第5話:深淵の晩餐 ―二百七十階層の原生生命と、中性子による品種改良―
二百七十階層。そこは、これまでの岩盤地帯とは一変し、ダンジョンの亀裂から溢れ出す濃密な魔力脈が、独自の生態系を形作っている異質の空間であった。
頭上には、中性子を帯びた鉱石が星霜のように散らばり、淡い青の燐光を放っている。その下には、地上では絶滅したはずの古代植物や、魔素を養分とする未知の菌糸類が、奇妙なほど美しく、そして猛毒を孕んで繁茂していた。
男は、漆黒の守護者『黒陽』を背後に従え、一歩ごとに「移動する聖域」を展開しながら、その原生林の奥へと踏み入った。
「鑑定・解析。……興味深いな。この植物群は、中性子の強い相互作用を光合成の代わりに利用しているのか」
男の視線が、岩壁に自生する一房の果実を捉えた。見た目は透明感のある翡翠の葡萄のようだが、その実態は致死量の放射性物質を蓄積した、人類にとっては死の果実である。
「これを、私の安寧に相応しい『糧』へと再定義しよう」
男は指先を動かし、SPを投入した。
**【スキル統合:バイオキネシス(生命操作)を中性子レベルへ昇華】**
**【新規スキル:事象置換を獲得】**
男は翡翠の果実にそっと触れた。
「分解。……および、中性子レベルの品種改良」
果実を構成する細胞膜、そして核の中にある遺伝情報の螺旋が、中性子の波によって瞬時に解体される。
彼は毒素となる重金属成分を原子レベルで分離・排除し、代わりに周囲の魔力脈から抽出した純粋な「生命エネルギー」と、地上の最高級ワインさえも泥水に変えるほどの「芳醇な糖鎖構造」を、中性子の糸で編み込んでいく。
数秒後。翡翠の果実は、内側から黄金の光を放つ、透き通った琥珀色の至宝へと変貌した。
それはもはや植物ではない。中性子構築が生んだ、食べる概念そのものを変える「究極の食材」である。
「黒陽、周囲を警戒せよ。私はここで、最初の『優雅な食事』を楽しむ」
男は、中性子を凝縮して構築したクリスタル・テーブルと、身体の曲線に完璧にフィットする椅子をその場に展開した。
二百七十階層の猛毒の原生林は、彼の「生活魔法」によって、今や最高級のオーベルジュをも凌ぐ、清浄で幻想的なプライベート・ダイニングへと書き換えられていた。
男は、自ら構築した「中性子加熱器」を用い、先ほど解体した『アビス・リーパー』の高密度蛋白質と、改良した琥珀果実を調理していく。
加熱といっても、火は使わない。中性子の微細振動を、肉の繊維一つひとつ、細胞膜の隙間に至るまで、0.0001度単位の精度で浸透させる。
「付与:至高の味覚、および栄養の絶対化」
皿の上に盛り付けられたのは、虹色の光沢を放つ肉料理と、黄金の果実のコンポート。
男は、中性子を編み上げた銀のフォークを手に取り、一口、それを口に運んだ。
「…………ふむ。悪くない」
脳を直接揺さぶるような、情報の奔流。
単なる「味」ではない。中性子レベルで最適化された栄養素が、彼の新しくなった細胞の一つひとつに直接吸い込まれ、生命力(HP)と精神力(MP)の最大値をさらに押し上げていく。
それは、自分を棄てた地上には、どんな富を積んでも決して手に入らない、深淵の王だけに許された特権であった。
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その頃、地上――。
「D法執行管理局」のパニックは、もはや国家の崩壊を告げる葬送曲へと変わっていた。
「局長! ゼノ・ダイナミクス社のCEOが、専用機で国外逃亡を図りました!」
「追え! いや、それどころではない! ネットに……ネットに、我々が棄てた国民の『残留思念』が、音声データとして直接放送されているんだぞ!」
街中のデジタルサイネージ、家庭のテレビ、そして人々のスマートフォンのスピーカーから、二百九十階層の「棄却場」に棄てられた死者たちの声が、中性子レベルの共鳴によって「直接」鳴り響いていた。
『……お腹が、空いたよ、お母さん……』
『どうして、真面目に働いてきたのに、殺されなきゃいけないんだ……』
それは、主人公が中性子ハッキングのついでに仕掛けた、「情報の因果反転」である。
地上の人々が無視し続けてきた「負債」の声が、物理的な圧力となって、改正ダンジョン法を支持した者たちの精神を蝕み始めていた。
「ぐわぁぁぁ! 聞こえる、死んだはずの親父の声が……頭の中で直接!」
「やめろ! 銀行口座が……口座の数字が全部『0』になっていく!」
男が深淵で優雅にフォークを動かすたびに、地上の「不純物」である悪徳官僚たちの資産、地位、そして精神的平穏が、一切の情け容赦なく「分解」されていく。
逃走を図ったゼノ・ダイナミクス社の専用機も、例外ではなかった。
高度一万メートルを飛行中、機体の制御システムに中性子の干渉が発生。
「エラー:機体構成原子の再定義を開始します」
「な、何だこの表示は!? 誰だ、ハッキングしているのは!」
CEOが叫んだ瞬間、機体の中性子の結合が緩んだ。
飛行機は爆発することさえ許されず、ただの「銀色の霧」となって大気中に溶け去った。
そこにいた人間も、彼らが持ち出そうとした不正蓄財の金塊も。
すべては男の「物証隠蔽」と「分解」の権能により、この宇宙から最初からいなかったものとして消滅した。
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二百七十階層、静寂の森。
男は食後の清水を飲み干し、口元を中性子構築されたナプキンで拭った。
「さて……。地上はだいぶ『整理』されてきたようだな」
彼は、黄金の瞳孔を、遥か頭上にある「穴」の方向へと向けた。
復讐は、彼の安寧を確保するための「掃除」に過ぎない。
だが、その掃除の過程で、彼はこのダンジョンの深層に眠る、さらに根源的な「世界の種子」の存在を解析しつつあった。
「行こうか、黒陽。……次は二百六十階層。そこには、人類が『神』と誤認し、生贄を捧げる契約を交わした、システムの末端機が眠っている」
男が立ち上がると、二百七十階層の原生林が、彼の退場を惜しむかのように美しく波打った。
彼が進む道の後ろでは、食べ残された骨の欠片さえもが中性子の光となって消え、そこには誰の侵入も許さない、完璧な静寂が再び訪れる。
男は、自分を棄てた世界を再定義するために、さらなる深淵の理を求めて、優雅に歩き続けた。
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