或る男女の顛末
或る男の顛末
葬式での話である。
故人を偲ぶ粛々とした雰囲気が包む小さな斎場。
棺に眠っているのは、見目麗しい女であった。傍目には二十そこらに見える若々しさと、もしも道を歩けば擦れ違った異性は十人中十人振り返ったろう美貌。もっとも、彼女は二度と男と擦れ違う事はない。
その彼女の棺に縋り、声を上げて泣く男が一人いた。恥も外聞もなく、おいおいおいおいと、それこそ彼女の逝った先まで届かせんとばかりに彼は大泣きしていた。
外見からすれば、いかなる関係であろうと、彼女とは釣り合わなかろう男であった。喪服こそ纏っているものの、髪は伸ばし放題で、髭も余程慌てて剃ったのかそもそも剃る事に慣れていないのか顎にいくつもの傷を作っており、体つきもまるでだらしがない。道を歩けば、十人中十人が彼を避けて歩くだろう。
その男から離れた所で、此方は社会人として真っ当な程度には身なりを整えた二人の男が、ヒソヒソと言葉をかわしていた。
「あの娘も、可哀そうになあ」
「まだまだ若かったのに、階段で足滑らせただけなんて、つかれてたのかねえ。儚いよなあ……」
「まして……あんな奴ん所に嫁いで、ロクなもんじゃなかったろうに」
「アイツもああやって泣いてるがよ、そも、アイツがもっとしっかりしてりゃ、彼女だってあんな疲れやしなかったかもしれなかったろうに、……いや、それこそあれだけ泣いてんだ、アイツだって後悔しきりなのかしれえねえけど」
「惚れこんだのは、あの娘の方だったってな話だったな。驚いたよなあ、あんな碌に何もしない、ものぐさの塊のような奴の所に、あんな綺麗で気立てが良い嫁さんだなんて」
「最初は何か騙しに来たのかって思ったがよ、実際ぞっこんだったらしいな、あの娘。健気にあんな奴に尽くして、こうして終わって。返す返すも、アイツがもう少し……」
「……もう駄目だろうな、アイツは。ただでさえ碌でなしだったのが、もったいないほどの嫁さんまで亡くしちまって……。いや、アイツがこれから落ちぶれるのは、アイツの自業自得だ。だが、アイツにつくしたあの娘は、浮かばれねえだろうな」
「本当に、可哀そうな話だよなあ」
二人の視線の先で、男は、棺の中の物言わぬ妻を抱きしめるように、いつまでも泣いていた。
とある夜、二人の男が酒を飲み交わしていた。二人は付き合いの長い友人同士で、度々こうして飲む事があった。
何気の無い世間話をしていると、話題は数ヶ月前にあった葬式の話に向いた。
「あの時は、驚いたよなあ」
「ああ、本当に。あんな娘が、あんなあっさり逝っちまうとはまるで思わなかったからなあ」
「しかし、それ以上に驚いたのが、アイツの変わりようだよ。俺あ、見直したね。うん」
「ああ、アイツ、ねえ……」
「だってそうじゃねえか。あの頃まではこの世にあんな怠けものが居るもんかって思ってたけどよ、今じゃ誰より働く男になっちまった。朝も早いし、やる事もきっちりこなす。あんな綺麗で出来た嫁さんが居なくなったのが、まさかアイツをこうまで変えるたあよ、墓の下に行ってまで、あの嫁さんはあいつの力になってやってるみてえでよ……」
「んん……、ああ、そうだなあ」
「……なんだいそんな気のない相槌は。いいじゃねえか。確かに碌でなしだったあいつがよ、今やどこに出しても恥ずかしくねえ一人前だ。これが泣ける話でなくてなんだってんだよ」
「いやな、俺だって今更アイツに文句付けるつもりじゃねえけどよ。その、居た堪れねえっつうのか、苦みが残るってえのか。どうにもなあ」
「そりゃあ、よ。或る意味、あの娘が死なんだらアイツはこうも変わらなかったろうとは、ちいっと思っちまったけどよ、けれど、そいつは仕方ねえじゃねえか。人の生き死になんざ神さんの胸先三寸、悲しいかな佳人薄命ってこともあろうや。むしろ、俺は本当にこれであいつが下の下まで落ちぶれて、逝っちまった彼女に顔向けできねえような奴になっちまうんじゃねえかと心配してたんだよ。それこそ、あの娘も安心できるってこったろう」
「いやね、俺もそう思う。しっかりと真っ当になったアイツの変わりっぷりには頭が下がる。……だけど、な。この間、アイツを呑みに誘ったんだ。真面目にやってるアイツを労おうと思ってな。だけど、アイツは断った」
「ああ、まあ、そう言う事もあろうよ。今まであいつにとってこっちは糞真面目ないけすかねえ奴だったかもしれねえし、こっちからしたってアイツは働こうともしねえ阿呆だと思ってたんだ。それがそうそう、一緒に飲みましょうそうしましょうってな具合に行く訳もなかろうよ」
「そりゃ俺だって分かってるさ。そん時は断られても何度かじっくり誘ってみようとは考えてたしな。だがよ、アイツの断り方が、そう言うんじゃあなかったんだよ。何か、違っていたんだなあ」
「違っていた?」
