後宮の怪異【陸】
一度屋敷に戻り、仮眠をとってから再び大内裏に来た。しばらく寝不足になる気がするが、仕方がない。期間限定であるし。
中務省で女官の経歴書を出してきて目を通す。持ってきた侍従は「今さら見てどうするんですか」と首をかしげている。時嵩が中書王になった時点で、すべての女官人事に目を通したのを覚えているのだ。
「ちょっとな」
五十鈴に指摘された者だけでも調べて行かなければ。通常業務もあるので、何とか時間を捻出する必要がある。五位少納言は侍従を兼任しており、中務省に籍を置いているので話を聞くことができる。そこでふと、時嵩は経歴書を持ってきた侍従を振り返った。
「お前、五位少納言や頭中将とかかわりはあるか?」
中原家の出である彼も、五位少納言も侍従だ。業務が被るはずなので、交流があってもおかしくない。頭中将はついでだ。
「清侍従ですか。会えば話くらいはしますね。頭中将様については、中書王様の方が詳しいのではありませんか」
誰に聞いてもそう言われるので、頭中将の情報を集めるのは難しいかもしれない。確かに、年齢も身分も近いので、交流はあるのだ。友人かと言われるとよくわからないが、仲が悪いわけではない。
「では、五位少納言のことで、最近、おかしなところなどはないか?」
「おかしな……? あっ、もしかして、麗景殿と宣耀殿の女房の話ですか?」
鋭い。中侍従と呼ばれている彼は、こういう察しのいいところが帝に気に入られているのだと思う。時嵩はうなずいた。
「今、内裏の怪異を調べているからな」
「なるほど……その女房が原因と言うことですか」
「いや、そういうわけではないが、原因らしきものはできるだけ調べておきたいからな」
「それもそうですね」
帝に関わる職務の多い中務省だ。後宮に関わることも多い。そうでなくても権力争いに近いところにいるので、できるだけ情報を集めておこうと思うのは不思議なことではない。
「どうやら、清侍従自身ではなく、女房の後ろ盾の問題のようですよ」
麗景殿の女御は左大臣の娘だ。対して、橘家の娘である宣耀殿の女御は右大臣の娘だ。年齢は、宣耀殿の女御の方が二つばかり年上で、入内したのも彼女が先だ。
とはいえ、年齢が近く、二人とも子がいない。後ろ盾も対立しているので、この二人の女御が対立するのは仕方のない話なのだ。五位少納言は中立の立場だったと思うが、今を時めく左大臣の恩恵にあずかろうと、麗景殿の女御に仕える女房と恋人になったのだろう。しかし、どうやら母親が右大臣の後援を受けたようだ。そのため、麗景殿の女房ではなく、宣耀殿の女房と結婚することになった……ようだ。
ちなみに、今のところ唯一子のいる女御である弘徽殿の女御は、他の女御たちと対立と言う関係にはなっていない。子がいる以上、頭一つ抜けているし、弘徽殿の女御は王の女御でもある。父親も一品親王であり、対立する必要がないのだ。女御自身も立ち回りがうまいし、全体的に落ち着いた雰囲気の殿舎である。と言っても、麗景殿や宣耀殿の女御たちとさほど年齢が変わらないはずだが。
ともかく、五位少納言にとって選択肢はなかったということだ。だが、恋人だった麗景殿の女房にとっては関係ない。……そこまで考えて、現場が内侍司のある温明殿である以上、この二人が関係している可能性は低いと思いだした。だが、一応五十鈴にも報告しておこう。
しばらく仕事を片付けていると、再び中侍従が顔を出した。
「中書王様」
「どうした」
「尚侍の君が丹波の典侍に暇を出すとおっしゃっているのですが……」
丹波が女嬬をいびっていたという典侍か。尚侍の君の耳にも入ったらしい。問答無用に辞めさせるのではなく、一応、女官も管轄している中務省に報告を入れてくれたようだ。律儀である。時嵩は少々苦手だが、仕事はしやすい相手である。
