二話 いきる
迷宮最深部の静寂は、あまりにも深く、時間の感覚すら狂わせていた。
ポタ、ポタ……と稀に落ちる水滴だけが、彼らを現実へ引き戻してくれる。
グレンは深呼吸し、腕の中にいるルリへ声をかけた。
「君を死なせるわけにはいかない。上へ戻らなきゃ」
ルリはグレンの胸元に寄りかかりながら、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、澄んだ青。そこには一切の陰りがなかった。
「うむ……そなたの判断に従おう、グレン。されど……急くなよ。死の危険はどこにでも潜んでおる」
「分かってる。慎重に行くよ」
グレンはルリを抱き直し、気配を探りながら最深部を後にした。
通路は暗く、壁面にはまだ魔力の亀裂が走っている。
足を止めるたび、周囲の気配を確かめ、一歩ずつ前へ進む。
心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
腕の中のルリは驚くほど軽く、ときおりふっ……と意識が遠のくように揺れていた。
「ルリ、大丈夫か……」
「う、うむ……ただ、久しぶりに外へ出たゆえ、身が……馴染まぬだけ……」
「歩けそうか?」
「歩けぬ……しばしこのままでいてくれぬか、グレン?」
弱々しくも、どこか甘えるような声。
グレンはもう二度と離さないと言わんばかりに抱き直し、階段を駆け上がった。
――そして、見つけた。
「……ここにあったのか」
階段を登り切った先、瘴気が滲み出る魔物の噴出孔が残っていた。
これを壊さなければ、不定期に影が現れ、魔が顕現する。
黒い膜が揺れ、その奥で獣の影が生まれかけていた。
ルリが薄く目を開く。
「……あれが残っておると、また魔が溢れよう。破壊せねばなるまい」
「分かってる。すぐ壊す」
グレンはルリを壁際に座らせ、剣を抜いた。
魔力を集中させた瞬間――胸が焼けるように痛む。
「っ……!」
「無理をするな、グレン。お主の魔力は……もうほぼ残っとらん」
「……大丈夫だ。これくらい……」
痛む胸を押さえながら、グレンは地を蹴る。
「――はあっ!」
剣が黒膜を裂いた瞬間、蒼白い火花が洞窟を照らし、生まれかけていた影が悲鳴のようなノイズをあげて霧散する。
ポータルは静かに崩れ落ちた。
「……よし、行こう。これで――」
「待て、グレン」
ルリの声が響いた。
「血の香りが濃い。この辺りで……大規模な戦闘があったのではないか?」
グレンは息を呑む。
「……そうだ。俺が……見殺しにした。でも、行かなきゃ」
「……覚悟はできておるのか?」
「……できるわけない。でも、目を背けたら……ずっと後悔する」
ルリは静かに頷く。
「ならば。共に見届けよう。お主が選ぶ道を、我も歩もう」
薄暗い通路を進む。
空気が違う。ひどく冷たく、乾いている。
そして――鉄の匂いがした。
「っ……」
喉が震える。
あのとき、乱戦のただ中で嗅いだ匂いだ。
角を曲がった先には、あの景色が広がっていた
最初に見えたのは、グランツの死体だった。
火属性の先輩で、グレンを弟のように可愛がってくれた隊長。
その隊長が、剣を構えたまま絶命していた。
「グランツ隊長……」
次にエルド。
軽やかな動きで仲間を守り続けた青年が、
胸に深々と牙を突き立てられたまま――まるで儀式後のように息絶えている。
「エル……ド……」
すぐそばには、オリヴィエだったもの。
治癒魔法の才を持ち、優しく泣き虫で、
それでも最後まで仲間を治そうとした少女。
白衣は赤黒く染まり、折れた体のまま、杖だけは魔法の構えで握りしめていた。
「……どうしてだよ……オリヴィエ……」
足が震え、膝が落ちそうになる。
視界の奥――バルランド。
巨体は原形を留めず、壁に叩きつけられたように崩壊していた。
ただ、顔だけが苦痛と悔しさを刻んだまま残っている。
「…………バル…………ランド……」
声が震え、涙がにじむ。
さらに先には――グレイプニル。
精神的支柱だった少女は、
体が半分に裂けたまま、まだ血を滴らせて倒れていた。
その顔は、いつも仲間を励ましたあの表情のままだ。
「……なんで……」
声にならない声が、喉から漏れた。
握った拳から血がにじむ。
「…んで俺だけ……!生き残ったんだよ……!!」
洞窟の静寂に、叫びが溶けていく。
ルリは小さな腕でグレンを抱き寄せた。
「……泣いてよい、グレン。苦しみを抱え歩むは……人の子の定めじゃ」
グレンの肩は震え、一筋の涙が落ちた。
壊れかけの人形のようで、それでもまだ立っていた。
「……もう少しだけ……ここにいさせてくれ」
「うむ……。わしは待とう。お主が歩み出せるまで……」
静かな時間が流れた。
やがてグレンは仲間たちにそっと頭を下げる。
「必ず……生きて外に出る。俺が……皆の分まで」
そう誓った瞬間、
胸の奥で、言葉にできない違和感が疼いた。
――なぜ、俺達勇者は決まって全員、死ぬ?
答えはまだ、闇の中にあった。




