「仕事ばかりで可愛げがない」と婚約破棄された王宮会計官です。辞職したら国の予算が回らなくなったそうですが、復職も復縁もお断りします
「リディア・アルヴェル嬢。今この場をもって、君との婚約を破棄する」
王太子主催の春の夜会、その中央で、私は婚約者であるアルノルト殿下からそう告げられた。
弦楽器の音が止まり、色とりどりのドレスに包まれた貴族たちが、一斉にこちらを見る。
殿下の腕には、薄桃色のドレスを着た侯爵令嬢ミレーヌ様が寄り添っていた。彼女は申し訳なさそうに伏し目がちだったけれど、その指先が殿下の袖をしっかりつかんでいるのは見えた。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
私は手にしていた杯を給仕に預け、静かに尋ねた。
「君は仕事ばかりだ。いつ会っても王宮の帳簿や予算の話しかしない。婚約者としての愛らしさも、妃としての華もない」
殿下は言い切った。
「ミレーヌは違う。私を立て、慈愛に満ち、社交界にも明るい。これから王太子妃となる者には、彼女のような女性がふさわしい」
会場の端で、誰かが小さく笑った。
「会計官の真似事ばかりしていた令嬢ですものね」
「数字を書き写すだけなら、平民の書記でもできますわ」
「殿下の婚約者だから席があっただけでしょう」
聞こえていた。
けれど、胸が痛むより先に、明日の予定が頭をよぎった。
軍務局との予算調整。王宮厨房の仕入れ契約の見直し。西部三領から届く税収報告の照合。そして、夏至祭の支出案の最終確認。
……もう、私が行う必要はないのだ。
私は一度だけ息を整え、殿下に向かって礼をした。
「承知いたしました。それでは、王宮会計官の職も辞させていただきます」
今度こそ、ざわめきが広がった。
殿下が眉をひそめる。
「なぜだ。婚約とは別の話だろう」
「私が会計官として王宮に勤めておりますのは、将来、殿下を支えるためでもありました。婚約者でなくなる以上、王宮に留まる理由はございません」
もちろん、嘘ではない。
ただし、それだけでもなかった。
会計の仕事は好きだった。帳簿の数字が整い、限られた資金が必要な場所へ届き、誰かの困りごとが一つ減る。その過程には、夜会の華やかさとは違う、確かな手応えがあった。
けれど王宮では、その仕事を好んでいることすら、あまり良く思われていなかった。
「辞めればいい」
殿下の背後にいた近衛騎士団長の息子が、笑いを含んだ声で言った。
「会計官補佐など、代わりはいくらでもいる。むしろ殿下の新たな門出に、地味な帳簿係がいつまでも居座るほうが困るでしょう」
何人かが同意するように頷く。
殿下も、それ以上は引き止めなかった。
「好きにするといい。引き継ぎは、きちんとしてくれ」
「かしこまりました」
私はもう一度、深く礼をした。
そのときはまだ、誰も知らなかった。
王宮会計部の引き継ぎ棚に収められている書類のほとんどが、ただの帳簿ではないことを。
各部署が二重に要求していた予算をまとめた調整表も、商人たちとの契約価格を記した比較表も、税収が下振れしたときの備えも、行事費用を削りすぎずに収めるための代案も。
すべて、私が毎日少しずつ作り、誰にも気づかれないまま回していたものだった。
◆◆◆
婚約破棄から三日後、私は王宮会計部へ辞表を提出した。
上司である会計次官バルデン様は、机の上の辞表を見てから、私を見た。
「本当に辞めるのかね、アルヴェル嬢」
「はい」
「君は真面目で助かっていた。だが……まあ、王太子殿下のご判断なら仕方がない」
助かっていた。
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
けれど次官は続けた。
「引き継ぎは、若い書記官のローデンに頼む。君が持っている資料も、分類して置いていってくれ。細かすぎる資料は、こちらで整理するから」
私は一瞬、迷った。
私の作った資料には、今後半年分の危険箇所も、各部署の要求の癖も、商人との交渉で譲ってよい条件と譲れない条件も記してある。
