宿下がり【肆】
時嵩は朝一で出仕していったが、那子も那子で忙しかった。時嵩を見送った那子は、まず、茅子の元へ向かった。
「おはよう。よく眠れた?」
「お姉様……はい。少し、寝不足な気がしますけれど……」
そう言いながらも、茅子は身支度を整えて脇息にもたれていた。女房達がせっせと世話を焼いている。那子には医術の心得はないが、それほど顔色は悪くない、と判断した。
茅子の局には、昨日用意した屏風がまだ置かれていた。境界を作ることは簡易的に結界を作ることになるので、これはこのまま置いておくことにする。異様な光景ではあるが、そんなにすぐに変わりのものを用意できない。
「うーん……」
茅子に協力してもらい、那子は水鏡に茅子が夢の中で見たと言う人の顔をした獣、を確認していた。幸い、那子と茅子は両親を同じくする姉妹なので、血が近い。そうなると、こういった作業がしやすくなる。厳密に言うと那子は時嵩の姪にあたるので、ここも血がつながっているが、時嵩と那子の父久柾は異母兄弟だ。ここで血の隔たりができて時嵩とはこういった作業がしにくい。
なんだろう、これ。やっぱり妖の類に見えるが。式、ではなさそうだ。
「中の君様、大丈夫なのでしょうか。倒せますか?」
逸って尋ねるのは茅子の女房だ。自分の主ではないとはいえ、主君筋の姫君に対する言葉づかいではなかったので、茅子にたしなめられている。
「倒せるかは、宮様と相談かしら」
場合によっては那子でも排除できるが、彼女は攻撃能力が低い。ものによっては対処できないのだ。その場合は時嵩と相談になる。尤も、今回の場合は茅子の夢に出てきているので、どちらかと言うと那子の管轄だろうか。
「ひとまず、昨夜と同じ方法で入り込むのを防ぐことはできる……と思う。でも、それだけじゃ不安だから、今からお父様と相談して、お守りを強化しよう」
あれだけの呪具を用意した久柾だ。ほかにも抱え込んでいる可能性がある。それを出させてやる。可愛い娘のためだ、否とは言わないだろう。
「中の君様に一緒にいていただくといのは……」
「浮橋、おやめ。お姉様は伊勢の斎宮を担った従二位の女王よ」
浮橋と呼ばれた女房が口をつぐむ。今頃思い出したという表情だ。まじまじと見つめられ、那子は苦笑した。
「まあ、今回は聞かなかったことにしましょう」
那子としては、茅子と倭子を公平に扱わねばならない。どちらかと言うと倭子に重きを置かなければならないから、茅子の女房達が茅子がないがしろにされている、と感じるのはある程度仕方のない話だと思っている。だが、彼女らはそれを飲み込まなければならない。この状況で同じ妊婦だったとしても、優先されるのは帝の子を宿している倭子であるからだ。
「ごめんなさい、お姉様……」
「茅子のせいではないわ。大丈夫だから、落ち着いて過ごすのよ」
と言っても、難しいだろうなぁと思う。あまりにも茅子がしょげているので声をかけたが、気休めにしかならないことは那子もわかっていた。
そのまま北対の倭子の様子を見て異常がないのを確認すると、父母の元へ向かった。
「お父様」
「ああ、那子」
母と一緒にいた父は、すぐに招き入れてくれた。久柾が書斎として使っている場所で、父は調べものをしていたが母は縫物をしていた。
「倭子と茅子の様子を見てきてくれたのだろう」
「一応。茅子のところの女房達が参っていますね」
自分の主が被害を受けていると言うのもあるだろうが、単純に肝の据わり方の違いのような気もする。おそらく、倭子のところの女房達は、ここまで動揺しないだろう。
「全く。茅子が何も言わないからそのままにしているけれど、主を不安にさせるような態度は女房失格よ」
憤っているのは久柾よりも朔子だった。那子は苦笑する。確かに、直接の被害者である茅子の方が落ち着いていた。母もいざと言うときは肝が据わっている方なので、血筋なのかもしれない。
「ちょっと妙ですけれど、屏風はそのままにしてあります。結局、ああいうのが一番効くんですよね……」
「単純なものほど、力が強いものだからな」
