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三十三話 見下ろすもの、見上げるもの

 医務棟を出ると、夕方の空気は思ったより冷たかった。


 対抗戦の熱狂は、もう遠い。

 通路を行き交う生徒たちは、既にいつも通りの顔をしている。


 ――世界は、何も変わっていない。


 それが、ひどく不気味だった。


 グレンは、まっすぐルーフェンの家へ戻った。

 帰りはくだり坂だから、特に疲れもせず家に着く。


「ただいま……」


 ノブを空けた先で返ってきたのは、足音だった。


「おかえり……グレン」


 奥から、ルーフェンが顔を出す。

 その隣――


「……!」


 ルリが、そこにいた。


「グレン……」


 きゅっ、と胸元に握りこぶしを作り、髪は少し、散らばっている。目元は少し、赤く腫れていた。


 その後すぐ、遅れてもう一つノックがやってくる。


 安堵した様子だったルーフェンの表情が再度変わる。

 一瞬で、守るべきものを守る顔へと。


「……私が出る」


 カツカツと足音を踏み鳴らし、扉を開けた瞬間、

 家の中の空気が張り詰めた。


 そこに立っていたのは三人。


 銀色の鎧。

 磨き上げられた胸甲に、星のような紋章。


 聖教騎士団・第七隊。


 その後ろに、灰色の外套を羽織った男が一人。


「突然すまないな、ルーフェン」


「……イェルンか」


 一言で答えを済ませる。


 第七隊の隊員が一歩前に出ると、兜を外し、静かに頭を下げた。


「ご無沙汰しております、ガラハルド副隊長」


 ルーフェンの目が、わずかに見開かれる。


「……その呼び方は、もうやめたはずだ」


「ですが」


 隊員は、真っ直ぐに言った。


「我々にとって、あなたは今も隊の一人です」


 短い沈黙。


 そのやり取りを、グレンとルリは、少し離れた場所から見ていた。


 イェルンが書状を取り出す。


 封蝋は、王立学園の正式印。


「本日付での緊急通達だ」


 淡々と、事務的な声。


「グレン・アッシュフレア。君は明日より、学園第二環区・始星専用寮へ移動となる」


「……!」


 ルリが、思わず一歩前に出る。


「それは……どういう……」


 イェルンはグレンへ一瞥を向ける。


「理由は単純だ。彼は、第三者から明確に命を狙われた痕跡がある」


 空気が、凍る。


「加えて」


 一拍置いてから、続ける。


「リュミエル家――特に、セラフィナ・リュミエル嬢からの要請があった」


 ルーフェンが、低く息を吐いた。


「……そうなのか」


 第七隊の隊員が、補足する。


「第二環区には我々が常駐しています。警備密度も、ここより段違いであります」


 それは、保護であり――

 同時に、隔離だった。


 ルリは、グレンを見る。


 言葉が出ない。


 どうするべきなのか……一緒に、行きたいと言うべきなのか。


 この空気感では、安易に口を開くのも躊躇われた。


「……分かりました」


 グレンが、先に答えた。


「従います」


 イェルンは頷く。


「明朝、迎えを出す。準備しておけ」


 第七隊の隊員が、最後にルーフェンへ一礼する。


「何かあれば、いつでも」


 扉が閉まり、金属が擦れる音が、遠ざかっていく。


 ルーフェンが、ぽつりと言った。


「……寮へ行け、グレン」


「学園には第七隊がいる。さっきの男らも私の元部下だ」


 視線を、ルリへ向ける。


「命を狙われた以上、家に置いてはおけない」


 ルリは、拳を握りしめる。


「……わし、どうすれば……」


 その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。


 グレンは、二人を見て、静かに言う。


「……大丈夫だ」


 それが、誰に向けた言葉なのか……自分自身に言い聞かせたのか。誰にも、分からなかった。






 夜は、ほとんど眠れなかった。


 準備と言っても、大した荷物はない。

 剣と、替えの服と、最低限の私物だけ。


 それでも、家の中を見回すたびに、

 ここを離れるという事実だけが、胸に残った。


 ――守られていたのだと、今さら思う。


 夜明け前。


 外が白み始めた頃、再びノックが鳴った。


 今度は、迷いのない音だった。


 扉を開けると、そこにいたのは――


 銀色の鎧。


 聖教騎士団・第七隊の隊員が四人、通りに並んでいた。


 無言で、しかし一切の隙なく配置されている。


「グレン・アッシュフレア」


 先頭の隊員が名を呼ぶ。


「護送を開始する」


 その言葉に、周囲の家々の窓が、わずかに動いた。


 好奇。 警戒。 羨望。


 ――そして、距離。


 グレンは、気づいてしまった。


 自分はもう、庶民と同じ目線に立っていない。


 歩き出すと、自然と隊列の中央に収まる。


 前も、後ろも、左右も、鎧。


 逃げ場はないが、守られている。その感覚が、奇妙に感じた。


 やがて視界の先に、巨大な構造物が現れる。


 太い一本の線路。 そして、静かに佇む金色のキャリッジ。


 ――アストラルライン。


 かつては、何も考えずに乗っていた。


 名家だから。 勇者だから。 任務だから。


 だが今は、違う。


 少し下を見下ろせば、朝の支度をする市民たちが、小さく見える。


 誰一人、こちらを見上げない。


 見上げる必要が、ないからだ。


 キャリッジが、滑るように動き出す。


 音は、ほとんどしない。


 ゆっくりと、しかし確実に――

 都市を、縦に切り裂いていく。


 グレンは、窓の外を見つめた。


 高くなるほど、人の気配は消えていく。


 そして上に行くほど、世界は静かになる。


 それが、正しいのかどうかは、分からない。


 だが一つだけ、確かなことがあった。


 自分は今、見下ろす場所に立たされている。


 けれど、心はまだ。


 見上げていた頃のままだった。


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