桜船
一本の大きな桜の木。満開のピークはもう過ぎ去り、葉と花が入り乱れている。その桜の木に立てかけられている看板には味気ない文字で「平成26年度〇〇高校入学式」と書かれている。そして、その横には新生活の入口となる校門がある。息を深く吸い込むと、ぼんやりとした青空と舞い落ちる花びらが見えた。華の高校生活、どんな風に過ごせるのか楽しみなのと不安なのと、気慣れていない新しい制服のズボンのポケットの携帯電話を握り締めた。意を決して、一歩。校門を通り抜けようとすると、ドーンっと背中に衝撃が走った。体制を崩し、よろめきながら門をくぐってしまった。
「ごめんなさい」
ぼそりとした微かな声。その姿を見ると、少しばかり絶句した。小柄な女性、ただ黒いとんがり帽子と黒のローブを身に付け、魔女のような姿をしている。前時代的な格好のような気もするが、なんにせよあまり関わらない方がいいと感じた。
「いえいえ、お気になさらずに~」
簡単に答え、その場を去った。少女が呼び止めようとしたように見えたが、僕は昇降口へと足を早めた。
教室は一年二組、中学時代に親しい友人もあまり居なかったので、このクラスに知っている顔はない。高校では、内気な自分とおさらばして、新しい自分になりたい。しっかりとした自分を持って、いろんな人と仲良くしたい。自分の教室に足を踏み入れ、黒板に書いてある自分の席を確認し、そこに向かう。鞄を置くと、隣の席の男が声を掛けてきた。運動部だったのだろうか、ガッチリとした体つきで僕よりも一回り以上大きく見える。お互い簡単な自己紹介をすると、向こうが中学は野球部で高校でも野球をするつもりだ、と話した。グイグイ話す性格らしく、人見知りがちな僕にはありがたかった。
「そうだ、LINE教えてよ」
「LINEって何?」
「えっ!知らないの?ちょっとスマホ貸して」
僕は男の言葉に頷き、ポケットから携帯電話を取り出した。スマートフォンではなく2つ折りの携帯電話。今だとガラケーと呼ばれるらしい。
「おお!ガラケーじゃん、うちの母ちゃんですらスマホなのに、珍しいね」
男はニカッと笑いながら言った。
「変かな……」
「いやいや、ぜんぜん。今ダウンロードするから待っててな」
彼は、自分のもののようにスムーズに操作する。機械音痴の僕よりも、触り慣れてないはずのガラケーの扱いが上手なように感じた。
ドアがガラガラと音を立てて開く。ダウンロードしている時間のちょっとした沈黙も手伝い、ドアの方に視線を向ける。黒いとんがり帽子が見えた。時間が止まった気がした。彼女の視線が僕の視線と交わった。表情がわかりにくいが、ちょっとだけ笑った気がした。
「おいおい、アイツなんなんだよ……」
隣の男が戸惑った声を出す。やっぱりこういう反応になるんだなと感じながら「さあ、わかんない」とだけ答えた。
「こっちに近づいてきてない?」と言われ、彼女の方を再び見ると、とんがり帽子は間違いなく僕に向かって歩いていた。どうしよう、僕が何かしたっけ?と不安に感じていると、このクラスの担任らしき人物が「廊下に並べ!体育館に移動するぞ!」と叫びながら入ってきた。チャンスとばかりに席を立ち、廊下へ出た。とんがり帽子に隠れた表情はわからないが、こんなふうに避けるのは少し後ろめたかった。
廊下で出席番号順に並ぶ。彼は、僕よりも少し番号が小さいので、間に5人挟んで前に並ぶ。
「あっこれ、返すよ。ダウンロード終わってるから設定をパッパッパとやっちゃって」
手渡された僕の携帯電話。そこにストラップがないことに気がついた。王冠のついたカエルのストラップ。愛くるしい形となんとも言えない表情に一目惚れして以来ずっと気に入っていたものだ。
