八話 試練
薄い朝靄が窓の向こうで揺れ、木造の家の梁に淡い光が落ちる。
鳥の声が小さく響き、パンの焼ける匂いが漂ってきた。
グレンは布団から上半身を起こし、まだ眠そうな目をこする。
時計はまだ六時をさしていて、まだいつもなら起きる時間ではないが、ざわめく心がそれを許さない
静かな緊張で胸がざわつく。
その隣で、布団から毛玉のように丸まっていたルリがもぞりと動いた。
「む……ん……? グレン、起きたのか……?わし……あと一時間寝れる……」
「一時間はダメだ。遅刻するぞ」
「むぅ……試験とやらは、そんなに大事なのか……?」
「大事も大事だ。人生が決まる」
「人生……きまる……?そうじゃ!それは寝れぬ……!」
一瞬で目が覚め飛び起きるルリに、グレンは苦笑した。
テーブルには、ルーフェンの作った素朴な料理が並んでいた。
香草の入ったスープ、焼きたてのトースト、少量のゆで卵。
ルーフェンは服に袖を通しながら、ふたりを見た。
「試験、緊張しているようだな」
「まあな……」
ルリはスープを嬉しそうに飲みながら、ルーフェンを見る。
「ルーフェンよ、今日も飯がうまいのじゃ……世界に感謝……」
「……世界じゃなくて私に感謝しろ」
ルーフェンはため息混じりに言い、ふと、グレンたちの記入用紙がテーブルに置かれているのに気づいた。
「そうだ。試験の提出書類、書き込むところは終わったのか?」
グレンは黙ったまま固まり、ルリはスプーンをくわえたまま硬直した。
「……あ」
「……あ?」
ルーフェンは眉をひそめる。
「まさか……名前をまだ書いていないのか。文字は……わかるはずだよな」
その問いに、ルリがもじもじと指を絡めながら答える。
「……わし、姓というものをまだもっておらぬがゆえ……」
ルーフェンはしばし無言になり、そのあと小さく息を吐いた。
そして、彼女は椅子から立ち上がり、食器棚から一枚の古い木箱を取り出す。
中には、磨かれた銀色のバッチのようなものが静かに収められていた。
「本当はな……これは見せるつもりはなかった」
ルーフェンはその紋章を指先で撫でる。
「ガラハルド……私の家名だ。代々、聖教騎士団に仕えてきた家の名だが……今は私ひとりだ」
ルリが目を丸くする。
「ルーフェン……」
「――名を持たんのだろう。なら、お前が名乗れ。ルリ・ガラハルドだ」
ルリは息を呑み、胸が揺れた。
「よいのか……?そんな、大切な名を……わらわのような得体の知れぬ者に……」
「得体は知れてる。少なくとも、この一ヶ月見てきた。礼儀は壊滅だが……悪い奴ではないのは確かだ」
「……っ」
涙腺が危険な音を立てる前に、ルリは胸に手を当てた。
「……受け取るのじゃ。わらわは……ルリ・ガラハルド……。この名、きっと、けして汚さぬ……!」
ルーフェンは照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「汚すなよ。頼むからさ」
そんなルリが感動に浸っている横で、グレンもまた記入用紙の姓の欄をじっと見つめていた。
本名を書けば――すべてが終わる。
アステラフレア家の長男。
死んだ勇者グレン
もし気づかれれば、この町で静かに暮らすことはもうできない。
もしも大衆にバレるような事があれば彼は勇者に逆戻り、馬車馬のごとく働かせられ、今度こそ死ぬだろう。
グレンの指先が震えた。
ルーフェンがふと彼に目を向ける。
「グレン、お前は大丈夫か?名くらい書けるだろう?」
「…………ああ……書けるさ」
その瞬間、グレンの手は勝手に走った。
生き延びたい。
ルリを守りたい。
静かに過ごしたい。
――それら全てが交じり合い、咄嗟に生まれた偽名。
『グレン・アッシュフレア』
アステラフレアと言う旧姓に似ては居るが、まだそこいらにいるような普通の姓。
ツーッ、と背中に汗がつたう。
ルーフェンは何気なくその名前を見て、ごく自然に頷いた。
「ふむ、悪くない名だ」
「あ……ありがとう」
ルリも嬉しそうに覗き込む。
「アッシュフレアのグレン! うむ! 良い響きなのじゃ!」
グレンは心の中で叫んだ。それは、バレなかった喜びからなのかはだれにもわからない――
時間はすぐに過ぎ、三人は荷物を背負い玄関に立つ。
ルーフェンは学園の警備当番があるため、途中で別れる予定だ。
「試験、緊張するなよ……落ちても拾ってやる」
「言い方がひどいな……」
ルリは笑いながら胸を張る。
「わらわはガラハルドなのじゃ!
