そして誰も正しくなかった
この学園には、三つの掟がある。
一、王太子の言葉は絶対。
二、聖女候補には逆らうな。
三、氷の令嬢アナスタシアには近づくな。
私はその三つを、忠実に守って生きてきた。 カイ・ノクス。氷の令嬢のお付きの従者である。 ……いや、もっと正確に言おう。
「何もしないことに特化した、極めて有能な家具」。 それが、私の職務の本質だった。
アナスタシア=フォン=ルーベンス様は、学園内で最も嫌われていた。
理由は簡単。完璧すぎるのだ。 容姿端麗、成績優秀、礼儀正しく、誰にも媚びず、そして王太子の婚約者。
その王太子――アルノー殿下。 彼がまた、神々が暇つぶしで生み出したような喜劇的人物であった。
彼の才能は三つ。 声が大きい。勘違いが早い。責任転嫁が得意。
「氷の令嬢は、俺を冷たくあしらうのだ! 女とは、俺に跪くべきだろう?」
……と、彼は本気で信じていた。 そんな王太子にひたすら「お美しいですね」「高貴な思想ですわ」などと太鼓を叩くのが、取り巻きの仕事だった。
当然、誰も彼に逆らえない。 なぜなら逆らった者は、翌朝「平民に唆された」として校門に吊るされるからだ。
学園内は理不尽と虚飾で彩られていたが、生徒たちは不思議と順応していた。 中には、氷の令嬢を敵役に仕立て上げることで、自分たちの凡庸さを隠している者もいた。
「アナスタシア様、怖いよね」「あの人、きっと裏で悪いことしてるよ」
そう言っている者ほど、彼女が裏で孤児院や貧民街に支援物資を送っていることなど知らない。
もっとも、それを知ったところで、彼らの評価が変わるとは思えなかった。
なにせこの国では、“善意”ほど火付きのいい薪はないのだから。
ある日、学園に噂が流れた。
「アナスタシア様が、反王制組織と通じているらしい!」
情報源は王太子の側近。名をギャルリ・ド・カカロット侯爵令息という。
脳の大半が金粉で構成されていることで有名な、極めて無害な存在だったが、王太子の耳元で囁いた瞬間、事態は急転した。
「反逆だ! 国家の敵だ! 学園の秩序を乱す存在は、今すぐ断罪すべきだ!」
──これを、学園最高権力者が高らかに宣言したのである。
「ご覧ください、この帳簿を! 氷の令嬢が、庶民どもに金をばらまいている証拠ですぞ!」
そう叫びながら取り出された帳簿は、アナスタシア様が匿名で孤児院に支援していた記録そのものだった。
それをもって彼女は、反体制派と断定された。
「民衆を味方につけ、王政を転覆せんとした野心家」
というレッテルが貼られた。
当のアナスタシア様は、ただ一言、こう答えた。
「誤解を招いたのなら、私の責任ですわ」
いつもと変わらぬ微笑み。 それは、正しさなど意味を持たない世界での、最上の振る舞いだった。
学園内で、即席の裁判が行われた。 判事は王太子、補佐は聖女候補マリア。
マリアは終始、俯いたままだった。
あの方は、何も悪くない。 それを誰よりも知っていたのは、彼女自身だったはずだ。
それでも何も言わなかった。 言えば、自分が“正しさ”の火に巻き込まれることを知っていたからだ。
そして、全会一致で追放が決まった。
王太子は、その日のうちに聖女候補マリアとの婚約を発表。 学園中は祝賀ムードに包まれた。
私はその中心で、いつものように紅茶を注いだ。 主のいない席に、慣れた手つきで。
三ヶ月後。
アナスタシア様が疫病で亡くなったと知らされた。
誰にも看取られず、支援していた孤児たちは奴隷として売られたという。
王太子は隣国に王位ごと売られ、十日で追放。 取り巻きたちは互いに裏切り合い、次々に没落した。
聖女マリアは神の声を聞くようになり、修道院で暮らしている。
そして私は。
変わらず、この学園にいる。
誰に仕えるでもなく、従うふりをして紅茶を注ぎ続けている。
なぜなら私は、「忠実な従者」だから。
正しさに従う者ではなく、黙って“世界の狂気”を見届ける者だから。
主が最期に言った言葉を、私は忘れない。
「正しさは、ときに最も愚かな暴力になりますわね」
彼女は、世界にとって“都合のいい悪”だった。 だからこそ、笑顔で燃やされた。
世界は今日も、美しく間違っている。
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
正しすぎる人が疎まれ、無害な者が英雄になり、誰もが「善人」として誰かを裁いていく――そんな、現代にも通じるような寓話を意識しました。
主人公は従者であり、従者でしかなく、自らの感情も表に出さない。
けれどその無表情の奥には、誰よりも深い諦めと哀しみがある……そんな人物です。
「悪役令嬢」というジャンルの裏側、あるいはその“失敗例”のようなものとして、受け取っていただければ幸いです。
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