けれど、頼まれていないものまで押しつけるのは、余計なお世話かもしれない。
「承知いたしました。必要なものはすべて、案件別に整理いたします」
「うむ」
最後まで、誰も私に「残ってほしい」とは言わなかった。
王宮を出た翌朝、我が家の執事が一通の手紙を持ってきた。
差出人は、王都最大の物流商会――グラント商会の会長、レオン・グラント伯爵だった。
内容は簡潔だった。
『王宮会計部における貴女の仕事ぶりを耳にした。もし次の勤め先が未定なら、一度、話をしたい』
王宮の仕事ぶりを、誰が耳にしたのだろう。
不思議に思いながらも、私は指定された日にグラント商会を訪れた。
王都の商業区に建つ本店は、豪奢というより機能的だった。広い玄関には荷車の出入りを示す掲示板があり、受付の奥では何人もの職員が伝票を抱えて走っている。
応接室で待っていたレオン・グラント伯爵は、私より五歳ほど年上の青年だった。
黒髪を後ろで束ね、飾り気のない濃紺の上着を着ている。商会長であり伯爵であるのに、机の上には花ではなく、積み上がった伝票と地図があった。
「リディア嬢。急な呼び出しを失礼した」
「いいえ。お話をいただき、ありがとうございます」
彼は私に茶を勧めると、すぐに本題に入った。
「当商会は、北部への輸送事業で赤字を出している。帳簿上は利益が出ているように見えるが、現金が残らない。経理長も調べているが、原因を絞れずにいる」
「私に調査を?」
「ああ。三日でいい。資料を見て、何かわかるなら教えてほしい。見当違いなら、それで構わない」
私は思わず尋ねた。
「私のような者に、大切な帳簿を見せてよろしいのですか」
「王宮が貴女をどう扱ったかは知らない。しかし、私は噂だけで人を呼んでいない」
レオン様は、まっすぐこちらを見た。
「王宮の倉庫担当者から聞いた。毎年、予算が足りなくなるはずだった冬の燃料費が、三年前から不思議なくらい安定したと。契約先を変えたのは貴女だろう」
私は瞬きをした。
「あれは、石炭の納品時期をずらしただけです。夏のうちに一部を確保しておけば、冬の値上がりを避けられましたので」
「それを実行し、結果を出せる人間を、私は有能と呼ぶ」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
褒められたことがないわけではない。
けれど、仕事の中身を理解したうえで、真正面から評価されたのは初めてだった。
「三日間、拝見します」
私は答えた。
「もし改善できることがあるなら、提案書を作成いたします」
「頼もしい返事だ」
レオン様は、初めて少し笑った。
三日後、私は北部輸送事業の赤字原因を三つに絞っていた。
一つ目は、往路だけ荷を運び、帰路の荷台を空にしていること。
二つ目は、北部の倉庫が過剰在庫を抱え、保管料が膨らんでいること。
三つ目は、護衛契約が距離ではなく日数で結ばれており、雪で足止めされた際に費用が跳ね上がることだった。
「つまり、輸送そのものではなく、戻りの荷と倉庫と契約が問題です」
私は会議室の地図に印をつけながら説明した。
「北部から王都へは、薬草、羊毛、加工木材が運ばれています。しかし小規模商人が個別に運ぶため、運賃が高くなっております。グラント商会が帰り便の共同便を作れば、空荷は減ります」
「倉庫は?」
「南の倉庫を縮小し、河川港に近い倉庫を短期契約に変更します。冬の在庫を持ちすぎず、船便と荷車をつなげれば保管日数も減らせます」
経理長が口を挟んだ。
「だが、小規模商人たちが共同便を使う保証はない」
「最初の三か月だけ、通常より少し低い運賃にします。その代わり、一定量を超えた荷主には次期の価格を据え置く契約を提案します。彼らが欲しいのは安さだけではなく、予定どおり荷が届く安心です」
しばらく沈黙があった。
それからレオン様が、短く言った。
「やろう」
「会長?」
経理長が驚く。
「三日でここまで整理された案だ。試す価値がある。リディア嬢、実施まで担当してくれるか」
「私が、ですか」
「提案者が一番、目的を理解している。もちろん決裁と交渉の権限は渡す。必要な人員も付けよう」
