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第1話『与えられた宿命』

 朝。予鈴を告げる鐘が、澄んだ空に響きわたる。



 可憐に。凛々しく。逞しく。


 車を降りたオレは、静かに学園の門をくぐった。



 足音に反応した女子生徒たちが、ちらちらとこちらを盗み見る。やがて歓声が起こり、自然と俺のために道が開かれる。



「見て! リュシアン様よ!」

「今日も本当に美しいわ…!」





 俺は視線を合わせ、口角をわずかに上げる。



「やあ。ごきげんよう。」




 さりげなく手を振ると、彼女たちは一斉に夢見るような顔を浮かべた。


 ——これが、俺の日常。




 アーチャー家の跡取りがメルシェン学園に入学する。それは誰もが知る事実であり、何より父・ノジェック・アーチャーの存在が、オレを世間に知らしめていた。



 


「いいですか、リュシアン。アーチャー家の名に恥じぬように過ごすのです。私の教え、覚えていますね?」

「はい、母上。」


 背筋を一本の線で貫くように伸ばし、目線はやや上へ。口角をほんの少し上げる。歩くときは音を立てず、軽やかに。


 幼い頃から叩き込まれた礼儀作法。思い出すのは苦い記憶ばかりだ。だが跡取りとして生きるなら、避けられぬ道でもある。



 


 メルシェン学園高等部。限られた者だけが通う名門校。


 生徒の多くは跡取り息子や令嬢ばかりで、豪奢な車での送迎は当たり前。


 挨拶は「ごきげんよう」。少しでも崩れれば冷たい視線が突き刺さる。




 正直、こんな生活には飽き飽きしていた。

 毎日同じ課題、同じ表情。完璧な人間を演じ続ける日々。




 心の底から誰かを想ったことはあるのか。


 涙を流すことはあるのか。


 一人の女性を恋い慕い、愛することができるのか。




 そんな、答えのない問いを抱えながら、【模範的なリュシアン・アーチャー】を演じ続けていた。



 


