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いつも以上にホームルーム前の教室の中が騒がしく感じるのは、気のせいではないだろう。「聞いた?」という言葉から始まり、その後に続く話は今朝起こった出来事に繋がる。好奇心を剥き出しに、何かを期待した口ぶりで、皆が皆同じ話題を口にする。
その様子を窓際の席で肘をつき、緒方は気だるげに見ていた。あることないことを話す生徒達は、完全に浮き出っている。
「結ちゃーん。おっはよー」
「うおっ」
騒ぎ立てるクラスメイトをじっと見ているうちに、自然と寄っていた眉間のしわ。そのしわを伸ばすように二本の指が眉間に添えられ、緒方の視界いっぱいに見慣れた顔が映り込む。
近寄り難い雰囲気と、学内で残す功績から遠巻きにされがちな緒方を「結ちゃん」だなんて可愛いあだ名で呼べるのは、その緒方の幼馴染である本田唯ただ一人である。満面の笑みを浮かべ、チャームポイントと化している棒付きキャンディーを今日も飽きることなくくわえている。
突然視界に映り込んだ本田に驚き、緒方は顔を勢いよく後ろへ逸らした。驚いた表情を見せる緒方に本田は「えへへ」と満足げに笑い、右手に持っていた包みを持ち上げる。
「結ちゃん、忘れ物だよー。お弁当!ちゃんと早く学校に行けたみたいだけど、折角結ママが作ってくれたお弁当忘れちゃダメだよー」
「……ああ、悪い。持って来てるつもりだった」
「結ちゃんって、超賢いけどたまーに抜けてるよね?」
「うるせえよ。てか、あんま結ちゃん結ちゃん言うな」
本田は空席になっていた緒方の前の席に腰掛け、ぶらぶらと両足を揺らす。アメをくわえ、足を揺らすその様子はまるで子供のようだが、そんなちょっとした行儀の悪さをいちいち注意する程緒方と本田の付き合いは短くない。どれだけ本田の言動を注意したところで、その注意が意味を成さないことくらい緒方は知っていた。
「朝からすーごい話題になってるねえ。結ちゃん知ってる?」
「知ってるも何も、その現場にいたんだから当たり前だろ」
「あそっかー。結ちゃん殆ど委員会一番乗りって言ってたもんねえ。……それで?実際はどーなの?」
「お前ももう聞いて知ってんだろ」
「ええ?本当かどうか分かんないじゃーん。実際見たんなら、結ちゃんが見たものを教えてよー!」
緒方の袖を引っ張り、唇を尖らせて話を強請る。左右に揺すられながら、緒方は深い溜息をついた。
「話って、多分お前が聞いた話とそんな変わんねーと思うけど」
「それでも!」
「……今日の委員会は、定例会前に毎回生徒全員に配る資料を取りに行くことだったのは知ってんだろ。その資料が全部破られて、んで教室やら窓の外やらに捨てられてたんだよ」
「ふむふむ」
「終わり」
「え!なんでー!誰がいたとか、あるでしょ!もしかして、結ちゃんが行った時には誰もいなかったの?第一発見者?」
「いや、違う。俺がいった時には二人……いや、三人いたな」
「え、そんなにいたの?」
一番に拘りがある緒方を知る本田は首を傾げる。
「いつもは一番はえーよ。でも、今日は三人いた。教室に二人、一人は三年の白柳類。もう一人は二年の天羽雅希。後、教室前に一人、一年の……誰だっけ。ああ、雪乃千歳。知ってるか?」
「白柳先輩は有名だよねー、でも話したことはない。天羽君と、雪乃ちゃんは喋った事あるよ?お友達―」
本田の交友関係は広い。元々のコミュニケーション能力の高さと、加えて容姿の可愛さや人柄の良さからとても人に好かれた。例え隣に死んだ魚のような目をした緒方がいたところで、周りの本田への評価が下がるようなこともなく。寧ろ、あの緒方とも仲良く出来る稀有な存在だとさえ思われていた。
