君と外灯
シーヴァ・クライトンはテルプシコレ南東区に住んでいる。元々は両親と妹と4人で暮らしていたが、シーヴァがアザレア劇団に入団を決めたのと同時に一人暮しを始めたのだ。
家事は得意な方で、特に料理は劇団の中でもおいしいと評判の腕前だ。しかし練習後にすべてをこなすのは流石に辛いので週に3回ほどは実家から母親が手伝いにやってくる日がある。
小道具担当の話し合いが終わったのは今から一時間前、宵の刻のこと。白熱した議論の後、先輩おすすめのパスタ屋に食べに行くことになったのだが、シーヴァは母親が来る予定があったので、やんわりと断りの返事を入れた。
そして、それは市場へ寄って帰っている道中の公園でのことであった。ふと、自分が幼い頃遊んでいた公園が気になった。普段なら気にも留めないことだ。街灯だってベンチの上に1本しか立っていない薄暗い公園で、シーヴァの帰宅時間にはいつも子どもなんて居なくなっている。
けれど誰かいるような気がして、足を止めた。ただなんとなくだ。それだけで体を向けた街灯の下に、彼をみつけたのだ。
「…こんな時間に何してるの、テティス?」
「おう、シーヴァか。おつかれ」
「お疲れさま…ってそうじゃなくて。どうしたのさ、こんなところで」
「何て言うか…練習?」
落ち着かなくてさ、とはにかむテティスは汗だくでこの暑い中長い時間外にいたのだということが分かる。市場で買ったばかりのココナッツの甘いジュースを渡してやると一気に飲み干した。
「んー!やっぱルミナ婆のココナッツジュース最高だな!サンキュー、シーヴァ!」
「どういたしまして。テティス、もしかして発表が終わってからずっとここで練習してた?」
「おう、何かぼーっとしてると色々考えちゃってさ。じゃあ動こうかなー、みたいな」
ようやく男らしさの垣間見えてきたアルトボイスで、悠々と旋律をなぞるテティスの声が、シーヴァは好きだ。誰にも真似できない圧倒的な表現力は、空を駆ける鳥や、海を交差する魚を眼前にふと浮かび上がらせる。真っ暗闇の先の見えない公園の街灯の下でも、それは変わらない。
「僕は、テティスの演舞好きだよ。すごーく、好き」
「なんだよ突然、照れるじゃん」
「羨ましいなって思うよ、僕は歌とか踊りとか、演舞自体が向いてないから」
「俺はたまたまアザレアのやり方があってただけだって。レオとアリッサには感謝してる」
「僕、テティスの演舞を見て、アザレア劇団に入ろうって思ったんだ!」
立ち上がってテティスを振り返ると、アメジストの大きな瞳がこちらをじっと見つめていた。ふんわりと柔らかいブロンドが風に晒されて異国の王族のような高貴な雰囲気をも匂わせている。
「僕は小さい頃からオリンポスの勇者様たちが大好きで、いつかオリンポスに入るのが夢だった。でも僕は剣も魔法も向いてないし、体も弱いから入団することは叶わなかった」
「でもさ、シーヴァはすっごく器用じゃん。誰にも真似できないくらいの細工作れるし!」
「うん、それだけは誰にも負けない。でもさ、やっぱり夢ってあるじゃない。悔しくて悔しくて堪らなかったよ、ああ、僕は誰の勇者さまにもなれないんだって」
「それは…」
「そんな僕に勇気をくれたのが、テティスなんだよ」
限られた照明で、この世に活きる何億もの色を魅せる能力。悲しみも喜びも、全てを共有させる魔法のような声。やっぱり自分では叶わない。だけどその気持ちを悲壮から救い出してくれたのもやっぱりテティスで。
「だから、僕は勇者さまを支えていきたいと思ったんだ。勇者さまに全身を愛されているテティスの役に立ちたいって、心からそう思えたんだ!」
「シーヴァ…」
「《さあ、共に行こう。勝利は勇気の先にある》」
ぎこちない台詞回しで腕を掲げるシーヴァは、それでも楽しそうな表情でまっすぐにテティスを見た。テティスはその瞳に、星を見たような気がした。
テルプシコレには昔から言い伝えがある。真実の勇気と優しさを知るものは瞳の中に星を瞬かせて、助けを待つ誰かの為に生きているのだと。
「《ああ勇者様、貴方の中で胎動する星が羨ましい。どの星よりも、強く瞬いていられるなんて》」
「ふふ、テティスなら乗ってくれると思った!」
「第三幕?」
「お、さすが!そうだよ、僕はこのシーンが一番好きなんだ。カナエ様がアイナ様を旅に連れ出すとき、どんな気持ちだったんだろうってずっと考えてた。言ってみたかったんだ、この台詞」
ちょっと恥ずかしかったけど、とはにかむシーヴァの瞳の奥に眠る星。勇者様じゃなくたって、誰にでも可能性がある未知の輝き。悩みが砂塵のように飛び散っていく。
「…シーヴァ、俺やっぱ何にも考えない方が向いてるかも!」
「今頃気付いたの?僕ずっと前から知ってるよ!」
「俺の中にも、星があると思うか?」
外灯一本の灯りが、いつの間にか満点の星空の輝きへと変わっている。きっとこんな風に、瞬いていく。
シーヴァは星を見ていた。星空の中に確かに存在する、何よりも輝く一番星。自分が何よりも希望を抱いてきた、星の棲み家。
「当たり前じゃん!」
「じゃあ、見ててよ」
流れていない筈の旋律が奏でられ始める。星も舞うような夜空は荒波を越えた海原となり、成長途中の少年は瞳の奥の星を勇者のそれのように瞬かせる。
息を呑むような瞬間は、紫の瞳が自信有り気に振れたことで終わりを告げる。汗が一筋、シーヴァの輪郭をなぞった。これが、これこそが自分が夢にまで見た星の瞬き。成りたいと、欲しいと渇望した輝き。
これから先、ちかちかと瞼を刺激する灯りを独占することは出来なくなるだろう。だけどたくさんの人に、知ってもらえる。彼だけの輝きを。幸せの導きを。
「やっぱりテティス、最高だね!」
「当たり前!」
こつん、と拳がぶつかる。小柄なシーヴァより一回り大きなテティスの手は白魚のように滑らかだ。幼い頃から物作りに費やしてきた時間と豆だらけのこの手は自慢だが、やはりこんなに綺麗な手と並べて見ると、恥ずかしい。
「俺はシーヴァの手も最高だと思うぜ」
「なぁに、それ」
「職人って感じ?ちっちゃいのに」
「ちっちゃいのに、は余計!」
怒ったつもりなのに、テティスに笑って躱される。
敵わないなと、いつも思うのだ。欲しい言葉をくれる。何も見てないふりをして、いつも誰よりも傍に居てくれた一番の親友。
「あー腹減った!」
「今日スープスパだけど来る?」
「え、いいの?やった!ちょい辛めで!」
「分かってる」
「んじゃ、そろそろ行くか」
荷物を持って、並んで歩く。少しずつ離れていく外灯に、シーヴァは憧憬を抱いた。