よいところを見せるのじゃ!」
「プレッシャーをかけるな……」
朝の光の中、三人の影が長く伸びていく。
その歩幅は、それぞれ違うようでいて――
どこか家族のように揃っていた
早朝の空気は澄んでいて、胸の奥まで冷たい空気で満たされる。
ルーフェン宅の前で、グレンとルリは身支度を終え、三人で玄関を出た。
十分ほど歩いた後、ルーフェンは歩みを止める。
「……さぁて、わたしはここから仕事だ」
ルーフェンが鉄兜を手に取り、頭に深く被る。
さっきまでの家庭的な雰囲気が嘘のように消え、王立学園の警備員の鋭い眼差しに変わった。
「試験、気負うなよ。落ち着いてな……二人とも、行ってこい」
「はい!行ってきます、ルーフェン!」
「行ってきます」
ルーフェンは照れ隠しのようにそっぽを向きつつ、兜越しに笑った。
「……ったく、まぶしいくらい真っ直ぐな顔しやがって。さっさと行け、ガキども」
広い商業地区や城下町を抜けると、巨大な尖塔が朝日に照らされて姿を現した。
グレンとルリは思わず足を止め、見上げた。
「グレン、見よ……!入学試験、ほんとにあるんじゃな……!」
「そりゃあるさ……俺たち、受けにきたんだから」
ルリは前回来たときより落ち着いていたが、瞳の輝きは変わらない。
子どものようにはしゃいでリンゴを口につけて回っていた一日目とは違う、けれど胸の奥では同じ興奮が跳ねている。
二人は人の波に混ざりながら、試験会場へ足を運んだ。
試験場入り口はすでに受験者で溢れ、ざわめきが波のように広がっていた。
「ねえ、見ろよ……リュミエル家の令嬢が来てるぞ!」
「うそ、本物? 水属性名家の……!?」
「その隣……あれブレイクハルト家のライオットじゃねえか……!」
ざわ……ざわざわ……っ。
群衆のざわめきが一気に圧を持ち始める。
青銀色の髪を揺らしながら歩く少女ーーセラフィナ・リュミエル。
その歩みは静謐で、まるで湖面に立っているかのようだった。
対して、黒髪の少年ーーライオット・ブレイクハルト。
足取りは重く、踏みしめるたびに周囲の空気がビリリと震えるような衝撃を放っている。
「うわ……あれが名家……」
「さすがにオーラが違うよな……庶民とは別世界って感じだ」
ルリがグレンの袖を引っ張る。
「グレン、あの子たち……そんなにすごい家なのか?」
「……すごいなんてもんじゃないな。どっちの家も、この国で最も古くから伝わる強力な魔力の系譜だ」
グレンの声は落ち着いていたが、心の中には別の感情が渦巻いていた。
勇者として戦っていた頃、彼は彼らの父や関係者と仕事をしていた。
思いにふけりながらも、父親と見の前にいる名家の二人を見比べて、グレンは少し、頭をかしげる。
それは、あまりにも性格が違いすぎたのか、仕方ない部分ではあるが、子供は親に似るって本当なんだか……とグレンは感じていた。
そして、今の彼らにとってグレンはただの誰かだ。
殉死した勇者を思い出す者などいない。
人数が多いため、簡潔で手短な説明が終わると、一人づつ名を呼ばれ魔力測定の試験が行われる。
天秤型の巨大魔力測定器が中央に置かれたホールに、試験官の声が響く。
「次、リュミエル・セラフィナ様!」
静寂が走る。
セラフィナが皿に両手を置いた瞬間——
すぅ……っ
ゴウン…………
天秤が水の流れのように滑らかに傾き、ほぼ最高値で止まった。
淡い青光が広がり、周囲から息を呑む音が上がる。
「ひ、ひっでぇ……あれ本気じゃないんだろ?」
「これが……名家の力……」
セラフィナは周囲を見ることもなく、静かに一礼して後ろへ下がった。
「続いて、ブレイクハルト・ライオット様!」
ライオットが拳を力強く叩きつけた瞬間、
バキィィィンッッ!!