「『今まで怠けていたぶん、真っ当にならなければいけませんから』ってえよ、真面目な顔して言うんだよ。たまには息抜きも必要だろう、っても声かけてみたんだがな、すると今度は『今まで息抜きしていたからその分働きます』ってな。初めはよ、お為ごかしでただ断りたいから言ってんのかとも思ったんだが、アイツは真剣だったんだよ。本気で言ってやがった」
「はあー、真面目だねえ。結構なんじゃねえの? まあ、張り詰め過ぎてぶっ倒れでもしたら不味いかもしれねえけどよ」
「それだけじゃねえ。別の日によ、俺は腹の調子がよくなくてな、便所に籠ってたんだ」
「喰い物前にして飯の話かよ」
「まあ最後まで聞けって。んで、籠ってたら隣に誰か入ってきた。そいつがぶつぶつとなんか呟いて、それが聞こえてくるんだ。『もう一度、もう一度、天国に、天国に――』ってさ」
「不気味な話だな、おい。いや、この流れで話したんなら、その隣に入ってきた奴ってのは……」
「そうさ、アイツだったんだ。その声は鬼気迫るものがあってな、すぐには気がつかなかったが、後で思い返してみれば間違いなくあいつの声だった」
「おっかねえな、宗教か何かね? それこそ、嫁さん亡くしたからって、まあ、辛かったんだろうが」
「……そうなんだろうな、宗教ってえのかは知らねえけれど、アイツは、きっとあの日をきっかけに嵌ったんだ。もう一度、天国に、ってのは、逝っちまった嫁さんへの言葉なんだろうよ」
「そりゃあ、あんな出来た娘なら天国にもいったろうが――、もう一度ってのはなんだよ? いくら悲しかろうが、人間、死んじまったらそれまでだぜ?」
「だから、天国があるなら違うだろ? 嫁さんが天国に行ったってんなら、自分も死んだときに天国に行けばそれこそ、もう一度、会うことだって、なんだって、だ」
「おい、おいおいおいおい、じゃあ、アイツは、確かに、あんなクソたわけだったら間違いなく地獄だったろうが、今のアイツだったらそうかもしれないが、アイツは、その為に、働いてる――いや、生きてるってえのか? 誰も、再会なんて保証できねえだろうに、アイツは……」
「保証や確証なんて、無かろうがいいんだろう。誰も測れねえ確立に縋って、アイツは生きてるんだろうさ。本当の所、誰よりあの娘を代え難いものだって思ってたんだ。それこそ、もう一度会えるなら、会えるかもしれないとしたら、それ以外のなんだって捨てちまえるほどに、さ」
「……アイツは、もう絶対に呑みにも遊びにも出ねえんだろうな」
「だろうよ。それがあるとしたら、それこそ死んだあと、嫁さんと一緒になんだ」
二人の男は、それから自分の家族についての話をした。普段は碌でもない、可愛くない、邪険にされる――ぐだぐだと益体もなく口をついて出る不満が、まるで出てこなかった。代わりに、いかに大切な掛け替えのないものかという言葉が、恥ずかしげもなく、自慢合戦かの様に延々と語られた。
そうして、普段よりもずっと早い時間に、二人は家路にとつくことにした。
自慢の家族の待つ家へ。
或る女の顛末
或る所に一人の女が居た。
十になる前に盗みを覚え、二十になる前には人を殺めた事もあった。 生きるために必要だったとか、そうせざるを得なかったとか、そう言う訳ではない。強いて言うならただ知っていたから、そういう事が可能だったからという理由で流されてそうやって生きてきた。周囲の環境は、紛れもなく碌でもないものだったのだ。
しかし、ただ流される中で彼女自身は摩耗されてきた訳ではなかった。それどころか研ぎ澄ますように鋭く鋭く生きていた。
天性の才能とでも言うべきなのか、彼女はそういった事に非常に向いた性質をもっていたのだ。
例えば、嘘を取り繕う笑顔の作り方はとても上手かったし、人に好印象をもたれやすい軽すぎず硬過ぎない会話も得意だった。化粧を使ったさり気ない、それでいて要所を押さえた顔の変え方もすぐに覚えた。
事を犯してもバレなかったし、被害者ぶれば皆がそれを信じた。彼女は自分のやる事が失敗するなどと思った事はなかったし、実際失敗など犯さなかった。
欲しければ盗み、気に食わなければ殺し、それが人に知られれば彼女は天下の大悪人であったが、しかし疑われれば騙した。
ある頃には全能感があった。何をやっても上手くいく、なんだって自分はできる。こんな幸福な人間が他にいる訳はない。本気でそう信じて疑っていなかった。
しかし。
ある日、道を歩いていた彼女は一組の夫婦を見かけた。彼女は盗みを働いた帰りのことである。
別段、裕福であったわけじゃない。特別であったわけじゃない。買い物の帰りだったのか、ただ寄り添って仲睦まじそうに歩いているだけの、若い夫婦だった。
気に食わなかった。後で殺してやろうか、と彼女は軽く考えた。軽く考えただけであるが、それを実行にうつすことも躊躇わなかったろう。彼女にとっては、そう重さに違いのある事ではなかったのだ。
ただ、一瞬考えてしまった。自分はどうして気に食わないと思ったのか。
