜息を吐き、緒方は「おはよう」とだけ擦れた低い声で言った。
「なーんだよ、緒方はまだ寝てんの?唯チャーン!オハヨー。今日も可愛いネ」
「おはよー神谷君。今日も元気だねぇ」
緒方の背にいた本田がひょこりと姿を現し、制服のポケットからキャンディーを三つ取り出して神谷に渡す。神谷はそれを嬉しそうに受け取ると、一つだけ中身を取り出し口の中へと入れた。
「お前、何でこんな早くに学校いんだよ」
「俺だって早く来る時くらいあるヨ?いやでも、まあ、ほら。今日はあれがあった翌日ジャン?何かないかなーって探したくもなるって」
「神谷君も興味あるの?昨日のこと」
「あるある!ないって方が少ないんじゃないカナ。嘘か本当かは兎も角、たーくさん面白い仮説や噂はあるんだからネ。昨日の今日だから、まだ何か面白いネタ残ってるんじゃないかなーって思って、散歩してた」
「へえ。で、何かあったのか?」
「いんや、何にも。ばら撒かれた紙も探したし、他に何かイタズラされてるとこねーかなっていろんな場所も探してみたけど、見つからなかったネ」
「流石に昨日の今日じゃ何もねーか」
「ダナ。……にしても、今まで盗聴器やら隠しカメラやらはたくさんあったけど、今回の件は流石に『カイザー様』もお怒りなんじゃねーの?」
「はあ、カイザーなあ」
ケラケラと楽しげに笑う神谷を前に、緒方は小さく溜息を吐く。神谷の言ったカイザーという言葉に対して、僅かに不満げに口を歪めた。
この学校で言う『カイザー』とは、全生徒のトップに立つ生徒会長のことを指す。つまりこの学園で最も優秀な頭脳を持つ者。学内IQ順位一位を誇る者のことだ。
緒方達が入学した時には既に生徒会長のことをカイザーと呼ぶことは定着しており、どういった経緯でそう呼ばれるようになったかまでは知られていないが、何となく雰囲気の格好良さからか生徒は皆気に入って生徒会長のことをそう呼んでいた。
「何で『キング』じゃねーんだろナ?」
「生徒会長のことを王や皇帝という認識で呼ぶなら、カイザーのが合ってるんじゃないか」
「え、どうして?私、キングよりカイザーって呼んだ方が格好いいからだと思ってたー」
「……まあそれもあったのかもしんねーけど。ほら、校章見てみろよ」
緒方が神谷のブレザーの胸元辺りを顎で指すと、釣られるようにして二人はそこへ視線を向けた。
西清和高校、というとこから『N』をメインにデザインされた校章。特別目立つようなものではないが、明度を押えた刺繍で黒と赤と黄色のカラーがデザインに組み込まれている。それを見ても首を傾げる二人に、緒方は面倒臭いとでも言うように小さく舌打ちをした。
「あ!舌打ち禁止!」
「黒と赤と黄色。これはドイツ国旗のカラーだ。で、皇帝をドイツ語で言うとカイザー。そういうことじゃねーの」
「おお、ナルホド」
「ああ、成程!」
納得したように二人は顔を見合し、頷き合う。
「そんなことはどうでもいいんだよ。……それより、ジョーカーについてお前に聞きたいことがある」
「へえ、ジョーカー。俺に?ナニ?」
「お前、ジョーカー入ってるか」
「うん、入ってるヨ。本当かどうかはともかく、学校の生徒三分の二は入ってるって聞くネ。それがどうかした?」
「ジョーカーに入る方法と、入った後のことが知りたい」
「はいはい!ジョーカーに入るには、テスト受ける必要があるって聞いたよー」
本田が背伸びをする勢いで手を挙げる。いつの間に起動したのか、挙げていないもう片方の手でスマホを持ちジョーカー入団の画面を開いていた。
真っ黒なページにシンプルな「Joker」という文字が書かれ、フルネーム・学年・クラス・学生証IDを書くテキストボックス、それを送信するためのボタンだけが置かれている。この学校ではあまりに有名なサイトであり、団体名だ。
「あれ、唯ちゃん入ってないの?」
「んー。結ちゃんが入らないって言うから、私も止めとこっかなーって。でも、面白そうだなって思うから、近々入っちゃうかも」
「これ、名前と学年クラスID書いた後にテストがあんのか?」
「あるヨ。でも、すっごく難しいとは思わなかったけどなー。後、定期考査みたいなテストではなかった」
「なぞなぞとか?」
「ああ、いや、まさか。あーでも、あれに似てるヨ。年に二回あるアレ」
「……IQテストか」
ご名答、パチンと神谷の指が軽い音を鳴らす。考え込むようにして緒方は顎に指を添え、視線を斜め下へと落とした。