鋭い衝撃波が走り、天秤が大きく跳ねるように傾いた。
試験官が慌てて器具を押さえる。
「おまっ……! 魔力を流すだけだと言っているでしょう!」
受験者の列から笑いが漏れる。
だがどれも尊敬と畏怖が混じった笑いだった。
「すげえ……あれが本物の名家ってやつかよ……」
その光景を、グレンとルリは別の列の端から見つめていた。
「……圧倒されるな」
「うん……あの二人、全然ちがう……」
ルリは思わずグレンの袖をぎゅっと掴んだ。
グレンはルリを一瞥して、頭を撫でようとするもその手を引っ込める。
彼女は子供じゃなければ甘えたい時でもない。その証拠に、最初から最後まで全員の試験を、じっと静かに見据えている。
名家組が測定を終えると、会場は再びざわつきながら通常の受験者の案内へ戻った。
「はい、次の方! 受験票を!」
試験官に呼ばれ、グレンはようやく前へと進んでいった。
「──グレン・アッシュフレア君。次、前へ」
試験官の声が響く。
その名が呼ばれた瞬間、セラフィナの眉がぴくりと動いた。
「アッシュフレア……ね。火属性名家アステラフレアと響きが似すぎじゃなくて?名前もグレンですし」
「名前負けの間違いだろ。どうせ雑魚さ」
二人の嘲笑に、周囲がくすくすと笑う。
グレンはその視線のすべてを背中に受けながら、静かに測定器の前へ歩いた。
後ろでルリが囁く
「頑張ってくるのじゃぞ」
ゆっくりと、歩く。今までに感じたことのないような、妙な緊張。
手を皿の上にかざす。
深呼吸──
魔力を流すイメージを掴む。
意識を深く沈め……。
……しかし。
天秤は、まったく。
──1ミリたりとも、動かなかった。
「おい、本気かよ?」 「動いてねぇぞ」 「うそ……無魔力?」
ざわ……と、空気が濁るような笑いが広がる。
「フッ、やっぱり名前負けじゃない。あれでグレンなんて、笑わせてくれるわ」
セラフィナがクスクスと口元を隠しながら笑い、ライオットは腕を組んで鼻で笑った。
「勇者様気取りのチビ勇者って感じか? 魔力ゼロとはな」
その言葉が、グレンの胸に容赦なく刺さる。
仕方ないことだとわかってはいたけれども、でも心の片隅で何かがおきるのではと期待していた事は間違いない。
とぼとぼと後ろに下がる
しかし──その瞬間、入れ替わるようにルリがばちんと前へ一歩踏み出した。
「お…おのれらぁっ……!」
全身を震わせながら、怒りで涙目になっている。
「そなたら、なんと無礼な……っ!我がグレンを笑うとは、どのつら下げて言っておるのじゃ!!わしが許さんぞ!!」
小さな体から絞り出される怒声。比較的幼い外見だが、口調は老婆そのもの。
それに周囲がどっと笑う。
「な、なんだあの子……」 「口調がババアで笑うわ」 「もしかして無魔力同士の仲良しさんか?」
ルリは悔しさで肩を震わせ、唇を噛みしめながら睨みつける。
「お、おのれら……覚えておれ……絶対に許さんからの……!」
その怒りを見ていたグレンは、小さく息をついた。
「ルリ……ありがとう。でも──もういい」
「よ、よくないっ! 我は……悔しいのじゃ……!」
涙をこらえながら嘆くルリ。
しかし次に呼ばれたのは、そのルリの名だった。
「次──ルリ・ガラハルドさん。測定へどうぞ」
「……うむ。見ておれ。わしだって……っ」
怒りの熱が少し残ったまま、ルリは皿に手をかざす。
──ひたり。
空気がすこし揺れた。
天秤がゆっくりと傾きはじめる。
名家級まであと少し……そのわずか下。
「おお……まじかよ……」 「無魔力の仲間じゃなかったのかよ」「普通にヤバくね」
周囲の期待の声が一瞬だけ溢れた。
だが──
「はっ、どうせ不正だろ」
ライオットが冷たく言い捨てた。
「名家級の少し下? ありえないわね。あんな得体の知れない子が」
「なにかの道具を忍ばせたんじゃなくて?ローブの袖とか怪しかったし」
セラフィナの嘲笑が追い討ちをかける。
「う、うう……」
