雪乃千歳
少し大きめの鏡。そこに映し出されるのはピンク色の髪に、癖の見当たらない丸っこいボブカット。目元の少し下に絆創膏が貼られて少し不恰好ではあるが、肌全体の調子は決して悪くはない。薄く色の付く薬用リップを塗り、目を何度か瞬きさせ最後の確認。鏡をスカートのポケットへ直し、制服を綺麗に整える。
「よし、完璧!」
誰に言うでもなく、そう一人で呟いた女子生徒。雪乃千歳は両手でガッツポーズを作りにっこりと愛らしく笑った。誰もいない廊下で身だしなみ確認をした雪乃は、意気込んだ気持ちをそのままに忍び足で静かに歩き出した。
身長が低く、如何にも女の子らしい雪乃は自分の身なりや行動に細心の注意を払っていた。いついかなる時も可愛くあるように、可愛く見られるように。自分が女の子であることをしっかりと自覚し、そういった努力を決して怠りはしなかった。
そんな雪乃は、つい数週間前に恋に落ちた。
入学式の時。自分の教室を確認しようと掲示板前に集まった多くの生徒に、身長の低い雪乃は埋もれてしまい人混みから弾き出されてしまった。その際、地面に頬を擦りつけるような形で盛大に転んでしまった雪乃は、あまりの痛さと恥ずかしさに暫く転んだ体勢のまま動けずにいた。誰もそんな小さな雪乃に気付くこともなければ、気付いても知らないフリをする生徒が多い中。
雪乃に、運命の出会いが訪れた。
「大丈夫か」
俯いた雪乃に、少し無愛想な声がかかった。その声の主を見上げようとする前に、雪乃の体は両腕を掴まれて引き上げられ、ゆっくりと立ち上がらされる。恐らく怪我をしているであろう頬を押えながら、雪乃は取り敢えずお礼を言おうと顔を上げ口を開いた。
「あ、あの、ありがとうございました」
「保健室はエントランスに入って直ぐのところにある。教室に向かうまでの廊下だから直ぐ分かる筈だ。お前の教室は……1‐Dだ。教室に行く前に保健室で手当てして貰ってから行け」
「え?あ、はい!」
それだけ言うと、雪乃を助けた男子生徒は人混みの中へと消えて行った。
雪乃は、ここで恋に落ちた。
男子生徒の目元は涼しく、どこか冷たく感じた。それでも落ち着いた声や自分を助けた男らしく優しい手は、十分に雪乃を夢中にさせた。
それから雪乃は今まで以上に自分磨きを頑張った。更に、男子生徒が腕に付けていた腕章をしっかりと見ていた雪乃は、彼が所属しているであろう生徒会執行委員に入った。執行委員として最初の集まりの時。全員が自己紹介をして行く中で、雪乃は自分を助けてくれた男子生徒が天羽雅希という名前で、一学年上の先輩であることを知った。
性格は決して暗くはないものの、少々上がり症なところや恥ずかしがり屋なこともあり未だに天羽に話しかけることは出来ていないが、それでも雪乃にとって天羽を少しでも見れることや知れることはこの上なく嬉しいことだった。
こんな早朝にも関わらず身だしなみを完璧にして息を潜ませるのは、天羽がいるかもしれないからだ。同じ委員会になり初めての仕事。書類を取りに行くというだけで、天羽に会えるかどうかなど運次第なのだが、それでも恋する雪乃に抜かりはなかった。
「……え!」
音を立てず、ゆっくりと、息を殺し。期待を胸に階段を上がっていた雪乃は思わず短い声を上げる。だが直ぐに両手で口を押え、階段の影にしゃがみ込んだ。
階段を上った先に、会えたらいいなと願っていた天羽がいたのだ。雪乃の思わず出た声に天羽は一度振り向いたが、誰もいないことを確認すると直ぐにまた階段を上がって行った。雪乃はその背中を見て、赤くなる頬に手を添え嬉しさに緩む口元をきゅっと噛み締める。
「いた……!」
立ち上がった雪乃は先程よりも足取り軽く、それでもやはり静かに階段を駆け上がる。今行けば『生徒会執行委員の極秘窓口』と呼ばれるあの教室で、二人きりになれるかもしれない。
軽やかに目的の階へと到着した雪乃は、また思わぬ人を見つけて驚きに目を丸める。