久柾がうなずいて同意を示した。術が複雑になると、その分ほころびが生じやすいのだ。単純な術式ほど、強力だったりする。
「どうする? いくらお前と私でも、これ以上結界を強化するのは難しいぞ」
「宮様にもやめた方がいいと言われておりますので、別の方法を考えなければ……ひとまず、お父様にお守りを用意していただければと思うのですが」
すでに久柾と那子の張った結界でがっちがちに固められている五条の邸だ。これ以上結界を強化すると、些細なものでもはじき出されてしまう。特に、時嵩がはじかれてしまうだろう。久柾たちが外に出るのも難しくなる。
「ああ、壊れていたからな。あれより質は落ちるが、一つ用意させている。それと、蔵人佐にこちらに来てもらうように声をかけようと思う」
きりっとして久柾が言ったが、一品親王に声をかけられたら、蔵人佐には断るすべがないと思う。妻の父が親王なのは仕方がないが、今、妻の姉である弘徽殿の女御が宿下がりしているし、妻の下の姉がやはり親王を夫としている。あまり面識のない蔵人佐の足が遠のくのは仕方のない話に思えるが、そうはいっていられない。
「今回は精神的な攻撃がなされている気がしますからね。茅子の心が落ち着く方針を取った方がよろしいでしょう」
「ああ」
呪詛ではないと思うが、こういった攻撃は防ぎにくい。一番いいのは、茅子の心が落ち着いて攻撃の隙を与えないことだ。この精神、というのは難しい。
「物理的なことについては、臘月が来てくれるからな」
にやっとして久柾が言った。那子は憮然とする。時嵩は那子の夫であるから、妻の実家である五条邸に住まうのは別におかしな話ではないのだ。
しかし、久柾が言いたいのは、時嵩がいることで高まる攻撃に対抗する力のことだろう。ある意味最強の防御であると思う。那子は結界術が得意であるし、鉄壁に見える。
それでも呪詛を完全に防ぐことはできない。今回の件は呪詛ではない気がするが、入り込んでくるのは時間の問題だ。それに、茅子の精神状態を考えると、あれは払ってしまいたい。
「茅子は夢で対面したと言っていました。おそらく、そういう妖の一種なのだと思いますが」
ものとしては以前、真名を封じられた田津のものと近い。しかし、あれは宇治重玄の術であったし、今回はそういう妖なのだと思う。どちらにせよ、精神的に作用するのは一緒だが。
「難しいな。私もお前も、臘月もその手の力はない」
「そうですわね……」
久柾の言う通りだ。陰陽師などだと、できたりするらしいが。精神的に作用するものは難しい。那子も暗示は得意だが、そもそも茅子も霊的素養は高いので、その手の術は効きにくい。
逆に、妹であるゆえに夢に入りやすい。夢殿へ入り、排除することも考えなければならない。
「茅子の守りは強化しておく。お前は臘月が帰ってきたら相談しなさい。勝手に一人で行動するのではないぞ」
「はい」
那子が夢殿に入るのが一番確実だと思うが、たぶん時嵩も久柾も許さないだろうなぁと思った。釘を刺されたのでおとなしくしていることにする。
「那子。お前は倭子と茅子のことばかり気にかけるけど、お前は大丈夫なの?」
朔子が心配そうに尋ねた。半年ほど前まで、那子はとても怯えていた。宇治重玄に狙われているのがわかっていたし、その目的について時嵩や久柾が脅してきたからだ。しかし。
「はい。おそらく、狙われるのは妊婦ですし、わたくしは身ごもっていませんもの」
何より、今は宇治重玄が活動不能に陥っている。彼の使う術は高度であるが、霊力勝負になると時嵩には及ばない。那子とはいい勝負の可能性があるが、自分より強い時嵩の一撃を食らっている。もうしばらくは活動不能なはずだ。
つまり、那子の危険は姉妹たちに比べると低いのだ。心置きなく活動する所存である。
「過信は危険だぞ。お前も重々気をつけよ」
「わかっております」
苦言を呈してきた久柾にしらじらしくうなずいて見せる。いや、那子だって自分の能力の限界をわかっている。危ないことをする気はない。
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