緒方結斗
今日、この日も、緒方にとっては何てことのない普通の日だった。
ただほんの少し違うとするなら、月に一回ある生徒会による定例会議に備えて配られる資料を、あの『生徒会執行委員の極秘窓口』と呼ばれる教室に取りに行くくらいだ。もう一年執行委員を務めている緒方からすれば、既に13回目となるその活動に大した新鮮味を感じることもなく、普段と変わりない一日に過ぎなかった。
ところが。
そのいつもと変わらない日常を、がらりと変える出来事がこの日、緒方を待っていた。
「え?結ちゃん明日早起きなの?起きれるの?大丈夫―?あ!なんなら私が起こしてあげよっかあ。一緒に寝る?久しぶりに寝ちゃう?そしたら朝すぐに起こしてあげられるよー?」
という幼少期からの幼馴染の申し出をすっぱりと断り、早々に就寝し寝坊などすることなく余裕を持って緒方は起床した。いつも二十分前登校をしている緒方ではあるが、この日はいつもより更に三十分以上早い登校をしていた。
委員会に慣れたとはいえ、何も期待していないと言えば嘘になる。緒方は元々、『何か』を期待して生徒会執行委員に入ったのだ。
だが生徒会執行委員とは委員会名の上部に生徒会と付いているものの、実際には全くその生徒会とは繋がりの無い委員会だった。生徒会との接触など勿論なく、任される仕事は殆ど生徒会が本来表でするべき仕事ばかり。その仕事の内容も、毎月の定例会議後にあの教室に資料が置かれているだけ。
生徒会との何らかのコネクションを期待していた緒方にとって、これ程に面白くなくつまらないものはなかった。
委員会などに入る性質では無い緒方が、態々面倒臭い委員会に入ったのにはこういった理由があったのだが、それを知らない幼馴染の本田は何事にも無関心を貫く緒方の積極性を大いに喜んだ。
面倒臭い、面白くない、つまらない、退屈だ。そうは思っていても、二年に進級して再び同じ委員に立候補した緒方は、やはり心のどこかでまだ『何か』を期待していることに自分でも気が付いていた。何の収穫も得られなかった一年を思い出し、小さく舌打ちをして腕時計を見る。針は七時五分を指していた。
家から学校が近く、人通りの全くない通学路を十五分程歩くと学校が見える。門を潜り円形状のエントランスで靴を履き替え、緒方は自分のクラスに向かうことなく真っ直ぐに目的の教室へと向かった。第三棟校舎へ繋がる渡り廊下を通り、階段を二階分上がって三階の閑散とした廊下を突き進む。見えて来た『資料室C』のプレートを目で確認し、その教室を見て緒方は足を止めた。
扉が、開いている。
緒方の歩いて来た方に近い扉が、開いていた。逆の扉を見ると、そっちの扉は閉められている。緒方は靴を履きかえた時に手に持って準備していた、扉を開けるためのセキュリティーカードを一瞥した後、ブレザーのポケットへと押し込んだ。
時計を確認する。まだ七時二十五分。電気も点けられず、薄暗い教室から僅かに物音がする。
緒方はその薄暗い教室へ近づき、一歩、中へと踏み入れた。かさりと、足元から妙な質感と音がする。
「……何だ」
何だ、これは。
そう続く筈だった言葉を、緒方は飲み込んだ。
緒方の視界に映るのは、真っ白な紙が床に敷き詰められた教室。そして、大量の紙を抱えた男子生徒が、開け放った窓から勢いよくそれを投げ捨てる光景だった。
風に煽られ、バサバサと音を立てた紙は外にだけでなく教室内でも勢いよく舞い飛ぶ。予期せぬ事態にも関わらず表情や感情を一切乱さない緒方は、視界を覆う程の紙の隙間から窓際にいる男子生徒を見た。
緒方は、その男子生徒を知っていた。
つい先週のことだ。放課後、緒方が日直をしていた時。神谷が話していた、最近学校で噂されている人物の一人。
天羽雅希。
烏色の髪が揺れ、振り向いた天羽のやけに冷たい瞳が緒方を捉える。紙が舞う中、互いに感情の見えない目をじっと合わせていたが、緒方の視界に金色の何かが映り込むと自然と視線が逸らされた。
と、同時に、窓際にいた天羽が走り出す。緒方のいる方とは逆の扉から飛び出し、そのまま廊下を走って行く。
「待て!」
そう声を荒げたのは、緒方の視界を掠めた金髪の持ち主。学校で噂されている、もう一人。白柳類だった。
緒方が気付いていなかっただけで、白柳は最初から教室にいたらしい。窓の外をちらりと確認した後、天羽の出て行った扉に向かって直ぐ走り寄る。だが、天羽を追うには既に距離が有りすぎる。
緒方は一歩しか入っていない教室から出て、天羽の走り去った廊下の先を見た。どうやら、教室の外に人がいたらしい。唖然と女子生徒が扉の前で立ち竦んでいた。緒方はぼんやりと、集会で見かけたピンクの頭を思い出す。白柳がその女子生徒に何らかの指示を与えているのを横目に、緒方は未だ廊下の先から意識を逸らせずにいた。
天羽雅希。『反生徒会組織』の創設者だと噂され、疑われているアイツは一体、今日、今、何をしたのか。
ピンクがちらつく。何かを確認するように振り返った女子生徒は、緒方を見て驚きに目を見開いた。そして同時に、恐怖や怯えがその瞳に入り混じる。直ぐに視線は逸らされ、廊下を走って行く小さな背中。
そんな女子生徒を気に掛けることもなく、緒方は一言だけ小さく呟いた。
「異常だ」
この状況に、緒方は全くと言っていい程動揺していない。驚いていない。戸惑っていない。緒方はただ、この『異常』だと言う状況にまるで武者震いでもするかのように体を、心を震わせて、口元に静かな笑みを浮かべた。
何てことのない、いつも通りの普通の日。月に一度、少し違うだけの変わらない日常。
普遍の毎日。それが今、音を立てて崩れて行く様を、緒方は嬉しそうに見ていた。