丸投げではなかった。
私に責任だけを押しつけるのではなく、仕事を成し遂げるための権限を与える言葉だった。
「承ります」
私は、少しだけ口元を緩めた。
◆◆◆
私がグラント商会に正式採用された頃、王宮では最初の小さな問題が起きていた。
夏至祭の飾り花の請求額が、予定の二倍になったのだ。
理由は単純だった。
宮廷園芸局と式典局が、それぞれ別に同じ花を発注していた。
「こんなものは、どちらか片方が予算を削れば済む」
会計次官バルデン様はそう言ったという。
しかし、すでに花は納品されていた。
片方の契約を破棄すれば違約金が発生する。かといって、両方を受け取れば保管場所もない。
結局、王宮は高額な違約金を払い、余った花を急遽、貴族街へ安値で売ることになった。
「少し処理が遅れているだけだ」
王太子アルノルト殿下は、その報告を受けてもそう言ったらしい。
実際、祭りは予定どおり開催された。
けれど次の週には、王宮厨房から肉の仕入れ価格について苦情が上がった。
前年より三割も高い。
厨房長が商人に抗議すると、商人は契約書を差し出した。
そこには、価格改定の条項が記されていた。以前なら季節前に見直されていたはずの契約だった。
「リディア様が、毎年ここを確認なさっていました」
厨房の書記が、恐る恐る言った。
「夏前に肉屋組合と話をつけて、余った家畜の引き取りを条件に価格を固定してくださっていたのです」
会計次官は顔をしかめた。
「会計官が、そこまでしていたのか?」
「私どもは、殿下のご婚約者が厨房に口を出すのは……と、最初は思っておりました。ただ、結果として毎年、予算内に収まっておりましたので」
その頃、グラント商会では、北部輸送改革の最初の便が出発していた。
私は小規模商人たちを集め、共同便の説明をした。
初日から順調だったわけではない。
羊毛商人は、荷の破損を心配した。薬草商人は、香りの強い荷物と同じ車に積まれることを嫌がった。木材商人は、荷下ろしの順番に不満を持った。
私は彼らの話を聞き、積載表を作り直した。
羊毛は防水布で区画を分け、薬草は専用箱を用意する。荷下ろし場所が遠い商人には、追加料金ではなく、早い便への優先枠を与える。
「商人たちは、ただ安く運びたいわけではありません」
会議後、私はレオン様に説明した。
「自分の品が雑に扱われないと信じたいのです。その不安を一つずつ減らせば、契約は続きます」
「勉強になる」
「会長がですか?」
「俺は大きな取引ばかり見ていた。小さな不満が積み重なれば、大きな損失になるのだな」
彼はそう言って、私の作った積載表を手に取った。
「貴女の仕事は、数字を合わせるだけではない。人が動く理由まで帳簿に映している」
少し恥ずかしくなって、私は視線を落とした。
「大げさです。ただ、相手の話を聞かずに数字だけを見ると、あとで数字が悪くなりますので」
「その『ただ』を、今後は控えたほうがいい」
レオン様は穏やかに言った。
「貴女がしたことは、誰にでもできることではない」
その夜、共同便の契約は予定の倍を超えた。
北部輸送事業は、一か月で赤字を止めた。
二か月目には、黒字に転じた。
商会の職員たちは、私が廊下を歩くたびに立ち止まり、声をかけるようになった。
「リディア財務顧問、港の倉庫についてご相談が」
「北部支店から、共同便を増やしたいと連絡が来ています」
「次の会議用に、こちらの数字を見ていただけますか」
王宮では「地味な帳簿係」と呼ばれていた私が、ここでは頼られていた。
その違いに、戸惑いがなかったわけではない。
けれど、嬉しかった。
仕事をしていいのだと思えた。
◆◆◆
夏の終わり、グラント商会に大きな問題が持ち込まれた。
西部支店が行っている染料事業で、半年連続の利益減少が出ていた。
染料はよく売れている。
売上も前年より増えている。
それなのに利益だけが減る。
「盗難でしょうか」
支店長が言った。
「それとも帳簿の誤記か」
私は帳簿を確認し、首を横に振った。