 ある日の放課後。

 誰もいない教室で、俺は机に向かっていた。




 家に帰れば、山のような課題と教育係が待っている。だからこそ、この時間だけは俺の聖域だった。



 針を持ち、クマの人形に綿を詰める。

 子どもの頃から可愛らしいものが好きだった。だが跡取りとして生きる俺にとって、それは誰にも言えない秘密だ。




 夕日が窓から差し込み、人形を縫う手元を照らす。

 このひとときが、何よりも愛しい。






 その時。


 ガラリ、とドアが開いた。







「……誰だ。」






 思わず手を止める。俺の静寂を破ったのは……。





「えっと…リュシアンくん?」





 同じクラスの女子、宮桃香だった。庶民出身で、この学園では珍しい存在だ。


 金色の髪が柔らかく揺れ、まっすぐな瞳で俺を見つめる。


 咄嗟に裁縫道具を鞄に押し込む俺に、桃香は首を傾げる。



「それ、なあに?」




「……なんでもない。」


「へ!! これ、人形? へぇ、リュシアンくんってこういうの得意なんだ!」


「悪かったな。跡取り息子がこんなんで。」

「悪いなんて言ってないよ! むしろ素敵だと思う!」


 そう言って、彼女は袋の中から人形を手に取り、目を輝かせる。


 なぜだ…軽蔑しないのか。俺のこんなに女々しい部分を知ったというのに。


 苛立ちよりも先に、不思議と胸の奥が緩んでいく。





 初めての感覚だった。








「ねえ、リュシアンくん。」


「くんは気色が悪いからやめろ。」


「わかった! じゃあ、リュシアン!」


「なんだよ。」


「えっへへ! あのねあのね!」





 あの日をきっかけに、オレたちは、時々一緒に帰ったり、誰もいない教室で、会話を交わす仲になった。




 今まで同級生と共に徒歩で帰ったことがなかった。桃香が初めてだった。


 普段は、爺が車で送迎する。体力を使わなくて済むし、早く帰れる。こんなメリットしかない手段を捨ててまで、オレはアイツのことをもっと知りたいと思えた。




 生き方も考えも正反対な、そんな桃香を______。





 彼女の笑顔は、オレの曇りがかった世界を優しく色づけてくれる。自分が知らなかった感情が、次から次へと溢れ出していき、言語化をするのには勿体ないくらいに。




 胸がきつく締め付けられ、何とも耐え難いような気持ち。


 それは、どこか切なくて、涙が溢れ出そうで、心がジーンと痛むんだ。




 ただ、今わかるのは、この知らない感情をくれた、彼女を手放したくない。


 これは、確かな想いだった。





 時はあっという間に過ぎ去り、ついに三月になった。



 オレは、自分の部屋で唖然とする。


 ついに、明日が卒業。


 桃香とも会えなくなる。


 オレもまた、さらなる試練が待っている…。


 その時、静かにドアを二回、叩く音がした。



 振り向くと、オレの側付きが立っていた。なにやら、かしこまった様子で、黒いスーツをビシッと決め、深くお辞儀をした。




「坊っちゃん。明日はメルシェン学園・卒業式の日でございます。今日まで、大変ご苦労でございました。」




「…ああ。お前も、ご苦労だった。」




 なんだか、嫌な予感がする。空気が急に重くなったからだ。


 しばらく間を開けてから、彼は口を開いた。






「……ノジェック様から、坊っちゃんにお話があるようで……。」






「わかった。すぐ行く。」



 きっと、卒業後についてだろう。



 オレは重厚な絨毯が敷かれた廊下を、足音を立てないように進んだ。壁には代々の当主の肖像画が整然と並び、無数のロウソクの炎がゆらめいては影を伸ばしている。金色に縁取られた額縁の視線に見下ろされるたび、背筋がさらに伸びる気がした。




 父上の部屋は屋敷の最上階――四階の奥にある。




 大理石の柱を過ぎ、真紅の絨毯を踏みしめ、漆黒の扉の前に立つ。扉の取っ手は重厚な銀細工で、握るたびに冷たさが手の中に残る。


 ノックをすると、低い声が返ってきた。



 オレはゆっくりと扉を開け、中へと入った。



 部屋には書棚が壁一面を覆い、分厚い革装丁の本が整然と並んでいた。中央の机は黒檀で作られ、その上には煌々と輝くランプが置かれ、父上の横顔を硬く照らしている。




 父上は、椅子に腰掛けたまま、かしこまった表情でオレを見つめていた。




 父上は、かしこまった顔つきを俺を見つめていた。




「リュシアン。お前を呼び出したのは、他でもない。」


「はっ! 父上。どんなご要件で?」




 オレは無意識に立て膝をつき、深く頭を下げた。



 床に触れる手に、絨毯の毛足の柔らかさと、そこに染みついた重苦しい空気が絡みつく。




「先に言っておく。卒業おめでとう。6年間、お前はアーチャー家として、生徒として、大変模範な姿を私に見せてくれた! ご苦労だった。」


「学業の方も、首席だったようだな。さすが、我が息子だ。」




 頭を下げながら、このあと何を言われるかまったく予想がつかなかった。



 父上は、オレを褒めるだけのためにこんな夜に呼び出したりしない。よほど緊急のことなのだろう。




「私は、お前に新たなステージに進んでほしいと思っている。」




 父上はオレに、ホチキス止めされた書類を渡した。


「これは…?」


「医師になるために、研修を行ってほしいと思っている。場所はここから、3,000キロ以上離れている。だが、費用は安心してほしい。既に飛行機を貸し切ったからな。」


「……いつから…ですか?」


「明日の夜だ。」




「つまり……舞踏会は……。」





「残念だが、アーチャー家の未来のためだ。お前なら、やり遂げられるだろう。私はそう信じている。」



 顔が真っ青になる。


 頭の中が真っ白になり、オレの額からは汗が流れた。





『残念』そんな簡単な言葉で、息子の卒業式も行かせないというのか…??





 いくらアーチャー家に関わるとしても。




 罪悪感という、そんな人間らしい感情もないというのか…?





「明日からのスケジュールを渡しておく。必ず目を通しておくように。」





 今回だけは、どうにも納得がいかなかった。オレはその場で固まり、持つ手が震えた。




 メルシェン学園・卒業式。場所は学園の隣にある、ベル・エタルノ城で行われる。


 この城には、伝説がある。城で踊った男女は、永遠を誓い、いつまでもお互いを見つめ合いながら生きていくと。



 脳裏に、桃香の顔が浮かぶ。




 アイツは…オレが心の奥底にしまい込んでいた感情を取り戻してくれた。


 アーチャー家の跡取り息子してじゃなく、一人の男としての、純粋な気持ち。


 彼女は、オレがダンスに誘ったら、応じてくれるだろうか。



『リュシアンがお望みなら、踊りますよ〜!』



 きっと、アイツは快く受けてくれるだろう。いつもの純粋無垢な、あの笑顔で。



 良い意味で貴族らしくない、愛おしい口調で俺に話すのだろう。











 ああ…。桃香。











 オレは桃香が好きだ。



 今だって、会いたくて会いたくて、胸が苦しい。



 迎えに行きたい。手を取って、気持ちを真っすぐに伝えたい。



 なのに………それなのに……






 オレは、父上から渡されたスケジュール表を更に、きつく握りしめる。破れるほどに、強く。







 生まれた家が違うだけで。









 たったそれだけで、一人の女性を愛することさえ許されないのか。

 







 胸の奥で、どうしようもない叫びが燻っていた。

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