身分を考えれば、典侍が女嬬をいびっていたことは問題にならない。けがをさせたとかいう話でもないし、普通は捨て置かれる。しかし、尚侍の君はそうしないことで、後宮の女房達の風紀を改めたいのだろうと思われた。
「こちらは構わない。尚侍の君の差配に任せる」
「……いえ、三条大輔が怒って内侍司に行ってしまいました」
内裏は気軽に行く場所ではないが、中務省は人事を管轄しているため、多少目こぼしされることが多い。尚侍の君ではないが、中務省の風紀も改めた方がいいかもしれない。
「書状を書く。三条大輔を呼び戻せ」
残る形で書状を書き、尚侍の君のいいようにしてもらう。三条大輔は厳重注意だ。昼間の温明殿周辺の様子も見たいので、せっかくなので自分で向かうことにする。うまい具合に三条大輔を捕まえられたので、実際に女房達を管理しているのは尚侍の君なので、彼女に任せるように伝える。三条大輔は時嵩をにらみ、吐き捨てた。
「あやしの宮が、図に乗るな」
「……」
輔は長官のすぐ下の地位であるが、一応時嵩は親王なのだが。あきれて眉をひそめた時嵩の脇をすり抜け、三条大輔は中務省の方へ戻っていく。
「今のはあなたも悪いですよ、宮様」
「薫」
欄干から顔をのぞかせるようにこちらを見上げていた若い男性が、親し気に声をかけてきた。実際に親しいのだと思う。頭中将だ。薫と言うのは彼の幼名の一つで、年齢が近いことで昔からやり取りがある時嵩は、彼をこの名で呼んでいた。まあ、斎宮の君を五十鈴と呼ぶのと同じことだ。
「どういう意味だ?」
欄干に寄りかかって頭中将に尋ねると、彼は苦笑気味に「そう言うところですよ」と言った。
「身分を振りかざさず、清廉なところですよ。元から身分も地位もある上に、それらに見合った能力を持っている。同年代の男としては、比べられてはたまったものではない」
「……碧眼を気味悪がられているのだと思っていたし、薫は私よりもよくできた男だと思うんだが」
「まあ、そういう者もいるでしょうが、その神秘的なところも宮様の魅力の一つですよね。私は好きですよ。ただ、私も『冬宮』様の方が好き、とよく言われるのですよ」
時嵩は冬宮とも呼ばれている。『東宮』ではない、『冬宮』だ。碧眼が寒々しい冬を連想させる、と言うのもあるかもしれない。ついでに、時嵩は冬生まれでもある。
「宮様は妙に自己評価が低いですけど、宮様のようなできた男の謙遜は逆に嫌味ですよ。そこをもう少し考慮した方がいいですよ。たまには権力を振り回すようなことも必要です」
にこにこと笑って、仮にも皇族相手に言うことではないが、頭中将もこれくらいで時嵩が怒らない、とわかっているから言うのだ。それがわかるくらいの付き合いはある。
「まあ、三条大輔はくだらない且つ不毛なあなたへの嫉妬が原因ですから、気にしなくてもいいのではありませんか」
「どっちだ」
先ほどと言っていることが違うので時嵩が眉を顰めると、頭中将はおかしそうに笑った。この機会だ、と時嵩は尋ねた。
「薫、最近、掌侍と何かあったか」
時嵩はこういう探りがうまくないので直球で尋ねた。後宮の怪現象の件ですね、と頭中将が言うので、うなずいておく。彼の耳にも入っているようだ。
「そうですねぇ。匂当内侍は未だに返事をくれないのですよ」
「だろうな」
さもありなん、と言ったところだ。匂当内侍は堅実な女性である。となれば、頭中将になびかないのも理解できる。
「紀伊という掌侍にも手を出しているんじゃないのか」
「宮様、少し情報が古いですよ。確かに髪も美しく、月の精のように美しいですが、少々頭が悪い」