「盗難の可能性は低いです。原料の量と完成品の数は合っています」
「では、なぜ」
私は製造記録と注文書を並べた。
「売れている品が変わっています」
以前は、高価だが利益率の高い深藍の染料が主力だった。
今は、安価な淡色染料ばかりが売れている。売上を増やそうとして、支店は値引きを重ね、大口顧客の注文を片っ端から受けていた。
だが淡色染料には、燃料と水を多く使う。
大量に売るほど、工房は疲弊していた。
「量を売ればよいわけではないのですね」
支店長が青ざめる。
「今から注文を断るのか」
「すべて断る必要はありません。淡色染料は、規格を三種類に分けましょう。一番安いものは最低発注量を設定します。中間品は価格を少し上げ、深藍は予約制にして、確実に必要な量だけ製造します」
「顧客が離れるのでは」
「安定して届くなら、残る方も多いはずです。品質が下がり、納期が遅れれば、もっと失います」
さらに私は、近隣の染織工房に協力を求めた。
高価な深藍を単独で仕入れられない工房に、予約分をまとめて供給する。その代わり、支店は一定数の淡色染料を定価で引き取ってもらう。
交渉は難航した。
「商会だけが得をする契約ではないか」
そう言われたとき、私は相手の帳簿を見せてもらった。
彼らが毎月、少量ずつ高値で原料を買っていることを指摘し、共同仕入れにすればどれだけ負担が減るかを示した。
「私どもも利益をいただきます。でも、皆様の工房が続かなければ、長い取引にはなりません」
三日後、協力契約はまとまった。
三か月後、西部支店の利益率は以前の水準を超えた。
支店長は本店に来て、深々と頭を下げた。
「私は売上ばかり見ていました。リディア様が来なければ、年末には工房を閉じることになっていたでしょう」
「現場の皆様が、製造記録を丁寧につけてくださっていたからです。記録がなければ、私にも原因はわかりませんでした」
「そうやって、皆の仕事を見てくださるのですね」
彼の言葉に、私は返事を失った。
王宮では、誰かの働きを褒める余裕などなかった。
予算が収まれば当たり前。収まらなければ会計部の責任。
だから私は、問題が起こる前に潰すことだけを考えていた。
一方で王宮では、問題が連鎖し始めていた。
税務局が出した秋の税収予測は、実際より大幅に高かった。
豊作を見込んだ数字だったが、春の長雨による不作と、西部街道の通行止めを計算に入れていなかった。
「なぜ気づかなかった!」
アルノルト殿下が執務室で声を荒らげた。
税務局長は、震える声で答える。
「以前は……リディア様が、各地の穀物市場の価格と運送状況を照らし合わせ、予測値に注記をつけておられました」
「彼女は会計官補佐だろう。税務局の仕事までしていたのか?」
「直接、していたわけではありません。ただ、予算案を確認される際に……」
予算案には、税収予測が必要だ。
税収予測がずれれば、使える金額もずれる。
それを理解していたから、私は毎回、数字の根拠を確認していた。
けれど私にとっては、それも当然の手順だった。
さらに軍務局から、冬季訓練用の被服費が足りないと報告が上がった。
騎士団と国境警備隊が、同じ織物組合に別々の発注をしていた。大量発注による値引きの機会を逃し、しかも納品時期まで重なったため、組合は通常より高い価格を提示してきた。
「前は、どうしていた」
殿下は低い声で尋ねた。
会計部の若い書記官ローデンが、しばらく黙り込んでから答えた。
「リディア様が、軍務局と騎士団と国境警備隊の発注一覧を一枚にまとめておられました」
「そんな一覧は、どこにある」
「引き継ぎ棚に……ありました。ただ、細かすぎるので、古い資料として別室に移されました」
会計次官バルデン様の顔色が変わった。
「別室とは、どこだ」
「保管庫です」
「保管庫のどこだ!」
誰もすぐには答えられなかった。
資料は捨てられてはいなかった。
ただ、価値がわからないまま、他の古い書類と一緒に箱へ詰められていた。
王宮が急に壊れたわけではない。
そこにあった小さな穴を、私が毎日、手のひらで塞いでいただけだ。