だが本田が「お友達」だと言うのは、あくまで本田から見ての関係性だ。
緒方は今朝見た冷たい目の天羽を思い浮かべ、目の前でにこにこ笑う本田を見た。どんな人間にも分け隔てなく接する本田は、本人が言った通りあの天羽とも話したことがあるのだろう。だが、きっとそれは一方的だったに違いない、と緒方は考えている。あの天羽が、本田のような人間を「友達」だとそう簡単に認めるようには思えなかった。
「雪乃のことは何で知ってんだ」
「え?だって雪乃ちゃん可愛いでしょ?私、可愛い子はすぐにチェックするから」
得意げにウインクして見せる本田に「あ、そう」と気のない返事をする。そういえば本田は「あー、あの子可愛い」「あの可愛い子誰?」「可愛い子たくさんいるねー」と、入学式の時にずっと言っていたことを思い出す。「可愛いを具現化したのが本田唯」といつの日か神谷が緒方に言っていた。そんな本田は当然のように可愛いものを身に着け、可愛い物や者が大好きだった。
今に始まったことではない本田の可愛いモノ好きに、雪乃千歳は巻き込まれたのだろう。ピンクのボブカットに低い身長、幼さを感じさせる容姿を思い浮かべ、緒方は「なるほど」と納得の言葉を漏らした。
「それでーえっと。結ちゃんが来る前に三人いたんでしょ?ということはー、その三人の内誰かが犯人?」
「別にそうとは限らねーけど。……けど、実は紙がばらまかれる瞬間見たんだよな」
「え!それって誰が犯人か分かってるってことじゃんー。誰?誰?」
「全部見てたわけじゃねーからな。最後の一束を投げ捨てた瞬間だけ……それをやったのは天羽だ」
「……嘘、天羽君?」
大きな目を更に見開き、本田は思わず声を潜めて聞き返した。緒方は頷き、まだ騒がしい教室を見回す。皆、それぞれの話に夢中なようだった。
「結ちゃんはさ」
「なんだよ」
「今回のこの騒動、ジョーカーが絡んでると思う?」
「ジョーカーか……」
天羽雅希がジョーカーの創設者だという噂を、緒方はつい先週聞いたところだ。友人がそれ程多いわけではない上に真偽の確かではない話をあまり好まない緒方は、そういった噂を聞く機会が少ない。天羽の噂は、緒方が聞くよりもずっと以前にされていた可能性は低くない。交友関係の広い本田がその噂を既に知っていても、何ら可笑しいことはなかった。
不安げに緒方に訊ねる本田は、友人だと思っている天羽を純粋に心配しているのだろう。いつもの笑顔を崩し妙な顔を見せる本田の額を、緒方は容赦なく叩いた。
「痛いっ!な、何?」
「馬鹿。噂なんか信用すんなっていつも言ってんだろ。天羽がジョーカーの創設者だって決まってるわけじゃねーし。それに、確かに天羽があれをやったのは確かだが天羽だけとも思いにくい」
「共犯者がいるってこと?」
「わかんねーけど。どれもこれも、確かなことはねーから断言は出来ねーよ。でも取り敢えず、疑わしいものは全部片っ端から潰して行く」
「あれ?結ちゃん。もしかして調べるのー?」
先程の不安げな表情から一変。にやにやと笑みを浮かべた本田は、緒方の二の腕をつつく。それを鬱陶しげに払いのけた緒方は、今度は本田の額を人差し指で突いた。
「痛い!また!」
「唯、雪乃と仲いいんだろ。今日か、明日にでも雪乃のとこ連れてけ。話聞くから」
「え?うーんいいけど。結ちゃん同じ委員会なんでしょ?普通に話せるんじゃないの?」
「……多分怖がられてるから、お前がいた方が話しやすいだろ」
「ほら!そんな顔ばっかしてるから怖がれるんだよー。もっと笑って?ね?ほらー」
本田は身を乗り出し、緒方の上がらない口角を指で引き伸ばす。緒方は一度、大きく息を吸い込んで深い溜息を吐く。そして本田の両手を右手で弾き飛ばし、僅かに赤くなった額へと本日三度目の攻撃を仕掛けた。