君と回旋曲
「っは、どこまで…」
追いかけてくるの、と続く言葉を呑み込んだ。答えの返ってこない問いはじわりと精神を蝕んでいく。事情が分からない今、ここで足を止める訳にもいかないのだ。しかし人間らしい感情の垣間見えない追跡者たちは、速度を落とすこともない。人混みに紛れ込めたから良かったものの、追いかけられていることに変わりはない。
アリッサの言った“あいつ”のいる場所まであと少し。普段であれば頼ろうとしない彼の話をするなんて、自分たちでは到底太刀打ちできない問題なのだろう。
その時、ヒュッと何かが頬を掠めた。目の前の壁に深々と突き刺さったそれは、もし当たり所が悪ければ命を落としていたかもしれないような鋭利な刃物。それを目前にして、シーヴァは眩んだ。見たことの無い形状であるということが、更に恐怖心を加増させる。
「テ、テティス!もう少し…もう少しだからっ!!」
流れる血は、敢えてそのままにしておいた。拭ったら意識してしまうから。ここまで来て止まりたくはないから。
ようやく見えてきたのは、街の中でも特に大きな建物。ミネルヴァの中心に位置するそれは、所謂酒場という名の冒険者たちの溜まり場であった。昼も夜も関係なく賑わうそこに、シーヴァは足を踏み入れる。いつもなら顔をしかめてしまうほどに嫌いなアルコールと煙草の匂いが、この時だけはいやに安心できた。
「トライバーさん、助けて!」
言うが早いか、今度は酒場目掛けて先程の刃物が投げ入れられる。それも一本や二本の沙汰ではない。数十本単位で狙われたそこは、一瞬にして楽しい語りの声をを叫びや呻きに変えてしまう。
「あ…あ、ああ…」
「…許せない」
ゆら、とシーヴァのすぐ横にあった影が揺らいだ。それは今まで見たことがないくらい蒼白な顔をしたテティスだった。テティスは床に刺さった飛苦無を引き抜いて両手に構えると、酒場へ足を踏み入れた黒仮面の集団へと向き直る。
それは合図だ。死へと向かう回旋曲の始まりの合図。見たこともないような美しい表情を覗かせて、テティスはにこりと微笑んだ。
くるくると危なげないステップで廻る、近付いていく。それは賊を屠ったという美しい使用人と同じ足踏み。
薄布が、魅える。タン、と聴こえるはずのない音に乗せ、テティスの体が深く沈む。
ずぶり。
黒仮面の肌を掻き斬る音。下から上へ、血飛沫と同じ流れで立ち上がるテティスの顔は、黒々とした血液で濡れていた。アメジストの瞳だけが浮き出るように冷たく肉塊となったものを見ている。にたりと笑ってみせたその顔は美しくもあったが、気を失いそうなほどの凶悪さを孕んでいることもまた間違いではない。
「テ…テ、ティス…?」
「《ねえアリババさま。悪い盗賊たちは全て、この通り!ほら!》」
あははは、と笑い続けながら、テティスは舞う。黒仮面が悲鳴すら発しないことも、その情景を芸術品のように仕立て上げる一つの要因だった。骨を断つ音、血の噴き出す音に紛れて、小さな歌声が反響する。アルトボイスは笑っているようだった。
「あ…や、や…」
それでも目を離せないのは、やはりその光景に魅せられているからという他ない。手放しそうになる意識をどうにか持ちこたえて、シーヴァは刮目する。
いつの間にか、酒場には自分たちと黒仮面の集団だけになっていた。それももうほとんど屍と化しているのだ。静けさが辺りを覆う。
テティスが此方を振り向いた。その調った顔立ちを悪魔のように歪めた彼は、静かにこちらへと足を進める。ヒタ、ヒタ。血溜まりを歩く音。加速する恐怖と共に近付いてくる小さな足音。かちりと紫色の瞳と視線が交わる。その瞬間力の抜けた背面に、何かが当たる。壁にしては柔らかくて温かいーーーそれは人の感触だった。
「……ひっ」
「おっと、叫ばれたら困るぜぇ。アザレアの泣き虫坊主よぉ」
思考回路の追いつかない頭をぐしゃりと撫でられて、シーヴァの頭上から聞き覚えのある声が降り落ちる。噎せかえるような血の匂いを掻き消すほどの強烈な煙草の匂い。先程までとは違う、とてつもない安心感に全身の力が抜けていく。
「と、らいば、さ…」
「遅くなって悪かったな。客は避難させたから、あんまり難しく考えんでいいぞ」
客がいなくなっていたのは、トライバーが逃げ道を先導していたからだ。しかし衝撃で朦朧とした意識で、耳にしたことなど、全て抜け去ってしまう。シーヴァがその事実と命に別状がある者がいないということを認識するのは、その後手離した意識が再び戻ってきたときであった。深い眠りに落ちたシーヴァを横にして、トライバーはテティスの方へと向き直る。
「さて、話をしようじゃねえか若造」
テティスの狂気を孕んだ淡紫が、目の前に立つ男の姿を捉えた。