私がいなくなれば、穴は少しずつ広がる。
そして、誰も気づかないうちに、足元の床を抜いてしまう。
そのことを、ようやく王宮の人々は理解し始めていた。
◆◆◆
初雪の知らせが届いた日、グラント商会の応接室に王宮からの客が来た。
会計次官バルデン様と、王太子アルノルト殿下だった。
私は会議を終えたばかりだった。
来年の港湾使用料について、運輸組合と交渉し、値上げ幅を半分に抑えたところである。机の上には、まだ交渉用の資料が広がっていた。
「お久しぶりです、殿下。次官様」
「リディア嬢」
次官様は、以前よりずいぶん疲れた顔をしていた。
殿下も同じだった。
華やかな夜会で私を見下ろしたときの余裕はなく、濃い隈が目の下に落ちている。
「急な訪問を許してほしい」
殿下は言った。
「構いません。ただ、次の予定がございますので、長くはお時間を取れません」
「……そうか」
殿下は一度、言葉を探すように黙った。
それから、真っ直ぐに頭を下げた。
「王宮へ戻ってくれないか」
次官様まで頭を下げる。
「会計部は混乱しております。予算は足りず、支払いの優先順位も決められず、各部署からの要求をまとめるだけで手一杯です。リディア嬢が行っていた調整が、これほど多岐にわたるものだとは……私どもは、理解しておりませんでした」
私は黙って聞いた。
「冬を越すためにも、君の力が必要だ」
殿下の声は、以前より低かった。
「ただの会計官としての地位も改める。会計部長の権限を与えてもよい。待遇も、望むだけ整える」
王宮が困っている。
それは聞いていた。
商人たちの間でも、王宮からの支払いが遅れているという話が出ていたし、軍用物資の注文が急に減ったという噂もあった。
私は彼らを恨んでいるわけではない。
ミスをすることも、仕事を理解できないことも、誰にでもある。
けれど。
「申し訳ありません。お断りいたします」
次官様が顔を上げた。
殿下の表情が、固まる。
「なぜだ。条件が不足なら、言ってくれ」
「条件の問題ではございません」
私は机の上の資料に視線を落とし、それから殿下を見た。
「私は今の職場で、自分の仕事に必要な権限をいただいております。提案を聞いてくださる方がいて、成果を正しく見てくださる方がいます」
「王宮でも、そうすると言っている」
「殿下」
私の声は、驚くほど落ち着いていた。
「私は、あなたの婚約者だった頃より、今のほうが必要とされていますので」
沈黙が落ちた。
次官様が目を伏せる。
殿下は、すぐには何も言えなかった。
その言葉は責めるためではなかった。
ただ、私にとっての事実だった。
少しして、殿下が絞り出すように言った。
「婚約についても……考え直したい」
私は首を横に振った。
「その必要はございません」
「リディア」
「殿下は、私に華がないとおっしゃいました。仕事ばかりで可愛げがないと。あのときのお気持ちを、今さら否定なさる必要はありません」
「違う。私は、何も見えていなかった」
「そうですね」
否定はしなかった。
殿下は苦しそうに目を閉じた。
「君が毎日、何をしていたのか。君がいなくなって、初めて知った。私は……婚約者として君に甘え、支えられていることさえ理解していなかった」
その言葉には、遅すぎる誠実さがあった。
だから私は、怒鳴らなかった。
「理解してくださって、ありがとうございます」
それだけで十分だった。
「ですが、私は戻りません」
殿下は長く息を吐いた。
「そうか」
「王宮の予算については、グラント商会へ正式にご依頼ください。財務相談として、お見積もりをお出しいたします」
「見積もり、だと?」
「はい。私はもう、王宮のために無償で働く婚約者ではございませんので」
そこへ、応接室の扉が開いた。
レオン様が、次の会議用の書類を抱えて入ってくる。
彼は王太子殿下の姿を認めると、すぐに礼をした。
「殿下。お越しとは伺っておりませんでした」
「突然だった。すまない」
「いえ。リディア嬢にご用件でしたら、私は席を外します」
「いいえ、レオン様」
私は呼び止めた。
「お話は終わりました」