そうして、気がついてしまった。単純に、彼女は一人だった。あの夫婦は二人だった。それだけのことだった。
シンプルで、そして酷な現実だった。それに気がついた時から、夢見がちな乙女のようだった彼女の全能感は、泡のみたいにはじけて消えた。
嘘と騙ることが得意な彼女は、その過程に必要な人を見切る能力にも優れていた。五分十分でも会話すれば、相手がどんな人間であるのか何となく見切り、適した切り口から騙していた。そんな彼女にとって、自分以外の人間は分け隔てなく人形と変わらない。そして人間と人形が並ぶ訳もあるまいと見下して、彼女は一人で生きていた。
そんな事はまやかしだった。
二人並んでいただけの夫婦が気に食わなく思った時、嫉妬した時に、彼女はその他人と同じカテゴリに自分もいるのだと、認めざるを得なくなったのだ。嘘つきだった彼女は、自分にさえ騙されていた事を知ってしまった。
彼女は急に寂しくなった。周りの人間の頭上を煌々と照らす街燈が、自分の上にだけ灯っていないような心細さであった。
必要なのは、味方だった。
またしかし、彼女は自分のやってきた事が世間的には到底認められぬ悪事である事も理解していた。だからこそ、何度も人を騙してきたのだから。
けれど、それを覆す考えが無かったわけじゃない。彼女を肯定する人間がいなければ作ればいいだけの事だ。
まずは対象を探した。出来る限り無能で、愚図で、駄目な人間。普段は誰にも肯定されないような孤独な人間。
見つかったその対象は、或る男だった。それもまた都合が良かった。異性である方が、彼女が御しやすい点が増えるからだ。その男はまるでダメな人間で、不真面目で怠惰でやる気と言う者の欠片すら持ち合わせていないような人間だった。
彼女は男にこう言った。
「あなたに惚れました、好きです、結婚して下さい」
男は碌でなしであったが、自分がどんな人間であるかはそれなりに理解していたし、いきなり女にそんなことを言われても、疑うだけの知恵と理性は持ち合わせていた。もっとも、それも女の計算のうちであるが。
彼女は献身的に男に尽くした。まるで自分は初心で貞淑で一途な女であるかのように、その男の為に何から何までやって、その男以外にはまるで靡かなかった。
最初は疑っていた男も、女のその献身的な様子を見れば絆されずにはいられなかったし、周りにもあんな男の所になんであんないい女が、と噂が立った。
ただ、男は碌でなしのままだった。
女の貯めこんだ財産に養われ、何から何まで女がしてくれる男は、真っ当になる理由がないどころか、前にもまして怠惰になった。男自身、どうにかしようと気持ちを新たにする事はあったが、その度に女は甘やかし、その意欲を削いだ。女にとって、男は無能であり続けなければならなかった。
女以外に、何か男を支えるものが生まれては邪魔だった。
男が女以外の何物にも見放されるよう、当の男自身さえそうなるように、女は男に尽くし、甘やかした。男にとって他の一切がどうでもよくなるように。他の一切が男の事をどうでもよくなるように。
そしてそれはとても上手くいった。
世間からは、あんないい女を貰ったのにあの男はどうしようもないという評判をよく聞いた。女自身に直接言う者こそ少なかったが、そう言う話がされているか察することなど女にとっては赤子の手を捻るようなもの。
女が接していて、男もそう感じているようだった。自分は情けない、お前だけだ、お前だけだ……。 そんな事ばかり繰り返し男は女に言った。女は、根拠もなく、けれど安心させるように、大丈夫、大丈夫、私が居ますから、と繰り返すのだ。
ただ、女は、それまで自分が行ってきた悪事については男に言ってなかった。それを言って男がどう動くかまでは判別がつきかねたし、以降そういう事を重ねなければ決してばれないと言う自信もあり、言う必要性はないと判断したのだ。
雛鳥の如くに依存する男の様が、女は非常に心地よかった。これで、もう何も心配する事はあるまい。
女におもねる事しか出来ない男。絶対に女から離れられなくなった男。女に対する反対的な意志など欠片も持てないだろう男。
絶対に女の味方であり続けるだろう男。例え自分が死んで地獄に落ちようとも追いかけてくるだろう男。
最早彼女は、寂しさにも嫉妬にも苛まれない。
――その日も、女は男の好物を作ってやろうと買い物を終えてきた。
男の住む集合住宅の三階に登る途中、男の隣に住む人間と擦れ違った。
「あんな旦那で大変だね」と声をかけられた。
それを聞いて、女は愉快な気持ちになった。相変わらず、あの男を必要としているのは自分だけ、あの男は自分にしか必要とされていないのだ。
女は、満足しきっていた。安心しきっていた。
あまりに安心しすぎていたのかもしれない。浮かれ過ぎていたのかもしれない。
彼女が階段から足を踏み外したのは、その時だった。
感情の矢印が内側に向くヤンデレというイメージで書きました。