「そうか」
どうやら、美貌だけで掌侍に抜擢された紀伊は、頭中将の目にかなわなかったようだ。本当に完全に、紀伊の独り相撲なのかもしれない。頭中将ならば恋文の一つも贈っただろうが、その返歌がよくなかったのだろうか。
「宮様はああいう娘がお好みですか」
気にかけてやると喜ぶのでは、と言われたが、首を左右に振っておく。時嵩も紀伊を確認してきたが、恋人を作るつもりはないし、好みでもない。
「ですよね。宮様は斎宮の君のような方がお好きですよね」
「何を言っているんだお前は」
本気で怪訝に思ったのだが、頭中将は取り合わない。
「何をおっしゃいます。二日続けて夜に逢瀬をしていたと評判ですよ」
「……」
「恋文の一つでも送れば完璧です」
完璧に状況証拠が出来上がる、と指摘したいのはわかった。からかっている風情だが、これは頭中将が周囲からどう見えているかを指摘しているのだということを理解した。
「……そうか」
だが、五十鈴と協力体制を敷いていて、彼女を後宮から出すよりは時嵩が彼女の元へ赴いた方が都合がいいので、この噂に関してはどうにもならない。
「妹が『中書王は弘徽殿の女御様の味方なのだ』と怒っていましたよ」
なんと、この短時間の間に、頭中将は妹である麗景殿の女御の様子も見てきたようだ。まめな男だ。ちなみに仕事もできるし、人望もある。
「麗景殿は最近の怪異で少々緊張状態になっているようですね。どうやら、麗景殿では宣耀殿が、宣耀殿は麗景殿が犯人だと思っているようです。調べている宮様や弘徽殿の手前、まだにらみ合っているだけですが、早晩つかみ合いの大喧嘩になりそうに見えました」
こういう話をペラペラしゃべってくれるので、頭中将は紀伊と浅い関係を続けているようだ。口が軽いのは内裏女房として少々問題だが、今のところ重要情報を漏らしたわけでもないので、据え置きだ。
もしかしたら、五位少納言の恋人だという麗景殿と宣耀殿の女房の話もここに関わってきているのかもしれない、とふと思った。時系列で考えてみる必要もありそうだ。
「で、宮様の見解は?」
好奇心丸出しで頭中将が尋ねた。時嵩は首を左右に振り、「まだ不明だ」と答えた。今日、五十鈴が持ち帰ってくる情報によっては何かわかるかもしれない。そうですか、とつぶやいた頭中将はふと真剣な表情になり、言った。
「宮様。少しでも長く斎宮の君と一緒にいたいからと、事件解決を先延ばしにしないでくださいよ」
「するか」
確かに久々に会った五十鈴とは積もる話もしたくはあるが、私情をはさむには二人とも真面目過ぎた。
すっかり長居してしまったが中務省へ戻る。頭中将と別れたところで、各殿舎の女房達がこちらを伺っているのに気づいて驚いた。頭中将は愛想よく手を振っていたので、女房達からきゃあ、と歓声が上がっていた。
温明殿の結界を伺う。五十鈴の力は強く、強固な結界が張られているのがわかる。相手が術師などでなければ、そうそう破られないだろう。
「あ、中書王様、よかった。今呼びに行こうかと」
中侍従が時嵩を見つけて呼びかけてきた。なかなか戻ってこないので、探しに行こうとしていたらしい。なぜなら。
「主上がお呼びです」
「……忙しいのだが」
「わかっています」
忙しいからと、帝からの呼び出しに答えないわけにはいかない。時嵩は中務省には寄らずにそのまま帝のいる清涼殿に向かった。清涼殿では、尚侍の君が帝の側に侍っていた。いや、それが仕事だからそれでいいのだが、だから温明殿のあたりが少々騒がしかったのだな、と思った。
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