ルリの顔がしゅんと曇り、耳まで赤くなって下を向き──さっきの怒りが嘘のようにしょんぼりと縮こまった。
「……わし……そんなつもりじゃなかったのに……」
その小さな声は、泣き声に近かった。
グレンはそっとそばに寄り、ルリの頭へやさしく手を置いた。
「大丈夫。ちゃんと出てたよ。……みんな、分かってないだけだ」
「……うぅ……グレン……」
ルリは小さく頷き、グレンの袖をぎゅっと掴んだ。
周りの空間とは違い、そこには確かな温かみが存在していた。
ここでは何も出来なかった。とはいえ、挽回できるチャンスは十分にある
筆記だ。グレンは学園には通っていないものの、名家だからか家庭に教師のような人が常に在籍していた。1日に何時間もたたき込まれた魔法論が浮かび上がる。
「次は……筆記だな。ルリは大丈……夫じゃなさそうだな」
「ん……」
記憶を無くした一人の少女は縮こまり、いかにも始めて都会に出てきた子供のように目が泳いでいる。
自身の両手をぎゅっと握り込むと、願うかのように額にそれをつけたのだった……
「各自持ち場につけ、時間は30分。カンニングが発覚した場合は即刻追放する」
淡々と話す試験管の先で、ルリは縮こまり、足をパタパタと小さく動かす。不安そうなのは誰が見ても明らかだったが、グレンは心のなかで小さく応援の言葉を口にするのだった――
昼下がりの王立アストラル・オルディア魔法学園前の広場には、合格者の番号とクラス分けを記した巨大な掲示板が立てられていた。
受験者たちが押し寄せ、歓声や落胆の声が混ざり合う。
熱気とざわめきの中、グレンとルリも人の隙間を縫って前へ進む。
「ど、どこなのじゃ……わしらの番号……」
ルリは両手で胸を押さえながら、掲示板を見上げた。
次の瞬間──
「……あっ、あったのじゃ!!」
小さな指が示したのは、上部にある 〈始星クラス・合格者一覧〉。
そこには確かに、ルリの番号があった。
ルリは目を丸くし、数秒遅れて跳ねるように喜びを爆発させる。
「わし……上のクラスなのじゃ! すごいのじゃ、すごいのじゃ!!グレン! おぬしも──」
振り返ったルリの声が途中で止まった。
グレンは無言で、掲示板の少し下──
〈影星クラス〉の欄を見つめていた。
そこに、彼の番号があった。
人々がざわつきながら通り過ぎる中、グレンは手を握りしめたまま動かない。
影星クラスは、始星クラスというエリート達の補欠のようなものである。学園に入れたことは嬉しいが、補欠から始星になるのは難しい。
魔力測定での嘲笑。
筆記試験を必死に書き上げた記憶。
勇者としての過去から、自分はまだ戦えると信じていた矜持。
それらが、一瞬で胸の中で音を立てて崩れていくようだった。
名家に生まれ、勇者として育ち、誰よりも強かったはずなのに──今の自分は、その影にすら届かない。
「……グレン?」
ルリがおそるおそる声をかける。喜びの余韻は完全に消え、ルリは小さく肩をすぼめた。
「えっと……その……わしだけ上なのは……なんか……ごめんなさいなのじゃ……」
グレンはゆっくり首を振った。
「違うよ。ルリが合格したのは嬉しい。ただ……悔しいんだ。影星クラスじゃ、王城謁見の権利を勝ち取るのは……難しい」
声は静かだが、握った拳は白くなるほど強く締められていた。
「絶対追いつくよ。待っててくれ……ルリ」
胸の奥底で、熱くて苦い決意が膨れ上がる。
ルリはその表情をじっと見つめ、そっと彼の袖を引いた。
「なら……わしが手伝うのじゃ!おぬしは影じゃないのじゃ。わしには……ちゃんと分かっておるからの」
グレンは一度目を閉じ、息をゆっくり吐いた。
「ありがとう、ルリ……大丈夫。ここから巻き返すよ。必ず」
人々の歓声が響く中、二人は静かに掲示板を離れた。
──始星クラスの少女と、影星クラスの青年。
だが、その距離は思ったほど遠くない。
むしろ、二人は確かに横に並んで歩いていた。




