僕と紫煙の人
「ったく、レオは何を教えてんだか。テティス、お前そこまでヘタクソだったか?」
トライバーを睨み上げる険しい色を秘めた瞳が激しく揺れた。テティスの纏う雰囲気が愉しげなものから一瞬の油断も出来ない固いものへと変貌していく。
「お?俺のことは覚えてんのか。まあそら忘れねえよな、何たってお前に“それ”を教えたのは俺なんだからよ」
「《…主様に手を出すものは、全て敵》」
何処からともなく、死へと向かう音が流れ始める。
それは哀しい旋律。失う悲しみを乗り越えて強くある女召使いの音色。観客をも惑わせる魅惑の詞を呟くように歌えば、死体の山すらも豪邸へと変わっていく。
その詞を歌えば、そこは誰にも犯すことの出来ないテティスの独壇場へと様変わりを果たす。
辺りを染める濃い血の匂いに乗せられた少年は舞う。
ほぼ一太刀で絶命した黒仮面の身体を執拗に傷付けながら、酒場を軽い足取りで廻っていく。
ふと、テティスがトライバーに向き直る。アメジストの瞳とかちりと視線が合わさると、それが合図とでも言うようにテティスの背後の死体たちが一斉に身を起こした。
それは異様な光景だった。確かに絶命したはずの死体が、此方へ向かって歩いてくる。生前の俊敏な動きと比べればなんてことない速度だが、それでも確かに彼らの瞳に敵として映り込んでいるのはトライバーだ。非日常な光景の現実に舌打ちをした。
「へえ、随分とタチの悪いところまで昇華させちゃって。お前はそれでいいのかよ、テティス」
「《私…私はモルジアナ。アリババさまを守らなきゃ…》」
「ちげえ、俺が聞いてんのはお前にじゃねえ」
くわえた煙草に火を付けた。立ち上る紫煙が、天井に溶け込めずに漂う。トライバーの紅い双眼がテティスを貫く。
ぐらりと視界が揺れた。それはテティスの眼前だった。夏の陽炎のように風景が掻き混ぜられていく。
「…ッ、」
「そのまま寝ちまいな」
ふっ、と大きな圧が酒場を覆う。何もかもを溶け込ませるようなテティスの演舞を掻き消すような、ピンと糸を張り巡らせた緊張感。睨み合ったのは一瞬であったのかもしれない。しかしテティスのアメジストが急速に色を無くしていく。
寝る、というよりは失神して力が抜けたように倒れこんだテティスを右肩に抱え、煙草を吹かす。
「ったくよォ、俺はもうアザレアの所属でも何でもねぇんだぜ」
「トライバーさん…テティスは…?」
倒れた状態のままのシーヴァが弱々しい声で尋ねる。
「大丈夫だよ、少し寝かせただけだ。目が覚めたらお前の知ってるこいつに戻ってるさ」
「よかっ、たぁ…」
力なく微笑んだシーヴァの体を支えて、トライバーが呪を唱える。ぽっ、と大きなシャボン玉のようなものが3人を包み込んだ。そのまま幾分か空中へ上がっていく。シーヴァは掠れた眼で辺りを見回す。
「移動魔法だ…」
「使い古しのモンだけどな。まあ怪我人抱えて移動するなら無いよりはマシだろ」
トライバーが吐き捨てた煙草の吸い殻が、膜を破って落ちていく。それが酒場の床へ横たわった時、すでに3人の姿は何処かへと消え去っていた。