病気は治る
サァ、どうぞお掛けください。
三週間ぶり、でしょうかね。土日祝日はウチもやってないんで、前回は薬も多めに持っておいてもらいました。薬ってのは往々にして対症療法ですからね。なかなか根本的な解決っていうのは難しいわけですよ。特に脳ってやつは厄介でね、現代の医学じゃあ碌にコントロールもできゃあしない。頭痛ひとつ解決できないなんて、大言壮語にも程があるってもんです。やたらめったら難しい言葉を並べ立ててね、こうやって手を合わせて、偉大なる脳髄様に向かってお追従を述べるわけです。ニューロンがどうした、シナプスがどうした、ってね。私らにできることと言ったら、その神様がお造りになった偉大なるブラックボックスをうちわで扇いでやるくらいなんですよ。どうぞ、お気を悪くしないでくださいね、って。
いえ、決して悲観しているわけじゃないですよ。ただ、現状を過信したって仕方がない。できることはできるし、できないことはできないわけです。もちろん、できることは精一杯やらせていただきますよ、ハイ。越権行為だって、神様がご立腹にならないくらいにね。
薬はどうですか? 少しは落ち着きました? あぁ、ダメですか。一応不眠もあるということで、デパスとメイラックスを処方しておきましたが、なるほど、夜は眠れるようになりましたか。そりゃあよかった。眠りはあらゆる健康の基盤ですからね。
気持ちのほうは相変わらずですか? ウウム、薬は合う合わないがありますから、少し変えてみましょうか。デパスは少し効果が出ているようなので、メイラックスの代わりにレキソタンを出しておきますね。ちょっとそれで、様子を見てみてください。
いやぁ、そう直截的に訊かれるとね、結構参っちゃいます。現代医学が如何に未成熟で幼稚であるかということをつまびらかにしなければならなくなってしまいますから。脳を操作する特効薬でもあれば、私としても少しは自信を持てるんですけど。ええ、ええ。おっしゃる通りです。患者さんの立場からすれば、医学の事情なんて知ったこっちゃないですよね。患者さんは誰もみな治りに来ているのであって、未来の医学へ貴重な臨床データを供給するために来ているのではないですものね。
ご存知かもしれませんが、脳はニューロンという神経細胞でできてまして、ニューロンとニューロンの間にはシナプス間隙と呼ばれる隙間があります。で、その間を電気信号が行き来することで脳は活動しているわけです。そうですね、ニューロンを陸地、シナプス間隙を川としましょうか。そうすると、川を渡るためには橋が必要になりますよね。これが『神経伝達物質』というわけです。ちょっと乱暴な説明になりましたが。
この説明だと、神経伝達物質はニューロンとニューロンの橋渡しのためになくてはならない物質、ということになります。しかし、脳というのは摩訶不思議なもんでして、これが過剰に分泌されるということがかえって不具合を招いたりすることがあるんです。
要するに――そうですね、こう考えてみてはどうでしょう。ニューロンはそれぞれ国家です。それはシナプス間隙という国境によって分かたれている。であるならば、あちこちに橋をかけられたのではそこから自由に出入国が可能になってしまいますよね。これでは困るわけです。きちんと国境検問所でパスポートやビザのチェックを受けて、正当な手続きを踏んで行かなければいけません。だから、橋を過剰に建設されるのは都合が悪いということになります。
端的に言えば、貴方の脳は今、この脳内物質が過剰に分泌している状態です。セレトニン、ドーパミン、ノルアドレナリン。このような物質が過剰になると集中力ややる気の向上、精神の安定などさまざまな症状が出てきます。十代、二十代くらいであればまぁよくあることなんですけどね、貴方のように五十代、六十代では千人に一人と言われています。
ナァニ、心配には及びませんよ。今期良く薬物療法を続けていけば治る病気です。先ほどの話と矛盾するようですがね、統計は理論よりも先に来ることが多いんですよ。『どうしてかはわからないけど治るという実績はある』というようなね。漢方だってそうでしょう。『気』なんて概念は近代科学に立脚すれば極めてナンセンスなものかもしれませんが、漢方による治療は一定の成果を挙げている。神様の真似事がどこまで通用するか、というところでしょうナァ。
人間は有性生殖によって繁殖します。若いオスが若いメスに対して求愛し、性行為を経て出産に至る。この繰り返しによってより優秀な遺伝子を残そうとするわけですな。若くなくなった個体は、役割を終えたということを自覚して速やかに命を絶つ。本来であればそうなるはずです。女性であれば四十代、男性でも遅くても五十代半ばくらいにはその意識が芽生えるというのが一般論ですね。活発に活動していた脳内物質は沈静化し、純粋で安寧な死への希求だけが残る。だからこそ、ヒトは幸福な気持ちで自殺することができるのです。
死は怖いですか?えぇ、そうでしょう。でも、心配は要りません。あなたが死を恐怖する気持ち。それは病気です。病気なのだから、治すこともできます。時間はかかるかもしれませんが、焦らず、ゆっくり、治療していきましょう。
同年代の方々はもう皆さんとっくに集団処理場に行ってしまいましたよね。寂しい気持ちもお察しします。私がきっと、あなたを安らかな冥府へと誘ってみせますよ。これでも医者のはしくれですからね。精一杯、やれることをやらせていただきます。