本田のスマホに浮かぶJokerのロゴを眺め、その視線をそのまま本田自身へとずらす。首を傾げる本田に、緒方が何かを決意したように「よし」と小さく声を漏らした。
「唯、お前本当にジョーカー入るつもりだったのか?」
「えー?うん、そうだねえ。結ちゃんは入らない?」
「入らない」
「んー。でも、やっぱり興味あるしなあ。結ちゃんいないけど、やっぱり入ろうかな?」
「入ろー!ぜひぜひ!緒方がいなくても、俺がいるから何にも寂しくないし心配もないヨ」
スマホを握る本田の手を取り、にこにこと嬉しそうな笑みを浮かべる神谷。それにつられるようにして「うんうん!宜しくねえ」と本田は頬を緩めた。
「なら、入れたら教えてくれ」
「え?最初からそのつもりだけど……どうして?」
「本当に誰でも入れるのか知りたい」
「んん?誰でも入れるんでしょ?」
「唯みたいな馬鹿でも本当に入れるのかを知りてーんだよ」
「え!まさかの実験!しかも貶されてる!」
本田は露骨にショックを受けたように両手で顔を覆い、二人に背を向け酷いと繰り返し叫ぶ。
そんな本田を見てどこか満足げに頷く神谷を、緒方は訝しげに見た。
緒方の神谷という男への認識は、女好き、不真面目、馬鹿、そして得体が知れない、の四つだった。いつ見ても人を煽るような笑みを浮かべ、軽い口調で更に印象を悪くさせる。だがその見た目や素行に似合わず、根は悪い奴ではない。そう思っているからこそ、緒方は高校に入学して直ぐの一年生から神谷との交流を決して自ら断つようなことはなかった。
だが、そうは思っていても神谷という男を完全に信じきれない理由は『この学校にいるから』、その一つに限る。馬鹿なフリをしているだけかもしれない。崩さない笑みの裏では何かを企んでいるかもしれない。偶に欲しいと思っていた情報を惜しみなくくれるのは、自分を利用しようとしているのかもしれない。そういった考えが、緒方の頭の中に一瞬でも消えることなく在り続けている。
喚く本田に対して理解出来ない表情を浮かべる神谷に、緒方は意図せずとも自然と疑念を抱いた。
「何でそんな変な顔してんだよ」
「え、変?」
「嬉しそうな、満足そうな。これ見てそんな顔するか?」
顎で未だに文句を連ねながらスマホを触る本田を指しそう言うと、神谷は「ああ」と納得したように頷きいつも通りのにやけた表情を浮かべた。
「いやさあ、可愛いナ、と思って」
「はあ。あれ見てそう思うのかよ」
「可愛いダロ?お前は唯ちゃん見慣れてるから、そんなこと言えるんだヨ。唯ちゃんはどんな時でも、何をしても可愛い」
「そんなこと言ってっけど、もしアイツが裏で人の悪口すげー言ってたり、実は整理整頓や掃除が苦手だったり、ゲテモノ料理が好きだったりしたら、可愛いとは思わないし寧ろ引くだろ?」
「あーいやいや。緒方は何も分かってないナー」
呆れたように笑って肩を竦め首を振る神谷に、思わず緒方の口角が苛立ちでひくつく。
「ていうか、お前が一番よく分かってるはずダロ、緒方。唯ちゃんは何をしても可愛い、いつ見ても可愛い。それはサ、唯ちゃんが可愛くないと思われる行動を絶対にしないことが前提の話だゼ。実際、唯ちゃんは誰に対しても同じ言葉遣いだし、整理整頓や掃除も得意、食べ物は当然のように美味しい物が好きで何より甘いものが好き。見た目、声、言葉、性格、趣味、趣向。俺はこれ程までに可愛いを具現化した女の子はいないと思うけどナ」
可愛いを具現化したのが本田唯。
これは常々、神谷が言っていることだった。
確かに緒方自身、本田のそれといった欠点を今まで目にしたことはない。否、頭があまりよろしくないところや、少しばかり運動神経が芳しくないという欠点があるにはあるが、それは神谷の持論からすると欠点には当てはまらない。
何故ならそれも、可愛いに含まれるからだ。
少し人より天然な方が、ドジな方が、柔らかい雰囲気を纏っている方が、可愛いというものには当てはまるからだ。
「馬鹿が好きなんて、物好きだとは思うけどな。俺はどっちかというと、さっぱりとした性格で頭も切れて、少し棘があるくらいの奴がいい」
「完璧に美人が好きなタイプ。俺と真逆ダ。緒方は宇都宮蓮華派かー」
頭の後ろで手を組み、間延びした声で神谷がそう言ったと同時。ようやく小言を言い切った本田が、それでもまだ言い足りないとばかりに頬をぷっくりと膨らませて両腕を緒方の首へ回すようにして飛びかかった。