この想いに気づくまで
出逢ったことが、多分人生の分岐点。
階段を降りながら、碓氷はふわりと欠伸を零す。
辺鄙な所で開業していても、獣医師というのはそれなりに需要がある。
ネームバリューがあれば尚のこと。
昨夜遅くに飛び込んできた急患を診終えたのは、日付が変わってからのことだった。
それでも朝目覚める時間は変わらないのだから、自分のことながら律儀なことだと思う。
「おはよう、先生」
顔を洗ってダイニングに向かうと、冷蔵庫を開けていた少年が顔をあげた。
いや、少年ではない。
ショートカットの髪とシンプルな服装に中性的な顔立ちが合わさって少年のように見せているが、ひょんなことからこの診療所で働くことになった少女で、名を相楽と云う。
相楽がこの診療所を訪れたのは3ヶ月前。
重症の獣を抱えて飛び込んできたのだ。
獣の手術が終わるなり倒れた相楽の面倒をみているうちに、彼女の抱える体質に気がついた。
「あぁ」
「卵どうする?」
「オムレツ」
「了解。チーズオムレツにするね」
「あぁ」
テーブルにつこうとすると、椅子の上で丸くなっていた彼女の家族とも云える小さな獣が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「朝からご挨拶だな」
「あ。ルルシェ、そっちは先生の椅子だよ」
相楽の言葉に、獣は仕方なさそうにもうひとつの椅子に移って丸くなった。
目を閉じる前にあげた一声に、オムレツを盛りつけた少女が小さく笑う。
「今度はなんだ」
「昨晩は遅かったようだから、譲ってやる。だってさ」
「そうか」
肩を竦めると、配膳を終えた相楽は獣の頭を軽く撫でた。
「先生は簡単に納得しすぎだよ。動物の声が聴こえるなんて、嘘だと思わないの?」
「そうか? 嘘をついて、お前に得があるとは思わないが」
本来だったら笑い飛ばすような話だ。
いや、獣医師であれば一度は誰もが望む能力なのかもしれない。
人間と動物の違いは、喋らないことだ。
子供であれ、異国人であれ、人間であるならば何処が痛いかをきくことができる。
けれど動物にはそれができない。
獣医師は、それを明らかにしなければいけない。
言葉が通じれば良いと思わない獣医師は多分いない。
それでも、得られれば良いと云うものではないと、碓氷は相楽と出会って気がついた。
「先生、急患みたいだ」
インターフォンが鳴ると同時に診療スペースへ向かう相楽に、碓氷は僅かに眉根を寄せる。
その後を追い掛けた獣が何処か焦っているように見えたのは多分気のせいではないだろう。
「先生! 診てやってください!」
近所にすむ男とから、察台に寝かされた患畜に目をやって、碓氷は解らないよう眉を顰めた。
絶えず呻く犬は、後ろ足に一本の矢が刺さっている。
「悪ガキどもの仕業です。先生、大丈夫でしょうか?」
「落ち着いて。早急に詳しい検査をしますので、少し待合でお待ちいただけますか?」
オロオロとした男を穏やかに促す相楽に一瞥をくれて、患畜に視線を戻す。
足に触れると犬は一際高く呻いた。
「大人しくしていろよ」
矢を抜いて、簡単な処置を終える。
添え木も包帯もして、本来なら立ち上がれるはずなのに、犬はまだ小さく啼く。
「先生。足だけじゃない」
音をたてた扉を振り向くと、ドアノブを掴んだまま、俯いた相楽が早口で呟く。
「なに?」
「何か、良くないもの食べたみたい」
「食べ物? そうか」
犬に視線を移した瞬間、背後で獣が鋭く鳴いた。
「おい、今度は……相楽!」
思わず声をあげる。