「いや、俺が借りた時にカエルなんてついてなかったよ」
ストラップの糸が切れていたから、どこかで落としたのだろう。今朝は間違いなくついていたはずだ。気に入っていたのにな、がっかりと肩を落とす。列が体育館に向けて歩き出した。
体育館にはパイプ椅子が並べられており、新入生はステージに近いところに座った。在校生は入口の方で既に座っていた。入学式は進行していく。校長先生の式辞、来賓の紹介など、順調に聞き流す。新入生代表挨拶、司会が次のプログラムを読み上げる。あくびを我慢していると、自分のクラスからとんがり帽子が立ち上がった。あの格好のまま来んだとか先生も何故あの子を選んだのかなんて疑問が湧き上がる。少女はスタスタとステージに上がり、帽子を脱いでお辞儀した。突然、魔女の格好をした少女がステージに上がり、体育館はざわめいた。それを意に介すこともなく、マイクをトントンと叩く。そしてマイクを花束へと変えてしまった。会場がどよめく。「おお!」だの「あの子本物?」だの「タネがあるんだろ」だの様々な反応がある。花束をとんがり帽子の中に入れ、指をパチンと鳴らす。すると5羽の白い鳩が飛び出す。平和の象徴はくるっぽーくるっぽーと鳴きながら体育館を飛び回る。僕はステージを、魔女の姿の女の子をじっと見つめた。不思議な子だ。しっかりした自分の世界を持ちたい、漠然とそう変わりたいと思っていた僕は、あの子に釘付けになった。周りでは鳩を逃がすために教師たちが窓を開けるため、せわしなく動いている。司会者が彼女に挨拶するように促す。彼女は司会者の方に視線を向け、口をパクパクと動かした。その動きは「マイクがない」と言っているように見えた。件のマイクはちょうど最後の1羽が外の世界へと飛び立ったところだ。新しいマイクがセットされ、彼女は咳払いを一つ。ローブから綺麗に畳まれた紙を取り出し、それを読んだ。内容は意外と普通で、先程の光景がまるで嘘かのようだった。
お辞儀をしてステージを降りる。ぺちゃんこになった髪をとんがり帽子で隠す。自分が座っていた場所まで戻り、着席する。目が離せなかった。何かやってくれるのではないかという期待と、それ以上に何を考えているのかが気になってしまう。入学式は気を取り直して、再び進んでいる。在校生の代表が僕たちを迎え入れてくれる旨の話をしているらしい。
式もいよいよ終わり。校歌斉唱を残すだけである。新入生は立ち上がり回れ右。在校生の方へ顔を向けた。手元には校歌の歌詞があるが、聞いたこともないし歌えないだろう。ピアノの伴奏が始まる。歌詞を見たときにも感じたが、古臭い歌ではなく今風のポップな校歌だった。パンと、ピアノ以外の音がした。まさか……と直感し、とんがり帽子の方を見る。顔の前で手を叩いたのだろう姿勢で止まっている。今のところ何も起こっていないようだが、何もないということはないだろう。周囲をキョロキョロ見回すが、何も変化がない。視線を前に戻すと上級生の表情が呆然としている。口を大きく開けている。メロディーが校歌ではなく、昔よく聞いた曲に変わっている。上級生の視線を追うと、音楽の先生であろうピアノ演奏者が大きなカエルになっていた。パンっとまた一つ大きな音。今度は何が起こるのだろうか。上級生を見ると全員カエル。緑の小さなアマガエルやヒキガエル、土色の何やらわからないカエルなど多種多様。流れている曲はカエルの合唱。もう一つ、パン!今度は一年生もカエルになった。僕と彼女以外全員カエル。カエルの歌が聞こえてくるよ、ぐわ、ぐわ、ぐわ。全校生徒の合唱、その声はとてつもなく大きい。カエルたちはぴょんぴょん飛び跳ねながらもちゃんとリズムに乗り歌を歌う。彼女はどこから取り出したのか指揮棒をめちゃくちゃに振っている。楽しそう。カエルの合唱はどんどん大きくなった。