レオン様は、私と殿下を見比べた。
事情を尋ねることはしなかった。ただ、私の返事を待ってくれた。
「次の会議は、港湾組合の件でしたね」
「ああ。向こうは値上げ幅を再検討すると返事を寄越している」
「では、こちらの代案を詰めましょう」
私がそう言うと、レオン様は自然に隣の席を引いた。
「承知した」
殿下は、その様子を静かに見ていた。
やがて彼は、次官様とともに立ち上がる。
「リディア」
最後に、殿下は言った。
「王宮を去る君を、私は止めなかった。その結果は、私たちが受け止めるべきだろう」
「はい」
「……幸せになってくれ」
私は少しだけ驚いた。
それから、礼をした。
「今後は、正しく働いた者が正しく評価される王宮をお作りくださいませ」
それが、私たちの最後の会話になった。
◆◆◆
その後、王宮はすぐに元どおりになったわけではない。
予算の穴は大きく、支払いの優先順位を決めるため、いくつもの部署が痛みを分け合う必要があった。
けれど王太子殿下は、会計部の再編を始めたという。
部署ごとの予算要求を一元化し、契約の見直し時期を共有し、税務局と会計部が定期的に情報を交換する仕組みを作った。
私が残した資料も、保管庫の奥からすべて掘り出されたらしい。
王宮からは後日、正式な助言依頼が届いた。
私はグラント商会の財務顧問として、月に一度だけ会計部の相談に応じることにした。
戻るためではない。
同じ失敗を繰り返さないために、必要な仕組みを作る手伝いをするためだ。
そして、グラント商会では新しい事業が始まった。
地方の小さな工房と王都の店を結ぶ、共同販売網である。
良い品を作っても、帳簿や契約が苦手で損をする人は多い。
逆に、資金はあっても、良い品を見つけられない店もある。
その間をつなげば、誰か一人だけが得をするのではなく、商いそのものが育つ。
「事業名はどうする」
レオン様が、私の向かいで尋ねた。
私は提案書を見ながら答えた。
「『つなぐ市』はいかがでしょう。少し素朴でしょうか」
「いい名前だ」
「まだ検討の余地は」
「ない。数字の裏にいる人を、貴女はいつも忘れない」
また褒められて、私は少し困った。
以前なら、そんな言葉を受け取る資格が自分にあるとは思えなかったかもしれない。
けれど今は、違う。
私は誰かの婚約者だから、王宮にいたのではない。
私は自分の目で見て、考えて、計算して、交渉して、仕事をしてきた。
その仕事を必要としてくれる人がいる。
それは、とてもあたたかく、誇らしいことだった。
窓の外には、春を待つ王都の市場が広がっている。
荷車が行き交い、商人たちが声を張り上げ、新しい品が、新しい場所へ運ばれていく。
「リディア嬢」
レオン様が、少しだけ改まった声で呼んだ。
「来月、北部の工房を視察したい。共同販売網の最初の契約を結ぶ予定だ」
「承知いたしました。資料を整えます」
「いや」
彼は微笑んだ。
「仕事の話もあるが……景色のよい場所らしい。一日くらい、帳簿を閉じて一緒に歩かないか」
「え?」
「君の仕事を必要としているのは商会だ。だが、君と仕事以外の時間を過ごしたいと思っているのは、俺自身だ」
私は目を瞬いた。
仕事ばかりで可愛げがないと、かつて言われたことを思い出す。
けれどレオン様の目には、私の仕事も、私自身も、どちらもちゃんと映っているように思えた。
「はい」
私は笑った。
「ただし、午前中に契約を終えられた場合に限ります」
「もちろんだ。そこは譲れない」
「では、午後は景色を楽しみましょう」
新しい帳簿には、まだ白いページがたくさんある。
そこにどんな数字が並び、どんな人たちの暮らしがつながっていくのか。
そしてその隣に、どんな未来が書き加えられるのか。
私は今度こそ、自分の手で確かめていこうと思った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「面白かった」「リディアを応援したい」と思っていただけましたら、作品下部の☆評価で応援していただけると嬉しいです。
今後の執筆の励みになります。