扉に寄り掛かる相楽の顔色は見たこともないほど、蒼白だった。
「ごめ……大丈夫、だから」
「大丈夫なわけ」
「違。ちょっと、聴こえ、すぎて」
心配そうに彼女を仰ぐ獣は、珍しく声をあげない。
ただじっと彼女を仰ぐだけだ。
「聴こえすぎる?」
「平気。だから、その子を」
反射的に口にしそうになった言葉を飲み込んで、碓氷は乱暴に獣の頭を撫でる。
「手伝えなくて、ごめん」
「何かあったら呼べ」
相楽に聴こえないように呟くと、犬を抱き上げて処置室へ続く扉を開けた。
「ホウサン?」
大分顔色の良くなった少女が、きょとんと首を傾げる。
「ねずみ捕りとかの?」
「ああ」
「そっか。ありがとう、先生。お疲れ様」
患畜は無事飼い主に引き渡された。
碓氷は処置ベッドに座る相楽を振り返って渋面をつくる。
「どう、聴こえた?」
言葉を選んで尋ねると、相楽は小さく苦笑した。
「悲鳴みたいな、ね。真っ直ぐすぎて、ちょっと苦しくなっちゃっただけ。久しぶりすぎて。もう、大丈夫だよ」
「どうにかならないのか?」
「え?どうにかって」
「聴こえすぎるのが、だ」
「ならない、かな。病院で診てもらっても異常はないんだ。耳が良すぎるわけでもないし」
すぐ横に寝そべる獣の頭を撫でて、相楽は困ったように目を伏せた。
小さく鳴いた獣になにも答えないままの相楽のつむじを見下ろして肩を竦める。
「耳を塞いだら、どうなんだ?」
驚いたように顔をあげて、相楽は笑った。
「何言ってるのさ、先生。聴こえる意味くらい、解ってるつもりだよ」
あまりにも穏やかに笑うから、碓氷は一瞬言葉につまる。
けれど
「塞げ」
「あのね、先生」
「俺って凄腕の獣医師が聴いてるんだ。充分だろ」
「え?」
「どうしても困った時だけ、お前に頼ってやるよ」
手を伸ばしてその小さな身体を腕の中に納めると、僅かに相楽が身じろいだ。
「先生はやっぱり変だよ。自分みたいに便利な道具使わないなんて」
泣き笑いのように零れた言葉に小さく息をつく。
「どこがだ。お前を使うと俺の腕が鈍る。生憎、外科手術や処置だけが医者の仕事じゃないんでな」
医師と獣医師。
道に迷っていたとき、獣医師になれば、人も動物も両方助けられると恩師は告げた。
『勿論、どちらを選んでも楽な道ではないから、やり抜く覚悟がないならどちらも止めろ』
釘をさされて、生来の負けん気が最後のきっかけになったことは否めないが、後悔をした覚えはない。
「だから、俺が聴く。その間お前は、俺の声だけ聴いていろ」
耳元で言い聞かせるように囁くと、不意に腕の中で相楽が力を抜いた。
「ずるい」
「なんだ?」
「先生、ずるいよ。そんな風に言われたら、頷くしかないじゃない」
「此処で働く以上、俺の言葉は絶対だろ」
ぽんぽんと頭を撫でて相楽を解放すると、碓氷はくるりと踵を返す。
「さて、朝ご飯食べて病院開けるぞ」
「冷めても美味しいよ、オムレツ」
小さく笑って、相楽は横をすり抜けた。
「ありがと、先生」
囁くような声は、聴かなかったフリをする。
本当の意味で言葉を聴くことのできない碓氷には、解らないこともある。
ただ、聴こえないからこそ、解りたいこともある。
患畜のことも、相楽のことも。
取り敢えずできることをするだけだ。
それがどんな感情に付随しているかを、今の碓氷は気づいていないのだけれど。
小さく鳴いて肩に飛び乗った獣の頭を軽く撫でると、碓氷は表の看板をひっくり返す。
『碓氷動物病院 開院中』
「今日も忙しくなりそうだ」
肩を竦めると、獣が相槌を打つように高く声をあげた。
そらみみプロジェクト その2