階段近くの壁にもたれかかり、小さく鼻歌を歌う女子生徒。薄化粧でありながら長い睫とくっきりとした目元。赤く色づいた頬に桃色の艶やかな唇は彼女の容姿を一層華やかにしている。ピンクのカーディガンを着こみ、甘栗色のウェーブされた髪はまるで痛みを知らないかのように光っていた。
女の子だ。
雪乃はその女子生徒を見て、至極当たり前でありながら最も適した感想を抱いた。
その女子生徒のことを、雪乃は知っていた。彼女は一学年上の先輩であり、この学校では少しばかり有名なあの緒方結斗の幼馴染だと言う。
そして何より。雪乃の恋する相手である天羽の想い人である。と、雪乃は思っている。
勿論本人に聞いたわけでは無いため確証はないが、天羽を想いこの数週間見て来た雪乃には何となく分かった。天羽が彼女に、本田唯という女子生徒に恋をしていることが。
「あれー?」
「へあ!」
突然。自分の爪をまじまじと見ていた本田が雪乃に気付き声をかける。じっと本田を見つめていた雪乃は、不審な自分の行動を振り返り慌てて何かを言おうとするも、なかなか言葉にはならず。思わず上げてしまった妙な声にも羞恥心が沸き、じわじわと自身の頬に赤みが増すのを感じた。
「雪乃ちゃんだー。んん?あ、雪乃ちゃんも執行委員なんだ?」
「え、あ、はい!」
本田の目線の先には腕章。雪乃は赤色のその腕章に触れ、大きく頷く。にこにこと愛らしく笑う本田は、ブレザーのポケットから棒付きキャンディーを取り出し口に含んだ。
きっと本田先輩のポケットは四次元ポケットだ。
天羽を追う上で度々見かけるようになった本田は、雪乃が見かける度ずっと何かを食べていた。でもそれは食いしん坊だからとか、そういったわけではない。甘い物が好きで、その中で一番好きな物がキャンディーだというだけなのだろう。本田のポケットからキャンディーが飛び出すのを、雪乃は何度も目撃している。
「あの、私のこと知ってるんですか?」
「んー?」
そういえばと、雪乃は首を傾げる。自分が本田を知っている理由はあるが、今まで全く接触のなかった本田が何故自分のことを知っているのか。
そのことを訊ねると、本田は「あー!」とふわふわとした声を上げた。
「私、可愛い子は覚えるからねえ。雪乃ちゃん髪の毛ピンクで目立つし、可愛いし、直ぐ覚えたよ?」
「え、可愛いなんて……先輩の方が断然、凄く、無茶苦茶、可愛いです!」
「ええ?本当?ありがとうー」
言われ慣れているであろう言葉にも、凄く嬉しそうに顔を綻ばせる本田に雪乃は更に頬を赤くする。
可愛い、可愛い。
本田は容姿が、恰好が、口調が、空気でさえ可愛かった。色合いで一番可愛いと思うピンク色の雰囲気が、常に本田からは感じられた。
「あ、これあげるね?お近づきの印にどーぞ」
そう言って手渡されたのは、コロンとしたカラフルなアメ三種類。緑、ピンク、黄色。本田の棒付きとは違い、食べやすさを優先した小さなキャンディーだ。掌にアメをのせてくれた本田の手を見ると、爪には淡いピンクのマニキュアの上に透明のストーンがいくつかのせられている。
爪先まで可愛い。凄い。
きっと、靴下の中の足の爪まで綺麗に彩られているのだろう。容易に隠された場所まで可愛さを想像させる本田は、まさに雪乃が目指す『女の子』だった。
「ありがとうございます!」
「いいえー。あ、さっきねー、天羽君もここ通ったよ?何か急いでるみたいだったけど、急がなくても大丈夫?」
「え?大丈夫だと思うんですけど……凄く早い時間ですし。寧ろ、天羽先輩が一番乗りだと思うんですけどね」
「んー?そっか。何を急いでたんだろ?」
不思議そうに首を傾げる本田につられるように、雪乃も右に顔を傾ける。
一応腕時計で時計を確認すると、まだ七時半にもなっていない。他の生徒が登校する時間帯はまだまだ先で、執行委員でさえ予定より早い時間だった。
「あれ、そういえば、何で先輩はこんな朝早くに?」
「私はねー、これ!」
「それは……何ですか?」
「お弁当だよー。結ちゃんのね?」
本田が床に置いた自分の鞄の上にのせていた包みを持ち上げて言う。確かにそれは、本田が食べるにしては大きすぎる包みだ。なるほど、届け物だったのかと雪乃は納得する。
