ある視線
――え……?
アパート暮らしの大石という男がいた。その夜、彼はふと部屋の中をゆっくりと見回し始めた。唐突に、何かの“気配”を感じたのだ。しかし、部屋の様子は朝出かけたときとまったく変わらない。玄関と窓の鍵はきちんと閉まっており、誰かが侵入した痕跡もない。
だが感じる。言葉では説明しようのない、確かな存在感がそこにある。
大石は戸棚の隙間、押し入れの中、カーテンの裏――思いつく限りの場所を調べ尽くした。
何も見つからない。しかし、諦めて布団に潜り込んだあとも、その気配は消えることはなかった。
やがて、大石は確信した。間違いない、自分は――。
「幽霊に取り憑かれたみたいなんだ……」
一週間後の晩。居酒屋のテーブルを挟んで向かい合う友人に、大石はそう打ち明けた。
友人は「はあ?」と言いかけ、言葉を飲み込んだ。目の下には濃い隈、頬はげっそりとこけ、顔色も悪い。冗談を言っているようには到底見えなかった。
「幽霊……か」
「ああ、もう頭が変になりそうだ……」
大石はテーブルに肘をつき、顔を両手で覆った。肩は小さく震えている。精神科を勧めたいところだったが、まずは親身に話を聞いてやる必要がありそうだと友人は考え、神妙な顔を作った。
「……信じるよ。それで、どんな幽霊なんだ?」
「どんな……?」
「男か? 女か? 何か恨まれるようなことをしたとか、最近、身近な誰かが亡くなったとか、そういう心当たりはないのか?」
「わからない……」
「いないか……じゃあ、若いのか? それとも年寄りか?」
「いや、だからわからないんだ。見たことがないから」
「ん? 見たことがない?」
「そう。だから、どんな姿をしてるのかも、まるでわからない」
「え、じゃあ、なんで幽霊だとわかるんだ? 声でも聞いたのか?」
「いや……」
「じゃあ、何かメッセージが残されていたとか」
「いや……」
「物が勝手に動いたりとか」
「いや……」
「……じゃあ、何が起きたんだよ」
「何も……何も起きてないと言えば、何も。でも、視線を感じるんだ。ずっと……間違いない。今も誰かがおれを見てるんだ……」
友人は小さくため息をついた。これは、ノイローゼか何かだ。仕事か人間関係のストレスで、精神を病んでしまったのだろう。
「どこからかはわからないけど、ずっと見られてるんだよ。上からか、正面からか……なあ、お前は感じないか? 村田」
「そんなの――」
感じない。そう言おうとした村田は、口を閉じた。
今まさに、妙な感覚が背筋を這い上がってきたのだ。まるで何かが自分を注視しているような。それは、白い紙に墨汁を垂らしたように、じわじわと背中一面へ広がっていく。
村田の変化に気づいたのか、大石がわずかに口角を上げた。
「どうしたんだ、村田。まさか……お前も感じたのか? なあ、村田、村田、村田、村田村田村田……」
名前を繰り返し呟きながら、じっと自分を見つめる大石に、村田はぞっとした。だが、その恐怖は次の瞬間、さらに大きなものに塗り替えられた。
圧迫されるような重さ、皮膚が焼かれるような感覚――間違いなく、誰かの無数の視線が全身にまとわりついたのだ。
「やめろよ、大石……なあ、大石……」
「村田、村田。紺色の背広を着た三十代……」
「なんだよ、急に……お前は白のくたっとしたワイシャツだな、大石……」
「村田ぁ……村田、村田、黒髪短髪の村田……地毛が少し茶色い村田……」
「大石、大石、大石、お前はおれより少し髪が長い、大石……」
「村田、村田、こいつは村田……」
「大石、大石、大石、こいつが大石……」
「村田、村田、村田……」
二人は向かい合ったまま、ひたすら互いの名前を反復し続けた。
異様な空気が、湿り気を帯びて、じっとりとあたりに染み込んでいく。そのとき――
「おーい、村田! お前もこの店に来てたのか。そっちは友達か?」
「おお、井上! 山岡!」
不意の声に、村田は弾かれるように顔を上げた。そして、ひどく明るい声で言った。「ああ、こいつは友人の大石だ!」
「ははは、そんなに大声出すなよ。どうも、村田の同僚の井上です……うっ」
「どうも、山岡です……え」
「初めまして。村田の同僚の井上さん、山岡さん。井上さんは背が高いですね。山岡さんは若いなあ、後輩さんかな? 井上さん、山岡さん、井上さん、山岡さん、井上さん、山岡さん……」
「おいおい、大石大石、そんなに名前を連呼するなよ。なあ、大石」
「ああ、お二人ともすみませんね。覚えが悪いもので。井上さん、山岡さん」
「い、いえ……」
「え、ええ……あの、なんか、二人ともちょっと変じゃありません? それに、何か妙な……視線のような……」
「そんなことないよなあ、村田村田村田」
「そうだよなあ、大石大石大石……あっ、そうだ、他の奴も呼ぼう、なあ、いいだろ?」
「ああ、いい考えだな、村田。おれも呼ぶよ……」
視線は分散できる。そのことに気づいた二人は、知人を呼び続けた。井上、山岡、田所、笹田、星野……。
だが、時間が経つほどに視線は増えていった。じっと眺めるような、あるいはさらっと流すような。哀れみ、嘲り、興味――無数の視線が彼らを囲い、絡みついた。
それがどこから向けられているのか、誰のものなのか、彼らには決してわからない。
ゆえに、想像するしかない。
あなたたち読者の視点から……。