宇都宮姉弟
第三棟校舎。そこには教科ごとの準備室や物置、第二棟が出来たことで使わなくなった特別教室がある。そして『生徒会執行委員の極秘窓口』と呼ばれる教室もこの校舎に存在した。
そんな第三棟は殆ど機能しておらず、生徒はおろか教師でさえ本当に用事が無い限り誰も踏み入らない校舎だ。ここに来る理由としては『生徒会執行委員』の仕事か、若しくは教師に頼まれて生徒が授業用の教材を取りに来るか、それとも。
それとも、誰も使わなくなった特別教室を学校生活の拠点とした彼に会うためか。その三つに限られている。
「相変わらず薄暗い部屋ね」
コンコン、と。ドアを叩く音がしたのはそんな皮肉の言葉が聞こえた後だった。薄暗いと言った部屋には廊下からの明かりが差し込み、一気に部屋の雰囲気を打ち壊す。「お邪魔してます」とよく分からない挨拶の後、静かにドアが閉められることで部屋はもとの薄暗さを取り戻した。
肩にかかった真っ黒で長い髪を手で流し、膝下まであるスカートを揺らしながら宇都宮は一番近くのオフィスチェアに腰掛けた。回転するその椅子で少し体を左右に揺らしながら、宇都宮は教室の奥にある青白い光へと薄く笑い掛ける。
「せめて電気くらいつけたらどう?目が悪くなるわよ」
「アンタはせめてノックからしてくれ。ドアを開けて文句を言ってからノックっていうのはどうなの」
擦れたような声が返って来る。不機嫌そうなその声に、宇都宮は更に笑みを深くした。
沢山のパソコンが何十台も並ぶ長方形の教室。だがそのパソコンはどれも旧型のもので、今は学校教育で使われていない。新型のパソコンは、新しい教室と設備が整うと同時に第二棟校舎へ設置された。
使われなくなったこの教室は暫くの間活用用途の見込みがなく、閉め切りの状態を予定していた。ところがそれを知った彼は、学校に損害になるようなことをしないことを条件に、この教室の使用権を教師から貰ったのだ。
彼は教室を手に入れると早速、ホワイトボードの真ん前にある大きな教員用デスクに必要機材を持ち込んで組み立て、見事に教室を自分のアトリエと化した。六つのディスプレイを上下に並べ、キーボードも二つある。彼の足元付近からは、大きなパソコンのコアが低い音で唸りを上げていた。
「何か用?」
「用がなくちゃ来てはいけないの?」
「何か用がないとアンタは来ないだろ」
「アンタって呼び方、他人行儀ね。いいのよ?お姉ちゃんって呼んでも」
その言葉に、ずっとパソコン画面を虚ろな目で見ていた彼は口を歪めた。
彼もまた、『宇都宮』だった。
姉である宇都宮蓮華と弟である宇都宮葵。彼ら姉弟は、学校では対象的双子姉弟として有名だった。姉は不眠症、黒い髪、辛い物が好き、国語が得意、社交的、几帳面。弟は過眠症、白い髪、甘い物が好き、数学が得意、非社交的、大雑把。共通点と言えば、不健康そうな真っ白な肌と優秀な学力くらいだと言われていた。
そんな宇都宮姉弟が会話らしい会話をしているところは、誰も目撃したことがない。また本人達も意図的ではないものの、二人にとって『砕けた』と言っていい会話はこの教室か若しくは自宅でしかされていなかった。
「まあ、そういった家族らしい会話はまた後でにしましょう」
すっかり口を噤んでしまった葵に他に何か言うでもなく、蓮華はあっさりと「お姉ちゃん」呼びについての会話を打ち切った。
「先週緒方君が叫んでたわ。また十位だって」
「叫んでた?」
「嘘。叫んではいないけど。そうね、私の応接室に来て暫く不貞腐れて昼寝するくらいには、怒っていたしショックを受けていたわ」
「昼寝出来るくらいなんだからそれ程ダメージはないんでしょ。それで、いつも通り聞かれたんじゃないの?」
「いつも通り聞かれたわね。もうあの紙焼却炉で燃やしちゃった、って言ったわ。まさかそんなこと、信じていないでしょうけど」
「実際は?」
「ここ。家に置いて来るのを忘れてたわ」
鞄から取り出されたのは、水色の封筒。一度葵に見せるように封筒を持ち上げ、直ぐに机の上へと置いた。
「きっと『役員』に大きな変動はない。根拠は何もないけど。ただ、私たちが二年になって面白い噂が二つも広がり始めるなんて。どういう偶然とタイミングなのかしら?」
「噂?」
「葵も知ってる筈でしょう。私が聞いて知っているように、葵も見て知っている筈なんだから」
薄い唇で弧を描き、蓮華は机に置いた封筒をまた手に取ってそれを真っ二つに破った。葵はその破られた封筒を見た後、視線を二つの画面へと向ける。そこには二つの噂の渦中。二人の生徒が、青白い光を帯びて映し出されていた。
「どちらも興味があるけれど、特に私が興味あるのは黒髪の彼。そう、あの――」
「待て!」
楽しげに話していた蓮華の声が、突然遮られる。
遠くも近くも無い距離から、何かを引き止める声が聞こえた。ばたばたと足音が一つ、上から聞こえるのを確認した二人は、意味もなく薄暗い教室の天井を見上げる。
何の物音もしなくなった数分後、じっと上を見上げていた蓮華が口元を制服の袖で隠して小さな笑い声を零す。あまりに珍しいその様子に、葵はクスクスと笑い続ける蓮華を訝しげに、だが興味深げに見ていた。
笑いをある程度治めた蓮華は、まだ緩む口元を気にしながらちらりと葵を見やる。
「上は丁度『生徒会執行委員の極秘窓口』ね。もしかして、彼が何かやらかしたのかしら」
「何でアンタ、そんな楽しそうなの?」
「え?どうして?」
「これはもしかしたら、俺達を脅かす『何か』かも知れないだろ」
「まあ、そうでしょう。そうだから、楽しいんでしょう?」
小さく首を傾げ、蓮華はやはり綺麗に華やかに笑う。
「今まで崩れなかった均衡が崩されるタイミングが、どうして今なんでしょうね」
「さあ。全く分かんない。ただ俺には、生徒会を目の敵にして今にもぶっ潰そうとしている緒方が、とんでもない疫病神に見えるよ」
「あら、緒方君は噂の子じゃないわよ?」
「白柳が怪しかろうが、天羽が怪しかろうが、俺にはその二人よりよっぽど緒方が怪しく見える。俺は一番、誰よりも、アイツを疑っている」
「珍しいわね、葵が自分からそんなにも誰かに注目するのは。でも良いことね。この学校では不用意に人を信用してはいけない。ダメよ?緒方君の妙な主人公気質に惹かれたら」
「それはアンタ自身に向けるべき言葉だろ」
薄暗い教室。ざわめき出す教室の外。慌ただしい足音がいくつも廊下を駆ける中、ふと葵は乱雑に床に放り投げた自分の鞄を見た。そこには適当に押し込まれた教材やプリント類が溢れ出ている。そこに、見覚えのある青い封筒。手を伸ばしてその封筒だけを抜き取ると、葵はどこか楽しげに椅子で遊ぶ蓮華を一瞥し、一気に封筒を真っ二つに破いた。
姉である蓮華の封筒と全く同じ状態となったそれを葵は再び鞄に押し込み、光を放つ六画面へと向き直る。
まだ、始まったばかりだ。
笑顔に慣れない葵の口元が、歪に形を変えた。