「えっと、先輩のお名前って……」
「本田唯だよ?」
「あ、はい」
まさか当たり前のように知っていますとは言えず、知らなかったフリをして返事をする。
「あの、今、ユイちゃんって」
「あーそっか。私も唯だけど、ね。私の幼馴染が結斗って名前だから、私は結ちゃんって呼んでるのー。だから、このお弁当はその結ちゃんの」
あの緒方結斗を『結ちゃん』なんて可愛いあだ名で呼んでいるのか。雪乃は本田の隣にいるのを何度か見かけた緒方を思い浮かべて口元を引き攣らせた。どう考えても『結ちゃん』なんて呼ばれるような人には見えないし、不似合もいいところなあだ名である。
常に何を考えているのか分からない表情と、死んだ魚のような目が印象的な先輩。雪乃が緒方を見て思ったのは、そんなところだった。
幼馴染だからこそ、呼べるものであり許されているあだ名なのだろう。
「隣のお家なんだけどねー。結ちゃんママがお弁当届けて欲しいって言うから、私ももう学校行く準備出来てたし来ちゃった」
「じゃあ、緒方先輩を待ってるんですね」
そう言うと、本田はにこりと今日一番の笑顔を見せた。
執行委員の集会に緒方がいたことを思い出す。緒方に会うために、本田はあの教室に近いこの階段で待っていたのだ。
「私もそろそろ仕事して来ます!」
「そだねー。さっさと終わらせちゃった方がいいよ!」
「はい!」
ひらりと振られる手にしっかりと手を振り返し、小走りで教室へ向かう。
もう天羽は自分の教室分の資料を探し出し、教室に戻る頃だろう。教室で二人っきりは無理だろうが、擦れ違うだけなら出来るかもしれない。
期待を抱き、『資料室C』と書かれたプレートのある教室へ向かう。
教室まで、後三メートル。
「え……?」
雪乃の足が、止まった。
がんっ、と勢い付いて扉が開くと同時に、教室から風が溢れ出て来る。その風と一緒に飛んできたのは、大量の紙だった。視界を真っ白に埋め尽くす程の紙は風に舞い、徐々に廊下へと落ちて行く。
その光景を茫然と見ていた雪乃の目の前に人が現れる。教室から飛び出すようにして出てきたその人は、廊下に散らばる紙を踏みつけ雪乃の方へと走り出す。
「あ」
思わず雪乃は、手を伸ばした。
「天羽先輩」
雪乃の横を通り過ぎる時、天羽の目が一瞬雪乃を捉える。その一瞬が、雪乃にはとても長く感じた。交わった視線に何とも言えない感情が溢れ出し、驚きと困惑で開いた口が塞がらない。
「待て!」
天羽が教室から飛び出して直ぐ、身を乗り出すようにして出てきたのは金髪の男子生徒だった。天羽に向かって叫んだであろう声に、雪乃は肩を跳ね上げる。
「あ、雪乃さん。おはよう」
「お、おはようございます!あの、白柳先輩、何かあったんですか?」
雪乃の存在に気付いた白柳はそつのない挨拶をし、慌てた様子で話す。
「お願いがあるんだ。大変かもしれないけど、風紀委員を探してここへ連れて来てくれないかな。僕は今ここを離れられないから」
「え?あ、わかりました……!」
「一応、今校舎下に同じクラスの女の子を見たから、その子にも声をかけて探して貰うよ。ごめん、お願いね」
そう言うと慌ただしく教室へ戻り、窓から外へと何か声を張り上げている。恐らく校舎下にいた同じクラスの女の子に声をかけているのだろう。
何が起こったのか全くわかっていない雪乃ではあるが、取り敢えず頼まれた通り風紀委員を探すために元来た道に向かって走り出そうとする。
が、雪乃は再び資料室のある方へと振り返った。教室へ背を向ける間際、何かが視界を過ったのだ。
振り返った先。そこには、緒方結斗がいた。天羽や白柳が飛び出して来た扉とは逆の扉の前に、緒方は無表情に佇んでいた。
死んだ魚のような目。誰もがそう表現する緒方の目だが、雪乃はその目を見て改めて思った。生気の無い瞳程、怖い物はない。
雪乃は今度こそ走り出した。自分は何も見てはいない。何も悪いことはしていない。そう自分自身に言い聞かせ、緒方のその無感情な視線から逃げた。
走り出す前の雪乃の視界が最後に捉えたのは、ニヒルな笑みを湛えた緒方の表情だった。