歌は止まない。彼女はつま先をトントンと2度叩いた。突風が吹く。鳩を逃がすために開けた窓からは少し冷たい四月の風が入ってきた。急な風に思わず目を瞑る。腕を引っ張られる感覚。目を開けると彼女が隣のパイプ椅子の上に立っていた。
「立って」
一言、よくわからないが彼女の言葉に頷き、パイプ椅子の上に立つ。緩やかに風が吹いている。散りだした桜の花びらが体育館に舞う。彼女は指揮棒をくるりと回した。花道が川へと変わる。川沿いのパイプ椅子が満開の桜の木になる。綺麗な光景だった。カエルたちは我先に川に飛び込む。川は体育館の外へと伸びているようだ。風に運ばれた桜の花びらを彼女は手に取り、川へと向かいパイプ椅子を渡る。帽子を脱いで、花びらを中に入れる。彼女は笑顔を作って、僕に「おいで」と手招きをした。パイプ椅子を飛び越える。川にローブを浮かべる。ローブの下はこの学校の制服だった。なんだかそれは拍子抜けというか、ちょっとだけ可笑しかった。帽子をひっくり返して桜の花びらをローブの上に落とす。それを指揮棒でちょんっと叩くと、大きな桜の船。彼女はそれに飛び乗り、こっちを見つめる。僕も桜の船に飛び乗ると、彼女はえへへと小さく笑った。川に飛び込んだカエルたちが桜の船を押す。ゆっくりと動き始める。体育館の中の桜の木も花びらを散らす。不思議な世界に迷い込んだかのようだった。同じ船に乗っている少女はなぜか可愛らしく見えた。川は校門まで続いているようだ。流れとカエルに運ばれてゆるりと進む。
「あの、これ」
拳を突き出される。彼女はそれを開くと、手のひらの上には王冠を身につけたカエルのストラップが乗っていた。
「これ、ぶつかった時に落としたから」
「拾ってくれたんだ、ありがとう」
手を伸ばし受け取ろうとすると、彼女はそれを引っ込めた。
「あの……これ、私にくれませんか……?私、カエル大好きなんです……」
上目遣いで僕を見つめる。桜の船はゆっくり進む。ドキドキ、気に入っていたストラップだが、何となく彼女にあげてもいい気がした。
「替わりにいいものをあげます、携帯電話を貸してください」
頭にクエスチョンマークが浮かぶ。何をしでかすかわからない。そうは思ったが素直に携帯を取り出す。彼女は2つ折りの携帯を開いてなにか操作をすると、すぐに僕に返した。
「何をしたの?」
「お友達です」
携帯電話を開き、クラスメイトの彼がダウンロードしてくれたLINEを開く。そこには
『友だち 1人 泉マリカ』とあった。
入学早々変な友だちができたなと苦笑いをする。その意味に気づいているのかいないのか友だちも一緒に笑った。校門までの船旅もそろそろ終点。このまま船路を楽しみたいと思ったが、川の流れとカエルの力、桜の船はゆっくりと流れる。通った道は、薄桃色の花びらの絨毯へと変わっている。カエルの合唱はずっと続く。楽しげに、ずっと続いている。ゴール、桜の船は校門で止まる。魔法の時間は永遠ではないようだ。
「よし、じゃあまた明日ね 優介君」
船から降りると彼女は言った。手を鳴らすと、夢でも見ていたかのようにすべて元通り。空はぼんやりと青く看板には味気ない文字。桜の木は葉っぱと花が入り乱れている。本当に夢だったのではないか、頬を思い切りつねる。痛い。携帯電話のLINEを見る。
『友だち 1人 泉マリカ』
高校生活の幕開け、自分がどうやって過ごすのか、どうなっていくのかわからない。だけど、きっと楽しく過ごせるのだろう。明日が楽しみだ。桜がひらひらと舞い落ち、僕の頭の上に乗っかった。