十五話 嗚呼、素晴らしき日々よ
ダンジョンの奥底で、二人の少年少女が身を寄せていた。
濃い瘴気が静かに漂い、時間そのものが淀んでいるようだった。
「大丈夫だ。俺が周りを偵察しておく。救助が来るまでゆっくり休んでおけ」
グレンは洞穴の内側を一周させるように視線を巡らせた。
地盤は奇妙なほどに安定しているが、空気は重く湿っている。
落下地点が相当深い階層なのだと、肌で理解した。
洞穴の側面には、小さな穴がぽっかりと空いていた。
そこだけが外界とつながる唯一の隙間のように見える。
グレンは音を殺し、忍び足でその穴を覗いた。
一瞬で悟った。
そこは、地獄だと。
十体程の敵影が群れ、群としての意思すらないまま、ぼうっと立ち尽くし、あるいは不規則な軌道を描くように歩き回っている。
「まじ……かよ」
喉の奥がひりついた。
絶望という言葉が、久しぶりに脳裏に姿を現した。
あれは生者の群れではない。
もしかしたら自分たちはもう、死と同義の場所まで落ちてきてしまったのか――
そんな考えがよぎる。
グレンはカイナに耳を寄せる。
「モックアップドールとアビスフォールトだ。大きな音出すとバレるぞ」
「Aクラス……じゃん……」
カイナの肩が震えた。
無理もない。
どちらもAクラス級ダンジョンに棲む強力な魔物だ。
人に似たシルエットゆえに視覚も聴覚も鋭く、気配にも敏感。
グレンは額ににじんだ汗を拭う。
助けたいとは思うが、魔法が使えない以上どうすることもできない。
しばらくの沈黙の後、カイナがぽつりと声を絞り出した。
「私ね、本当は……もっと早くにグレン君を助けたかったんだ」
体育座りのまま、膝を抱え込み、彼女は体を小さくしながら言葉をつなぐ。
「俺は……」
「でもね、勇気が出なかったの。頑張ってるところいっぱい見てさ……すごいなって思って……」
言葉がたどたどしく、まとまっていない。
それは極限状態で口が勝手に真実を紡ぎ出す、動物の生存本能のようだった。
「昨日の持久走も、ルリちゃん抱えて坂を登って……すごい優しいなって、すてきだなって……」
涙と共にこぼれる想いは、夜の帳に散る流星群のように、次々と生まれては、静かに落ちていく。
「カイナ……」
「だから……友達になりたいなって……思ったんだよ」
ぽたぽたと涙を垂らしながら、
彼女らしくない真っ直ぐな言葉を、まっすぐに差し出す。
グレンは堪えきれず、そっと彼女を抱き寄せた。
「大丈夫。大丈夫だから」
根拠などなくても、奇妙に力の宿る声だった。
カイナは力が抜けたように身を預け、重力のまま沈んでいく。
「ありがとう、グレン君……でも、あれ……」
カイナが涙目で一点を凝視していた。
さっきグレンが覗いた――小さな穴だ。
グレンはそれを、つられて覗いてしまった
「なっ……!?」
そこには、異様に大きな目がぎっしりと――穴を埋め尽くしていた。
絶望、悲観、不安、失望、幻滅。
死へのカウントダウンがごちゃ混ぜに、ハーモニーを奏でている。
動け。動けよ。
細胞一つ一つが、狂ったように蠢きだす。怖いなんて感情は捨て去ったはずなのに、正直な体は、ここから逃げよと体を震わせる。
「ちくしょう……終われるかよ……こんなとこで……」
笑う膝を片手で押さえ、剣を杖にしてたちあがる。
勝てるはずがなくても、行かなくては行けないのだ。彼女には、大きな背中を見せなくては行けないのだ。
モックアップドール、人の臓器を目茶苦茶に繋ぎ合わせたような外見。アビスフォールト、深淵の淵で、来るはずのない魂を渇望し続ける影のようなモンスター。
一秒でも、時間を稼がなくては。
グレンは一歩、前に出る。
明滅する命の灯火に気がついたのか、カイナは手を伸ばし、魂の叫びを具現化した。
「やめてっ!!死んじゃうよ!!いか…ないで……」
グレンは剣を構え、振り向くことなく土を蹴る。カイナの待ってという声を、聞こうともせずに……
グレンは短い呼吸をひとつ吐くと、
カイナとは反対方向へ――闇の中へと駆け出した。
魔力ゼロの少年が、Aクラスの巣窟へ飛び込む。
正気の沙汰ではない。
それでも足が止まらないのは、守るべき少女が背後にいるからだ。
「時間……稼げば……救助が来る……!」
そんな希望は根拠こそない。
希望というより願いに近かった。
しかし、その願いはすぐに打ち砕かれる。
じゃり、と暗闇の奥から蠢く影。一体、二体……数える間もなく、十ほどのモックアップドールが、首だけをガクリとこちらに向けた。
あの目――
穴を埋め尽くしていた無数の視線が、今度は直接、全身に突き刺さる。
「……来いよ。雑魚でも……時間は稼げる!」
己を奮い立たせるように叫び、グレンは剣を低く構える。
一歩踏み込み、最前のドールの膝関節へ斬りつける。
関節が反転し、ドールは奇妙な角度で崩れた。
「よしっ……!」
だが、一歩下がる間すら与えてくれない。
複数のドールが同時に腕を伸ばす。
不揃いに縫い合わされた指が、蛇のように蠢き、グレンの四肢を捕らえようと迫る。
「ぐ……っ!」
斬って、蹴って、転がって、とにかく止まらないように動き続ける。
だが――
ここは恐らくAクラス。帰れるかもわからぬ、奈落の底。
聖教騎士団の一つの隊が行って、ようやく攻略出来ると言われる難易度。
何故ここまで生きていられるのかと思うほどには、偶然の連続も続けている。
「はっ、は……っ……くそ……っ!」
息は絶え絶えに、腕は鉛のように重くなる。
斬撃は浅くなり、足ももつれはじめた。
その瞬間。
ずしり、と空気が歪む。
奥から影が浮かび上がった。
アビスフォールトだ。
その輪郭は人型に見えるが、縁が常に崩れ落ち、再構築されている。
深淵の裂け目に腕だけ突っ込んで形作ったような、存在してはならない形をしていた。
「……っ……!」
膝が笑う。
逃げろ、と体は叫ぶのに、後退したらカイナの方向に戻ってしまう。
「……来いよ……!こっちに……来いっっ……」
その一歩が、限界だった。
アビスフォールトの影が揺らぎ、その動きが攻撃だと理解した瞬間――
胸のあたりが焼けるように熱くなった。
「が――っ!」
視線を落とすと、腹部を深く貫かれた自分の体が見えた。
足が、地面から離れている。
いや、持ち上げられているのだと気づくのに数秒かかった。
血の味が、喉の奥にじわりと広がる。
「まだ……まだだ……!」
剣を振り上げようとするが、指が震えて柄を離れていく。
ドサリと倒れる。
視界がぼやけ、薄暗い天井がゆっくりと傾いていく。
耳の奥で、自分の心臓の音が遠ざかる。
――終わり
そう思うのに、不思議と悔しさはなかった。
ただ、ひとつ。
「……カイナ……逃げて……」
声にならない声を漏らした瞬間、彼はガクリと倒れ込んだ……




